第12話 深度3,000m/名前を盗んだ僕
眠る前、浅瀬モードの隅に、見慣れた数字が出ていた。
【実質化率 1.4%】
0.8%だったはずだ。いつ1%を越えたのか、僕は覚えていなかった。
覚えていないことが、少しだけ怖かった。
*
【深度 -2,900m】
岩棚の縁で、千歳さんが籠手を外した。
その手のひらに、小さな殻が載っていた。巻き貝を半分に割ったような、乳白色の殻。内側が、真珠みたいに光っている。
「持っていきな」
【耐圧殻:PRS +70】
「これ、千歳さんのじゃ」
「昔のさ。もう要らない」
千歳さんは、僕の胸の泡殻に、殻をそっと押しあてた。殻は膜に溶けて、見えなくなった。
【PRS 220 → 290】
「ここから先は、自分の足でも立てるようにね」
この深さに要るのは、290。足りないぶんは、ゼロ。
圧損の表示が消えた。輪の外に出ても、泡殻は鳴らなかった。
視界の隅の時計は、【1:12】。ノアが落ちるまで、まだ二時間以上ある。カゲロウは、まだ大阪弁だった。
「ほな、いよいよ沈都層やな」
*
そのとき、下から誰かが上がってきた。
白い潜水服。黒い髪。片手に、硝子の穂先の銛。
見覚えがありすぎた。
毎朝、洗面所の鏡で見ている顔だった。
頭上に、名札が浮かんでいる。
【ルカ】
にじんでいない。欠けてもいない。くっきりとした、正しい二文字。
僕の頭上には、今も【???】が浮かんでいる。
「――その名前、もらったよ」
声まで、僕の声だった。
最初の夜に、深いところから聞こえた声。あれは、この口から出ていたのだ。
夜の海に沈んでいった「ル」と「カ」の泡が、体を持って、僕の前に立っていた。
【ルカ HP 1,520】
僕と、同じ数字だった。
*
「ノア、下がって!」
僕が叫んだのと、同時だった。
「ノア、前へ!」
同じ声が、反対のことを叫んだ。
ノアの足が止まる。どちらを聞けばいいのか、分からない顔で。
「千歳さん、右!」
「千歳さん、左!」
千歳さんの盾が、一瞬、迷った。
その隙間に、偽物の銛が滑りこんだ。
「267」
赤い数字が、僕の上で弾けた。
突き返す。
「268」「251」
【ルカ HP 1,001】
「ルカくん、今戻す!」
ノアのランタンが光った。灯守の灯火。温かい光の帯が、まっすぐに伸びて――
偽物の胸に吸いこまれた。
「2,071」
【ルカ HP 1,520】
満タンだった。
「え……」
ノアの顔から、色が引いた。
灯火は、名前で相手を選ぶ。ノアが心の中で「ルカ」と呼んだから、光は【ルカ】の名札へ飛んだ。
カゲロウの泡身代わりも、同じだった。「ルカを守れ」と放った泡は、偽物の前でふくらんで、僕の銛を受けとめた。
「あかん、全部向こうに行く!」
仲間の手が、全部、僕の名前のほうへ流れていく。
僕の名前は、もう僕のところにはなかった。
「どっちが、ルカだい」
千歳さんが、低く言った。責める声ではなかった。本当に、分からないのだ。
同じ顔。同じ声。あの夜の僕と同じ、硝子の銛。同じHP。違うのは、頭の上の文字だけ。そして、正しい文字を持っているのは、向こうだった。
僕は、答えられなかった。
僕が僕だと、どうやって証明すればいいのだろう。名札は【???】で、声は写されて、数字まで同じなのに。
足元が、すっと冷えた。泡殻の外の水が、内側まで染みてくるような寒さだった。
「267」
また、赤い数字。
偽物は、仲間の名前も呼んだ。ウタを、「案内役#07」と。
ウタの体の光が、ふっと揺らいだ。歌が、途切れる。
「やめろ」
僕の声で、偽物が笑った。
*
「267」
三度目の赤い数字を見たとき、何かが引っかかった。
267。267。267。
三回とも、同じだった。
僕の攻撃は、毎回ゆらぐ。268、251。式に乱数が入っているからだ。0.9倍から1.1倍。数字が毎回少しずつ違うから、突くたびに、次の数字を待つ楽しみがある。
偽物の数字は、ゆらがない。
「この数字は、綺麗すぎる」
声に出していた。
四度目。
「267」
僕のHPは、残り452。あと二発で、僕が割れる。
数字は、全部見えていた。だから、分かった。
あいつは、僕の数字を写している。STRも、DEFも、FRG 21まで。けれど、乱数だけは写せない。運は、写せない。
そして、もう一つ。
あいつの銛は、いつも同じ拍で来る。四拍目の頭。一度も、ずれない。
ずれないものは、読める。
「ウタ」
