第13話 止まった時計の街
ただいま、とウタは言った。
疑問符をつけたまま。言った本人が、その言葉の行き先を知らない顔で。
【深度 -3,000m/沈都層】
僕たちは、街へ降りた。
*
石畳に、足がついた。
海の底に、地面がある。それだけのことに、体が少し驚いていた。浅瀬からここまで、僕はずっと何かの上に浮かんでいたのだ。
通りの両側に、店が並んでいた。
パン屋。花屋。古い時計屋。どの店先にも琥珀の灯りがともり、硝子の扉の向こうで、棚がきちんと整えられている。誰もいない。けれど、埃ひとつない。
閉店した店ではなかった。開店する直前の店だった。
「……なんや、気味悪いな」
カゲロウが、小声で言った。湊くんの声だ。視界の隅の時計は、【1:31】。
「誰もおらんのに、今から客が来るみたいや」
看板を見上げる。
どの看板にも、店の名前がなかった。
〈___ベーカリー〉。〈花の___〉。名前のところだけが、白く抜けている。ウタの「ようこそ」と同じ、色のない白だった。
抜けた白は、どれも同じ幅をしていた。
三文字ぶん。
僕の名札の疑問符と、同じ数だった。
偶然だと思う。偶然だと思うことにして、僕はそれを、メモ帳の丸にもしないでおこうと決めた。
*
通りの先に、アーケードがあった。
鉄骨の屋根の下に、色褪せた布が何枚も吊るされている。風はないのに、水の揺れで、ゆっくりと裾が動いていた。
WELCOME
ウタのまわりを漂っていたのと、同じ布だった。ここでは、何十枚も。
「ウタちゃんの布だね」
ノアが、ランタンを少し掲げた。白い炎が、布の白をいっそう白く照らす。
ウタは答えなかった。袖の欠片をひとつずつ明滅させながら、アーケードの入口に立っていた。
そこに、台座が並んでいた。
膝ほどの高さの、小さな石の台座。七つ。それぞれに、すり減った番号が彫ってある。
#01。#02。#03。
六つ目までは、台座の上に何もなかった。七つ目だけ、石の表面が、ほかより少し白くすり減っていた。
何千回も、同じ角度で、誰かが立ちつづけた跡だった。
ウタは、#07の台座に、そっと片足を乗せた。
もう片方の足も。
手を広げかけて、止めた。首をかしげる、少し手前で。
七秒が過ぎた。
ウタは、「ようこそ」と言わなかった。
「ここ、ちょうどいい高さ」
それだけ言って、台座から降りた。
「足が、覚えてるの。でも、わたしは覚えてない」
体が覚えていて、名前が覚えていない場所。
僕は、自分の頭上の空白のことを考えた。名前を覚えている僕と、名前を持っていない名札。ウタとは、ちょうど裏返しだった。
千歳さんが、空の台座の一つを、籠手でそっと撫でた。
「ここにいた子たちは、どこへ行ったんだろうね」
誰も答えなかった。白い珊瑚の雪が、アーケードの外で、音もなく降っていた。
*
広場へ向かう途中、時計屋の前で、足が止まった。
硝子の扉の向こうに、何十もの時計が掛かっていた。壁掛け時計。置き時計。鳩の出る小さな箱。どれも違う形をしているのに、針だけは、ぜんぶ同じ場所を指していた。
十一時十四分。
一つ残らず。
「……ずれてる時計が、ひとつもないね」
ノアが言った。
僕は、その言葉を胸の中で繰り返した。ずれていない。ゆらいでいない。
偽物の数字が、四回とも267だったことを思い出す。綺麗すぎる数字。この店の時計たちも、同じ顔をしていた。
ショーケースの隅に、懐中時計が一つ、蓋をひらいて置かれていた。
その文字盤だけが、白く抜けていた。針も、数字もない。三つの疑問符のように、そこだけ時刻のない色をしていた。
ウタが、硝子に額をつけた。
「あれだけ、まだ決まってないんだね」
何が、とは訊けなかった。
*
街の真ん中の広場へ出た。
時計塔のある聖堂が、正面に立っていた。緑の珊瑚が、尖塔のてっぺんまで絡みついている。上から見たときより、ずっと大きい。
針は、十一時十四分。
近くで見ると、秒針だけが動いていた。
一秒進んで、一秒戻る。進んで、戻る。十四分から、十五分へ。決して届かない、その手前で。
時計が、終われずにいた。
広場には、舞台が組まれていた。
木の床。紅白の幕。左右に、打ち上げ筒が何十本も並んでいる。筒の口には、まだ火の入っていない花火が、丸く詰められたままだった。
舞台の上に、横断幕が一枚。
