第14話 灯台の夜、十九と二十七
十一時十四分の街から、僕たちは一度、上へ戻った。
台本は、演台の上に伏せたまま置いてきた。持ち出せば、あの空白を自分のものにしてしまう気がした。
【深度 -1,000m/灯会・灯台】
*
灯台の灯りは、海の底でも、律儀に一周していた。
白い光の帯が、群青をなでて、また戻ってくる。その周期を数えると、ちょうど十二秒だった。来ない船のために、正確な時間を守りつづけている。
沈都の秒針とは、反対の誠実さだった。
あちらは、進めないまま一秒を往復している。こちらは、誰も見ていないまま十二秒を回りつづけている。どちらも、待っていることに変わりはない。
灯台の下の部屋で、知らない人が、盾を磨いていた。
まだ若い。鎧の継ぎ目が新しく、磨く手つきだけが、妙に年季が入っている。
【カイト Lv 34 潜騎士】
「あ、千歳さんの拾ってきた人だ」
カイトくんは、盾を膝に立てたまま、ぺこりと頭を下げた。
「留守番してました。沈都、どうでした」
「時計が、止まってた」
「やっぱり」
カイトくんは、なぜかうれしそうにうなずいた。
「僕も一度だけ、上から見たことがあるんです。千歳さんの輪の中から。降りる許可は、まだもらえなくて」
「あんたは、まず自分の泡殻を守れるようになってからさ」
千歳さんが、奥から言った。
「守ってますよ。前に立ってれば、後ろの人は割れない」
「前に立つ理由が、それだけじゃ足りないって言ってるんだよ」
カイトくんは、少しだけ唇をとがらせた。それから、僕のほうを見た。
「ルカさんは、なんで潜るんですか」
答えに詰まった。死んだ人から荷物が届いたから、と言えば正確で、何も伝わらない。
「名前を、探してる」
「じゃあ、僕と似てます」
カイトくんは、盾の表を、僕に向けた。磨きこまれた鉄の面に、僕の顔と、頭上の【???】が、ゆがんで映っていた。
「僕、現実だと、誰の前にも立ったことがないんです。教室でも、家でも、いつも誰かの後ろで。だから、ここでは前に立つって決めた。盾の前に立つと、後ろにいる人の名前を、ぜんぶ覚えられるから」
「名前を、覚える」
「守った人の名前は、忘れないんです。不思議と」
前に立つ理由。
守るためではなく、覚えるため。カイトくんの言葉は、そう聞こえた。千歳さんが「足りない」と言ったのは、たぶん、そこではない。けれど僕には、その理由が少しまぶしかった。
*
灯台の外の回廊で、千歳さんが、群青を眺めていた。
僕が隣に立つと、千歳さんは、兜の窓を少しだけあけた。
「カイトはね、初めて来た夜、泣いてたんだよ」
「泣いて」
「浅瀬で、三回割れてね。誰も待っててくれないと思ってたらしい。廃教会の長椅子に、自分の名前を刻もうとしてたのさ。自分で自分を待つつもりでね」
千歳さんは、灯台の光が一周するのを、目で追った。
「あたしが横に座ったら、やめた。それから、毎晩、誰かの前に立つようになった」
「前に立つ理由の、足りないほうって」
「教えないよ。あの子が、自分で見つけるもんさ」
千歳さんは、笑った。それから、少しだけ声を落とした。
「あんたもだよ、ルカ。あの台本の空白を、誰のために埋めるのか。それは、あんたが自分で見つけな」
灯台の光が、また一周した。十二秒。
僕は、その十二秒のあいだ、何も言えなかった。
*
夜が更けて、ノアがランタンを提げて立ちあがった。
紺のケープのフードを背中に落として、暗い茶色の髪を、指で耳にかけなおす。丸い眼鏡に、白い炎が二つ映っている。
視界の隅の時計は、【2:12】。
「上で、芯を整えてくるね。灯台の灯りの横でやると、きれいに切れるの」
ノアの足音が、螺旋の階段を上っていった。
「……ノアちゃん、十九やで」
