第16話 灯守の青年
浅瀬の廃教会では、破泡した者を、誰かが待っている。
灯会の決まりだと、千歳さんは言っていた。割れた泡が、もう一度ふくらんで戻ってくるまで、長椅子に座って待つ。それだけ。
だから、沈都にも廃教会があると聞いたとき、僕はそこにも、待つ人がいるのだと思った。
【深度 -3,000m/沈都層・東の丘】
*
教会は、街の東の丘に建っていた。
屋根の半分が崩れ、そこから珊瑚の雪が、静かに降りこんでいる。祭壇の上には、琥珀の灯りが一つ。ほかの窓の灯りより少しだけ低く、少しだけ揺れていた。
その灯りの前に、青年が一人、座っていた。
白い麻の上着。手には、長い柄の燭台。消えかけた芯を、細い鋏で切りそろえている。
【深民「トウヤ」 灯守】
深民だった。泡殻を持たない、この海の住人。
「お客さん、ですか」
トウヤさんは、振り向かずに言った。
「珍しいな。ここまで降りてくる人は、ほとんどいない」
「灯りを、守ってるんですか」
「守ってる、というほどでもないです。消えないように、芯を切ってるだけ」
鋏が、ちょきん、と鳴った。炎が、少しだけ背を伸ばす。
「長く燃やすと、芯が焦げて、炎が煤ける。だから、焦げたところを切る。少し短くなるかわりに、明るさが戻る」
ノアが、ランタンを胸の前で、そっと持ちなおした。
「私も、灯守なの」
「そうみたいですね。……白い」
トウヤさんは、初めて振り向いた。ノアの炎を見て、少しだけ目を細めた。
「この街の灯りは、ぜんぶ琥珀です。白は、初めて見ました」
ノアは、何も言わなかった。笑いもしなかった。
*
教会の中には、長椅子が並んでいた。
浅瀬の廃教会と、同じ形だった。背もたれの木に、小さな文字が、いくつも刻まれている。
浅瀬の長椅子では、それは待っている相手の名前だった。割れた泡の名前を刻んで、その横に座る。戻ってきたら、名前の横に、小さな丸をつける。
ここの長椅子にも、刻み跡はあった。
けれど、文字ではなかった。
どれも、短い線だった。一本、一本、きちんと同じ長さで。数えるための、正の字の、書きかけのような。
「これは」
「夜の数です」
トウヤさんは、燭台を置いた。
「僕の前の灯守が、刻んでいたそうです。一晩ごとに、一本。誰かを待つためじゃない。何晩、灯りが消えなかったかを数えるために」
「誰も、待っていない?」
「待つ人が、いないんです。ここで割れた人は、戻ってこない。ここは、浅瀬とは違う。割れたら、それで終わりです」
千歳さんが、兜の奥で、低く息をのんだのが分かった。
「戻らない、のかい」
「戻りません。だから、待たない。待っても、来ないものを待つのは、灯守の仕事じゃない」
トウヤさんの声は、乾いてはいなかった。ただ、静かだった。何度も自分に言い聞かせた言葉は、こういう静けさを帯びる。
「じゃあ、どうして灯りを守るんですか」
僕は訊いた。
「待つ人がいないなら、誰のために」
トウヤさんは、少し考えた。鋏を、指の上で一回転させた。
「消えるのが、怖いからです。この灯りが消えたら、この街に、まだ夜が続いていることを、誰も知らなくなる」
まだ、夜が続いている。
十一時十四分の夜が。
*
僕は、長椅子の刻み跡を、目で数えた。
一本が、一晩。
背もたれ一枚に、およそ三百六十本。長椅子が、十九脚。そのうち十六脚と半分が、刻み跡で埋まっていた。
およそ、六千。
割り算をする。六千を、三百六十五で。
十六年と、少し。
「……おかしい」
思わず、声に出ていた。
「この海の夜は、現実の夜とずれてる。ここでの一晩が、現実の一晩と同じとは限らない。でも、もし同じなら――」
十六年前。
七年前ではない。
僕が書体を選んだのは、七年前だ。この街の最後の夜が、七年前のことなら、刻み跡は二千五百本くらいでなければならない。
「夜が、速いんだよ」
千歳さんが言った。
「深いところほど、夜の数え方が速くなる。浅瀬でも、ときどき感じるだろう。一晩潜ってると、二晩も三晩も生きた気がするって」
七年が、十六年ぶんの夜になる。二倍と少し。
この街は、僕が知っているより、ずっと長く待っていたのだ。
数字は、嘘をつかない。けれど、数字は、どこで数えたかによって違う顔をする。その違いを読み落とすのは、いつも数える側だ。
*
千歳さんが、腰の鉤を外した。
現実の海で、岩から貝を剥がすための、小さな鉄の鉤だと言っていた。ここでは、装備ではない。ただの、持ちもの。
「一つ、いいかい」
トウヤさんに、そう断ってから、千歳さんは、いちばん後ろの長椅子に腰を下ろした。刻み跡のない、まっさらな背もたれ。
鉤の先で、木を削りはじめた。
ゆっくり。一画ずつ。
僕は、それを読まないようにした。読んではいけない気がした。けれど、最後の一画のあとで、千歳さんのほうから言った。
「うちの人の名前さ」
千歳さんは、刻んだ文字を、籠手の指でなぞった。
「三十年前に、房総の海で上がってこなかった。網を見に出て、それっきり。船だけが、朝に浜へ戻ってきた」
誰も、何も言わなかった。
「あたしは、ずっと待ったよ。浜で。何年も。でも、待ってたのは、あの人じゃなかったんだね。あの人が上がってこなかったことを、あたしがちゃんと終わらせられる日を、待ってたんだ」
千歳さんは、立ちあがった。
「ここに刻んどけば、待つ人のいない教会にも、一人ぶん、待たれる名前がある。それで、いいだろう」
トウヤさんは、長いあいだ、その名前を見ていた。
それから、燭台を持って、その長椅子の横に立った。
「この椅子の灯りは、僕が守ります」
「待たなくていいよ。来ないから」
「待ちません。でも、覚えておきます」
千歳さんは、兜の奥で、少しだけ笑った。
「それで、十分さ」
芯をちょきんと切られて、祭壇の琥珀が、少しだけ明るくなった。
割れたら、それで終わり。
その言葉が、僕の胸の中で、泡にならずに残っていた。ここから先の海では、僕たちも、そうなのだ。
ノアが、ランタンの白い炎を、長いあいだ見つめていた。
待たれる名前と、待たれない名前。
ノアは、その夜も3時40分ちょうどに落ちた。白い炎も、いつものように、ノアと一緒に消えた。




