第18話 珊瑚は何を覚えているか
この海の珊瑚は、記憶から育つ。
灯台で、誰かがそう話していた。誰かが覚えていることが、海水に溶けて、少しずつ石灰の枝になる。だから、浅瀬の珊瑚は翠に光り、忘れられたものの上では、白く崩れて雪になる。
では、終わらなかったものの上では、何が育つのだろう。
【深度 -3,000m/沈都層・南の庭園】
*
南の庭園は、白かった。
花壇も、噴水も、ベンチも、すべてが白い珊瑚に覆われていた。枝の先が、触れる前から崩れて、粉のように舞う。街のほかの場所に灯っている琥珀は、ここだけ、一つもない。
その真ん中で、小柄な深民が、両手を地面に当てていた。
手のひらの下から、細い緑の芽が、一本だけ伸びかけている。
【深民「スイ」 珊瑚術士】
「静かにしてね」
スイさんは、顔を上げずに言った。
「今、聞いてるところだから」
僕たちは、息をひそめた。泡殻の中の呼吸の音さえ、うるさい気がした。
緑の芽は、指一本ぶんだけ伸びて、そこで止まった。先端が、ゆっくり白くなる。
「……だめか」
スイさんは、ようやく手を離した。
「ここの珊瑚は、白すぎる。覚えていた人が、もう誰も覚えていないから」
「白い珊瑚から、記憶を戻せるんですか」
「戻せはしないわ。聞くだけ」
スイさんは、立ちあがって、膝の粉を払った。
「珊瑚は、育ったときの記憶を、枝の芯に持ってる。白くなっても、芯だけは残る。そこに、生きた珊瑚を一本、継ぎ木するの。継いだ枝が白くなるまでの、ほんの少しのあいだだけ、芯の記憶が、声になる」
「どのくらい」
「長くて、七秒」
七秒。
ウタの「ようこそ」の間と、同じ長さだった。
*
「手伝えることは、ありますか」
僕は訊いた。
「あるわよ。生きた珊瑚には、生きた記憶が要る。ここの白に負けないくらい、濃いのが」
スイさんは、僕たちの顔を、一人ずつ見た。
「誰か、この街のことを、何か覚えていない? ほんの少しでいい。色でも、形でも」
沈黙があった。
この街のことを、覚えている人。
ウタは、足が台座の高さを覚えている。シオネさんは、歌のなかほどを覚えている。
そして、僕は。
「書体を」
言葉が、先に出た。
「この街のチケットと、横断幕の書体を、僕は覚えています。七年前に、僕が選んだ。見本帳を、何十冊もめくって」
スイさんは、まっすぐに僕を見た。
「それは、濃いわね」
スイさんの手が、僕の手首に触れた。冷たくはなかった。深民の手は、泡殻ごしに、少しだけ温かい。
「思い出して。できるだけ、細かく」
僕は、目を閉じた。
横画の終わりが、少しだけ丸い。払いが、水に溶けるように細くなる。夜の画面でも読めるように、ほんの少しだけ字間をあけた。
その夜の、机の上の、冷めたコーヒー。モニターに映った試し刷り。後ろから覗きこんで、赤ペンで丸をつけた、誰かの手。
――これにしなさい。夜に読む字だから。
あの声。
目をあけたとき、スイさんの手のひらの下から、緑の芽が、勢いよく伸びあがっていた。
「今」
スイさんが、芽を白い枝の芯に押しあてた。
*
音が、した。
大勢の人の、ざわめき。
広場の方角から。何百人もの、楽しげな、少し浮かれた声。屋台の呼びこみ。子どもの笑い声。木の床を走る足音。
『――まもなく、最終夜イベントを開始します』
放送の声だった。若い女性の声。少しだけ、緊張している。
『本日は、___へお越しいただき、ありがとうございます。十一時十五分より、花火の打ち上げを行います。お客様は、広場の――』
街の名前のところだけ、音が抜けていた。そこだけ、無音の空白が、三拍ぶん。
ざわめきの中に、ひとつだけ、近くの声があった。
『ねえ、まだ?』
子どもの声だった。
『まだよ。もうすぐ。あと一分』
大人の声が答えた。
あと一分。
十一時十四分。
『――お知らせします』
放送の声が、変わった。さっきと同じ人の声なのに、調子がまるで違った。原稿を、読みあげている声。
『本日の――』
そこで、緑の枝が、白くなった。
七秒。
声は、ぷつりと途切れた。
庭園に、また、何の音もなくなった。珊瑚の雪だけが、さっきより少し多く、降っていた。
*
誰も、すぐには口をきかなかった。
最初に動いたのは、ウタだった。白い珊瑚に覆われたベンチに近づいて、その表面に、そっと手を置いた。
「ここ、座ってた」
「誰が?」
「わかんない。でも、あの声の子、ここに座ってた気がする。足が、とどかなくて、ぶらぶらさせて」
僕は、いま聞いた声と、住宅区の客間のことを、頭の中で並べなおした。
最終夜イベントは、始まる直前だった。客は、いた。少なくとも、広場の周りには、何百人もの声があった。
では、住宅区の客間は。百七軒の、灯ったままの窓は。
泊まる客は、来なかった。
つまり、あの夜、人々は集まった。最後の花火を見るために。そして、花火が上がる一分前に、放送が変わった。
「本日の」
ミナモさんが、ゴーグルの奥で、その言葉を繰り返した。
「本日の、何」
「たぶん」
僕は、言いかけて、やめた。
設計者の耳には、その続きが分かった。原稿を読む声。急に変わった調子。「お知らせします」と「本日の」の順番。何百回も、自分で文面を直してきた種類の放送だった。
けれど、それを口に出すのは、まだ早かった。推論には、もう一つ、確かめなければならない前提が残っていた。
あれが、誰の判断だったのか。
「名前は」
スイさんが言った。
「名前は、聞こえなかったわね。街の名前のところだけ、あそこでも、白かった」
珊瑚の記憶の中でさえ、この街の名前は、白く抜けていた。
忘れられたからではない。
最後の夜に、誰かが、その名前を持ち去ったのだ。
*
帰る前に、スイさんが、緑の芽の残りを、僕の手のひらに乗せた。
小指の先ほどの、小さな枝。まだ、白くなっていない。
「あなたの記憶で育った枝よ。持っていきなさい」
「どうして」
「この街で、緑の珊瑚を育てられたのは、あなたが初めてだから」
スイさんは、白い庭園を見渡した。
「覚えている人がいれば、珊瑚は育つ。この街に足りないのは、灯りじゃない。覚えている人なの」
小さな枝は、僕の手の中で、かすかに翠に光った。
その光を見ながら、僕は、あの赤ペンの手のことを考えた。
――夜に読む字だから。
七年前、僕の肩ごしに丸をつけた、右上がりの字の人。
あの人は、この街の最後の夜を、知っていたのだ。
【LEVEL UP!】×3 Lv 22 → Lv 25
PRS 300 → 330
白い庭園の縁で、遅れて、ファンファーレが鳴った。戦ってもいないのに。
思い出すことも、この海では、経験になるらしい。