僕は、偽物ではなく、ウタのほうを向いた。
「歌って。僕じゃなくて、ウタの拍で動く。みんなも、僕の声じゃなくて、歌を聞いて」
ウタが、顔を上げた。
偽物が、口をひらいた。
「ウタ――」
同じ声。同じ名前。
けれど、ウタは振り向かなかった。
「ちがう」
ウタは、まっすぐ僕を見ていた。
【挿絵⑯】
「その呼び方、知らない」
六つの音が、群青に戻ってきた。
*
上がって、少し下がって、また上がる。
偽物の銛が、四拍目の頭に来る。僕は、ウタの拍の裏へ、半歩だけずれた。
穂先が、僕の泡殻のすぐ横を通りすぎる。
空振り。
「283」
突き返した数字が、金色に近い朱で弾けた。
千歳さんの盾が、歌の拍子で鳴る。ノアは、ランタンを下ろした。灯火を、もう誰にも飛ばさない。カゲロウの泡が、歌の休符に合わせて、偽物の視界をふさぐ。
僕の声は、使わなかった。偽物が写せるのは、僕の声だけだから。
「247」「290」「259」「276」
数字が、ゆらぐ。毎回、違う。
その違いが、うれしかった。
前の仕事で、何度も言われたことがある。乱数なんて、ないほうが公平だと。毎回同じ数字が出れば、誰も損をしない、と。
僕は、いつも反対した。毎回同じなら、それはもう、遊びではなく作業だ。次の数字が分からないから、人は銛を引く。ゆらぎは、生きている手ざわりなのだ。
その手ざわりが、今、僕を僕にしていた。
【ルカ HP 165】
偽物が、こちらを見た。
同じ顔。けれど、その目には何も映っていなかった。
「ルカ」
ウタが、呼んだ。
僕は振り向いた。
偽物は、振り向かなかった。
名札に書かれた名前を、自分のことだと分かっていない。文字列を持っているだけで、呼ばれたことが、一度もないのだ。
呼ばれた記憶は、名札には書いていない。
僕は銛を引いた。ウタの旋律が、いちばん高い音へ上がっていく。その頂点で。
「CRITICAL 417」
金色の縁どりの数字が、偽物の胸で、大きく弾けた。
【ルカ HP 0】
*
偽物の体が、ほどけはじめた。
足先から、泡になっていく。白い潜水服も、黒い髪も、硝子の銛も。
最後に残った唇が、僕の耳もとまで流れてきた。
「名前は、もうこっちのものだ」
僕の声で、偽物はささやいた。
「……君は、終わらせ方を知っている」
意味を訊く前に、唇は泡になった。
ぱちん、と。
頭上の【ルカ】の二文字が、群青の上へ昇っていく。消えたのではない。どこかへ、持ち帰られていく。
僕の名札は、【???】のままだった。
【LEVEL UP!】Lv 21 → Lv 22
PRS 290 → 300
ファンファーレが鳴った。
その音を、僕はいつもより長く聞いていた。誰にも写せない、僕の数字の音。
??? Lv 22 ジョブ:銛撃士
HP 1,605 LUX 160 STR 96
MAG 22 DEF 70 SPD 104
LCK 31 PRS 300 FRG 21
「ルカ」
ウタが、もう一度呼んだ。
「うん」
返事をした。それだけで、足りた。
「……ごめんね、ルカくん」
ノアが、ランタンを胸に抱いたまま言った。
「名前で、選んじゃった。いちばん近くにいたのに」
「ノアのせいじゃないよ。あいつは、そういうふうに作られてた」
「次は、間違えない」
ノアは、僕の頭上の【???】を見上げた。それから、小さく笑った。
「空白のほうを、呼べばいいんだもんね」
*
僕たちは、岩棚から降りた。
【深度 -3,000m/沈都層】
要求PRSは300。僕のPRSも、300。圧損は、ゼロ。
境を越えた瞬間、海の音が変わった。浅瀬からずっと鳴っていた、高く澄んだ泡の音が遠のいて、低い弦のような響きが、足元から満ちてくる。
光も、変わった。
真珠白と翠が、背中のほうへ退いていく。かわりに、琥珀の灯りが、夜の底から立ちのぼってきた。
眼下に、街があった。
石畳の通り。崩れかけたアーケード。窓という窓に、琥珀の灯りがともっている。誰もいないのに、灯りだけが、まだ誰かを待っているみたいに。
街の真ん中に、時計塔のある聖堂が立っていた。緑に光る珊瑚が、尖塔のてっぺんまで絡みついている。
【挿絵⑤】
時計の針は、十一時十四分で止まっていた。
23:14。
澪さんの荷物が届いた時刻と、同じだった。
ウタが、僕の袖をつかんだ。その指が、小さく震えていた。
怖がっているのではなかった。
眼下の沈んだ街を見て、ウタが小さく言った。
「……ただいま?」