___ 最終夜イベント
灯喰いの腹から出てきたチケットと、同じ書体だった。横画の終わりが、少しだけ丸い。夜の画面でも読めるように、ほんの少しだけ字間をあけた、明朝体。
胸の奥の泡に、チケットの重みが戻ってきた。
僕は、舞台を見上げた。
設計者の目が、勝手に動く。花火の筒の並び。観客の立ち位置。幕の上がる方向。最後の台詞を、どの高さから言わせるか。
ぜんぶ、分かった。
分かってしまうことが、怖かった。
見たことはない。そのはずだった。なのに、この舞台のどこに立てば花火がいちばん大きく見えるのか、僕の足は知っていた。ウタの足が台座の高さを知っていたように。
「ルカくん」
ノアが、隣に来ていた。
「顔、また仕事の顔になってる」
「……そうかもしれない」
「楽しそうじゃないほうの、仕事の顔」
ノアは、それ以上訊かなかった。紺のケープのフードを少しだけ下ろして、暗い茶色の髪を耳にかける。ランタンの白い炎が、僕の泡殻の膜に映って、小さく揺れた。
その炎が、一瞬、ちらついた。
ノアの輪郭ごと。
僕が瞬きをしたときには、もう戻っていた。ノアは何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。訊いても答えないことを、もう知っていた。
*
視界の隅の時計が、【2:30】に変わった。
カゲロウが、一拍、止まった。
「――少し、静かすぎますね」
ジウさんの声だった。
「ここ、初めてです。三人とも、こんなに深くまでは」
ジウさんは、交易帳をひらいて、何かを書きつけた。几帳面な楷書で。
「この街の名前を、記しておきたいのですが」
ペン先が、止まった。
「……書けません」
帳面の上に、白い跡が残っていた。三文字ぶんの、色のない白。
インクは出ている。それなのに、街の名前を書こうとしたところだけ、紙が受けとらない。
「名前が、ないのではないと思います」
ジウさんは、静かに言った。
「書かせてもらえないんです。誰かが、ここだけは、まだ書かないでほしいと」
まだ、という言葉が、妙に耳に残った。
千歳さんが、舞台の端に腰を下ろした。鎧が、木の床を軋ませる。
「終わらなかった祭りの跡だね」
「終わらなかった?」
「花火が、ぜんぶ残ってるだろう。始まる前に、時間が止まったんだ」
千歳さんは、兜の窓ごしに、動かない秒針を見上げた。
「終わり損ねたもんは、海の底に溜まるんだよ。忘れられたもんは白くなるけど、終わり損ねたもんは、ずっと灯ったままさ」
琥珀の窓。開店する直前の店。火の入らない花火。
この街は、忘れられたのではない。
終わらせてもらえなかったのだ。
*
七年間、僕は世界の終わらせ方を作ってきた。
閉じていく世界を、人が泣いて、笑って、見送れるように。最後の花火の順番を決め、最後の台詞の長さを測った。
それは、終わる世界のためだと思っていた。
でも、ほんとうは違ったのかもしれない。
終わりは、残される側のためにある。見送った人が、明日も生きていけるように。ちゃんと終わったものだけが、ちゃんと思い出になれる。
終わらなかったものは、思い出にさえなれない。
ここで、灯りをつけたまま待ちつづける。
誰を、待っているのだろう。
*
舞台の中央に、演台があった。
最後の台詞を言う人が立つ場所だ。設計図の上で、僕が何百回も印をつけてきた場所。
演台の上に、紙が一枚、伏せて置かれていた。
台本だった。
表紙の題は、白く抜けていた。三文字ぶん。
ページをめくる。花火の順番。住人たちの立ち位置。灯りを消していく順序。どれも、きちんと書いてある。
最後のページだけが、空白だった。
〈最後の台詞〉
見出しだけがあって、その下に、何もない。
僕のフォルダのどれにも、同じ名前のファイルがあった。いつも、そこだけは自分で書いた。
空白の下の余白に、一行だけ、手書きの文字があった。
インクではない。赤いペンで。
右上がりの、急いだような字。
『終わらせ方が、まだ甘い』
指が、紙の上で止まった。
ウタが、僕の袖をつかんだ。ノアのランタンが、紙を白く照らした。千歳さんが、何も言わずに立ちあがった。
広場の時計塔で、秒針が、一秒進んで、一秒戻った。
十一時十四分。
十五分には、まだ届かない。
誰かが、この続きを書くのを待っている。




