第17話 歌を継ぐ者
ウタの歌には、言葉がない。
六つほどの音。上がって、少し下がって、また上がる。そして、終わりまで行かずに、途中でふっと消える。
浅瀬で初めて聞いた夜から、僕はずっと、あれは未完成の歌なのだと思っていた。書きかけの、続きのある歌。
沈都で、その続きを知っている人に会った。
【深度 -3,000m/沈都層・水路】
*
街の西側には、水路があった。
海の底に、水路がある。おかしな話だけれど、そこだけ水の色が違った。群青の中を、もう少し澄んだ、硝子のような水が、ゆっくり流れている。
その岸で、誰かが歌っていた。
六つの音だった。
ウタが、僕の袖をぎゅっとつかんだ。
上がって、少し下がって、また上がる。ウタの歌と同じ旋律。けれど、ウタがいつも消えてしまうところで、その声は消えなかった。
七つ目の音へ。八つ目へ。旋律は、ゆるやかに下りながら、まだ続いていく。
岸に座っていたのは、長い髪を三つ編みにした深民の女性だった。膝の上に、貝殻を何枚も糸で綴った、帳面のようなものを載せている。
【深民「シオネ」 歌継ぎ】
「……あら」
シオネさんは、歌をやめて、こちらを見た。それから、ウタを見て、目を丸くした。
「案内役の子。まだ、いたの」
ウタの指が、僕の袖の中で、冷たくなった。
「わたし、ウタ」
「ウタ」
シオネさんは、その名前を、口の中で一度ころがした。
「いい名前ね。歌の子に、歌の名前。誰がつけたの」
ウタが、僕を見上げた。
「ルカ」
「そう」
シオネさんは、僕を見て、少しだけ頭を下げた。
「ありがとう。あの子たちには、番号しかなかったから」
*
「この歌は、街の歌なの」
シオネさんは、貝殻の帳面をひらいた。一枚ごとに、細い線が刻まれている。音の高さを、線の位置で記した、楽譜だった。
「最後の夜に、街のみんなで歌うはずだった。案内役の子たちは、そのはじめの六つの音だけを、毎晩の練習で歌っていた。お客さんが来たときに、迎えの歌として」
「続きは」
「続きは、歌継ぎが持っている。私の前の人も、その前の人も」
シオネさんは、楽譜を指でなぞった。
「歌を、ぜんぶ一人に持たせないための決まりなの。はじめは案内役が、なかほどは歌継ぎが、終わりは、最後の夜に舞台で。三つに分けておけば、誰か一人が忘れても、歌は消えない」
カゲロウの泡みたいだ、と思った。三人で一人。一つの体を、夜の向こうまで運ぶための分担。
「歌ってもらえますか。続きを」
シオネさんは、ウタを見た。
ウタは、少し迷ってから、うなずいた。
シオネさんが、六つの音を歌う。ウタが、それに声を重ねる。
六つ目の音で、ウタの声が、いつものように、ふっと消えた。
シオネさんの声だけが、続いた。
そして、旋律の上に、言葉が乗った。
ひかりの つぶを かぞえてる
ひとつ はじけて ふたつ うまれ
なまえの ない みずの そこで
だれかが まってる あかりの かず
ウタの唇が、動いていた。声にはならない。けれど、言葉の形を、なぞっていた。知らないはずの言葉を、唇だけが覚えていた。台座の高さを、足が覚えていたように。
はじけるから うつくしい
その一行で、僕の背中が、すっと冷えた。
浅瀬で、泡貨を両手で包んで、ウタが言った言葉。どこで覚えたのか彼女自身も知らないようだった、あの言葉。
この街の歌だったのだ。
ウタは、自分が何を覚えているのかも知らないまま、この街の歌の一行だけを、ずっと胸に持っていた。
いつか だれかが この うたを ――
そこで、シオネさんの声も、止まった。
旋律の頂点の、手前で。
*
「……ここまで」
シオネさんは、楽譜を閉じた。
「終わりは、知らないの」
「知らない?」
「終わりの音は、最後の夜に、舞台の上で、はじめて歌われるはずだった。だから、歌継ぎには渡されていない。楽譜にも、書いていない」
シオネさんは、貝殻の最後の一枚を、僕に見せた。
何も刻まれていなかった。
白い貝殻。台本の〈最後の台詞〉と同じ、空白。
「最後の夜は、来なかった。だから、終わりの音を知っている人は、この街に、一人もいない」
僕は、その白い貝殻を見つめた。
論理は、短い。
歌は三つに分けられていた。はじめの六つの音。なかほどの言葉。終わりの音。
はじめは、ウタが持っている。なかほどは、シオネさんが持っている。
終わりは、誰も持っていない。
誰も持っていないものは、忘れられることもない。忘れられないものは、白くもならない。この歌は、白くなって消えることもできずに、頂点の手前で、ずっと止まっている。
十一時十四分の秒針と、同じように。
「シオネさんは、終わりの音を、知りたいと思いますか」
僕は訊いた。
シオネさんは、しばらく水路の流れを見ていた。
「知りたい、とは思わないわ」
「どうして」
「知ったら、歌い終わってしまうもの」
それは、怖がる声ではなかった。もっと静かな、何かを手放せない人の声だった。
「歌い終わったら、歌は思い出になる。思い出になったら、もう、毎晩歌わなくてよくなる。私は、毎晩歌うのが、仕事なの。歌継ぎじゃなくなったら、私は、何になるのかしら」
誰も、答えられなかった。
ノアが、ランタンを少しだけ持ちあげた。白い炎が、水路の澄んだ水に映って、ゆらいだ。
「終わったあとも、歌は、誰かの中に残るよ」
ノアは言った。
「ちゃんと終わった歌は、ちゃんと覚えていられる。私は、そっちのほうが、うらやましい」
シオネさんは、ノアを見た。それから、白い炎を見た。
「あなた、変わった灯りね」
「よく言われる」
ノアは笑った。いつもと同じ笑い方で。
*
帰り道、ウタは何度も、六つの音を歌った。
六つ目のところで、ふっと消える。それから、唇だけで、言葉をなぞる。
ひかりの つぶを かぞえてる――。
「ルカ」
「うん」
「わたし、はじめのところしか、持ってないんだね」
「うん」
「でも、はじめがないと、なかほども、終わりも、来ないんだよね」
僕は、足を止めた。
ウタは、自分の胸に、透きとおった手を当てていた。
「だったら、わたし、ちゃんと持ってる」
はじめの六つの音。毎晩、七秒ごとに繰り返された「ようこそ」と同じ、迎えるための歌。
来なかった客を、迎えつづけた歌。
それでも、はじめがなければ、何も始まらない。
「……うん。ちゃんと、持ってる」
僕は、メモ帳をひらいた。
○ 歌は三つに分けられている。終わりの音は、誰も持っていない。
その丸の横に、もう一つ、小さく書きくわえた。
○ 台本の〈最後の台詞〉も、誰も持っていない。
二つの丸を、線でつないだ。
同じ空白だった。




