第7話 沈めたままにはしない
避難所には、まだ泥の匂いが残っていた。
自治都市の外れ、石造りの穀物取引所を仮に開けた場所だった。
広い土間へ筵が敷かれ、家族ごとに区切られている。
濡れた寝具が梁へ渡した縄に掛けられ、水が滴っていた。
その下を、子供が濡れないように身を屈めて走り抜けていく。
マヌエラがまとめている避難民たちが、大鍋から粥を配っていた。
器は避難所の備品と、村から持ち出せた分が混ざっている。
隅では、村の女が農具の柄を布で拭いていた。
鍬が一本。
それだけが、その家から運び出せたものだった。
「牛が二頭、まだ見つかりません」
書記が届け出を読み上げる。
「南の水路の先で、荷車の車輪が一つ拾われました。持ち主が分かりません」
セイラは、避難者名簿と損失記録を交互に確かめていた。
名簿の側は、全員に避難済みの印が付いている。
損失記録の側には、手帳から書き写した数字が並んでいた。
家、三十二戸。
納屋、十七。
共同の井戸、三つ。
集会所、一つ。
水車小屋、一つ。
墓、百と少し。
正確に書き取ったはずの数字だった。
だが、鍬を拭いている女の手を見ていると、それだけでは、失われたものを数え切れていないように思えた。
濃い青の髪が肩から前へ落ちてきた。
セイラは、それを結び直しもせずに記録へ戻った。
「北の水門は持ちこたえたそうだ」
通りがかった自治都市の商人が、セイラたちへ向かって言った。
「あんたたちのおかげで、うちの倉は無事だった」
セイラは礼を返したが、その言葉で心が軽くなることはなかった。
◇
ミゲルが来たのは、その日の午後だった。
外套も靴も泥のままだった。
村を出てから、着替えていないのだろう。
「少し、よいか」
声は低かった。
怒鳴りもしなければ、震えてもいなかった。
セイラは記録を閉じ、立ち上がった。
「下流の話は聞いた」
ミゲルは言った。
「自治都市の岸は無事だ。穀倉の水門も持った。あの晩、儂の村へ水を入れなければ、どこかが破れていた……それも分かっている」
一度、言葉を切った。
「正しかったかどうかは、儂には分からん。だが、沈めたのはあんただ」
セイラは、すぐには答えなかった。
天災だった、と言うことはできた。
バルトロメの提案だった、とも。
三人で署名した、とも。
下流で多くの人が助かった、とも。
どれも事実だった。
そして、どれもこの人の前で口にしていい言葉ではなかった。
セイラは、粥の列に並ぶ村人たちを見た。
それから、閉じた手帳へ指を置いた。
「村を沈めると決めたのは、私です」
セイラはミゲルを見た。
「だから、沈めたままにはしません」
ミゲルは、しばらくセイラを見ていた。
「役人の言葉は、これまでも聞いた」
「ええ」
「聞いたと言っただけだ。信じたとは言っていない」
「構いません」
セイラは答えた。
「信じていただく必要はありません。確かめていただければ結構です」
ミゲルは何も言わずに背を向け、粥の列の方へ戻っていった。
◇
数日後、行政庁の仮執務室に、村の代表者たちが集められた。
卓の上に、アマンダの帳簿が広げられていた。
赤毛を耳へかけ、彼女は一枚ずつ紙をめくっていく。
「水没した家屋について、まず建て替えに必要な額を算定しました」
アマンダは、村ごとではなく戸ごとに数字を並べていた。
「三十二戸分。間取りと材の量が違いますので、一律にはしていません」
次の紙をめくる。
「農地。表土が流された分の復旧費と、地目ごとの評価額」
さらに次。
「家畜。頭数と種類で分けています。農具も同じです。それから、収穫損失。今年の分については、平年の収量から算出しました」
村の代表者の一人が、数字を覗き込んだ。
「この額で、本当に足りるのか?」
「必要額を削ってはいません」
アマンダは即答した。
「爵位のある方の家であっても、同じ算定基準を使います。それから、この総額は現在の予算枠を超えています。不足分も、そのまま帳簿に載せてあります」
代表者たちが、互いに顔を見合わせた。
それ以上、数字そのものへの異論は出なかった。
アマンダは、帳簿を村の側へ向けて置いた。
「不足や誤りがあれば、指摘してください。訂正します」
ミゲルが、帳簿を手元へ引き寄せた。
一枚ずつ、ゆっくりと見ていく。
自分の家の欄で指を止め、また次へ進んだ。
「よく調べてある」
そう言った。
「儂の納屋の梁が栗材だったことまで書いてある。誰から聞いた」
「大工から聞き取りました」
「そうか」
ミゲルは、最後の一枚まで見終えてから、帳簿を卓へ戻した。
「家一軒の値段は出せる」
そして、顔を上げた。
「では、祖父母の墓と、皆で掘った井戸と、隣人が隣にいる暮らしはいくらだ?」