カゲロウが、ぽつりと言った。湊くんの声だった。
「え」
「知らんかった? 前に言うてたわ。誕生日は冬やて。僕の一個上や。受験せえへんで済むのはええなあ、って言うたら、笑とった」
十九。
僕より、八つ下か。
七年前、僕が見本帳をめくって書体を選んでいた夜、ノアはまだ十二歳だったことになる。
数字にすると、急に距離ができた。八という差は、Lvの差より、ずっと動かしようがなかった。
「ルカ兄さんは、いくつなん」
「二十七」
「うわ、ほんまに兄さんや」
湊くんは、けらけら笑った。
「でもノアちゃん、ルカ兄さんのこと、年下みたいに扱うやん。危なっかしい弟、みたいな」
否定できなかった。
頭上で、灯台の灯りが一周した。その白い帯の中に、もう一つ、小さな白い炎が揺れているのが、階段の窓から見えた。琥珀ではない。この海で、あの色の灯りを持っているのは、ノアだけだ。
僕はそれを、まだメモ帳の丸にしていない。丸にすれば、問いになってしまう。問いになれば、答えを探してしまう。
*
カゲロウが、両手を水の中にひらいた。
「ほな、地図や。僕が落ちる前に、忘れんうちに」
泡が、ひとつ、ふくらんだ。
その膜の内側に、街が映っていた。沈都の通り。アーケード。時計屋。広場と、聖堂と、舞台。上から見下ろした形のまま、小さく、正確に。
「僕、覚えるのだけは得意やねん。単語帳、三冊目やし」
泡の地図は、くるりと回った。銀灰色の前髪が、その光を受けて、淡く透けた。
通りの数は、十一本。
交差点の数は、二十三。
そして、窓。泡の中の街にも、琥珀の窓が、点々と灯っていた。
「なあ、ルカ兄さん」
湊くんが、地図の一角を指さした。
「ここ、住宅区や。ちゃんと見てへんけど、窓、えらい多いで」
僕は、泡に顔を近づけた。
窓が、多い。住む人の数にしては、多すぎるのかもしれない。あるいは、ちょうどなのかもしれない。
数えなければ、分からない。
視界の隅の時計が、【2:30】に変わった。
カゲロウが、一拍、止まった。
「――地図は、湊くんが残していってくれました」
ジウさんの声だった。泡の地図は、消えずに回りつづけていた。
「窓の数、気になりますね。わたしも、数えるのは好きです。帳面をつける仕事なので」
「明日、数えに行こう」
「全部、ですか」
「数えるのが、いちばん早いことがあるんです」
「……そうですね。急がないほうが、早いこともあります」
カイトくんが、盾を背負って立ちあがった。
「僕も行けますか」
千歳さんが、奥で、ふう、と息をついた。
「沈都の入口までだよ。そこから先は、あたしの輪の中」
「はい!」
階段から、ノアが降りてきた。芯を切りそろえたランタンの炎が、さっきより少しだけ背を伸ばしていた。
〈パーティ:???/ノア/カゲロウ/千歳/ウタ/カイト〉
パーティの欄に、名前がひとつ増えた。
*
視界の隅の時計は、【3:38】。
「そろそろだね」
ノアは、いつもと同じ声で言った。
「沈都のこと、明日また考えよう。ルカくん、今夜は顔が疲れてる」
「ノアも」
「私は、いつもこう」
ノアは笑って、ランタンを胸に抱いた。
【3:40】。
ノアの輪郭が、ほどけるように薄くなって、消えた。落ちる、という言い方がいつも似合わないと思う。ノアは、落ちるのではなく、どこかへ帰っていく。
白い炎も、ランタンごと、ノアと一緒に消えた。
パーティの欄で、ノアの名前だけが、灰色になった。朝を待つように。
灯台の光が、また一周した。十二秒。
ウタが、ノアの座っていた窓際に、膝を抱えて座っていた。
「ノア、また来る?」
「来るよ。毎晩、来る」
「毎晩」
ウタは、その言葉を、泡貨みたいに両手で包んだ。
「毎晩って、いつまで?」
僕は、答えなかった。
答えを、知らなかったから。