「……暮らし、ですか?」
アマンダの手が止まった。
筆先が、帳簿の上で宙に浮いた。
帳簿の欄には、所有者の名を書く箇所がある。
家屋には家長の名が。
農地には登記された名が。
家畜にも、農具にも、それぞれ持ち主の名が入っていた。
だが、村の共同墓地は誰か一人の財産ではない。
共同の井戸も、集会所も、水車小屋も同じだった。
アマンダは、空欄を見つめたまま動かなかった。
「……所有者が特定できないものは、これまで補償台帳へ載せる方法がありませんでした」
ようやく、そう言った。
「では、台帳に載らないものは、補償しないということか?」
ミゲルの声は、責める調子ではなかった。
ただ、答えを待っていた。
アマンダは、空欄のままの所有者欄を見つめた。
やがて、帳簿を閉じる代わりに、新しい紙へ手を伸ばした。
「いいえ」
その紙を手元へ引き寄せる。
「載せる欄がないなら、欄を作ります」
◇
その日から、卓の上に新しい紙が増えた。
アマンダは、個人補償案の帳簿を一冊も捨てなかった。
その横へ、別の帳簿を並べた。
表紙に、彼女自身の字で名称が書き込まれる。
共同体再建費。
「墓地の移転と、移した先での再整備」
アマンダが読み上げ、ミゲルが頷く。
「井戸は?」
「共同井戸を三つ。掘る場所は、代替地が決まってからになります」
ライモンドが、別の卓から口を挟んだ。
「灌漑水路も入れてください。個人の農地を復旧しても、水が来なければ耕せません」
「集会所と、共同倉庫も要る」
ミゲルが言った。
「村の寄り合いをする場所がなければ、誰がどこにいるかも分からなくなる」
「代替地についてですが」
セイラが手帳を開いた。
「村人の方々が、まとまって移れる場所を探します。分割して各地へ振り分ける案は採りません」
「なぜだ?」
ミゲルが尋ねた。
「分けた方が、空いている土地へ順に入れられます。行政の手間も、その方が少なくなります」
セイラは答えた。
「ですが、それをすると、あなた方が失ったものの一つを、私がもう一度奪うことになります」
ミゲルは何も言わなかった。
アマンダが筆を進める。
「新しい農地で収穫できるようになるまで、時間がかかります。その間の生活保障も、この帳簿へ入れます」
「何年かかると見ている?」
「土地が決まらないと出せません。ですが、期間を短く見積もって足りなくなる方が危険です。長めに取ります」
ライモンドが、書き上げた文言を卓の中央へ置いた。
「補償義務について、確認させてください」
彼は、水没命令書の写しを隣へ並べた。
「あの命令には、水没対象者への補償義務を記してあります。ただ、そのままでは個人財産の補償が終わった時点で、義務も果たしたと解釈される余地があります」
「解釈されると、どうなりますか?」
セイラが尋ねた。
「共同体再建費の方が、後から任意の事業として扱われます。予算が苦しくなったとき、真っ先に削られる項目になります」
ライモンドは、新しい文言を指した。
「ですので、共同体再建費も水没命令に伴う義務の一部であると、補足規定に明記します。個人補償の完了をもって義務が終了しない、とします」
「後任が来た場合は?」
「引き継がれます。担当者が代わっても、義務そのものは消えません」
セイラは、その文言を二度読んだ。
「村の記録と、境界も残してくれ」
ミゲルが言った。
「どこからどこまでが村だったか、水の下では誰にも分からなくなる」
ライモンドが筆を取った。
「項目に加えます」
その日、金額の総計は出なかった。
代替地も決まらなかった。
決まったのは、何を数えるかということだけだった。
◇
アルヴェイラ侯爵家の救援隊が着いたのは、それから数日後のことだった。
荷馬車の列が街道を上ってきて、避難所の前庭で止まった。
幌にも、馬具にも、アルヴェイラ家の紋章が入っていた。
積まれていたものは、すぐに役に立った。
その日のうちに、二十張の仮設天幕が立ち並んだ。
土間に筵を敷いて寝ていた家族が、順に移されていく。
医薬品の箱が開けられ、熱を出していた子供へ薬が渡った。
足を挫いた男の添え木が、まともなものに替わった。
大工と技師が、仮設住宅の建設予定地を歩き回り、地面へ杭を打っていく。
食料の袋は、救援倉庫へ運び込まれた。
セイラは、天幕が張られていく様子を見ていた。
断る理由は、どこにもなかった。
救援隊の責任者が、封書を差し出した。
「ガブリエル様より、お預かりしております」
ガブリエルの字は、いつもどおり丁寧だった。
洪水の報せを聞いたこと。
セイラが無事だと知って安堵したこと。
必要なものがあれば追加で送ること。
そして、こう書かれていた。
――この救援は、アルヴェイラ家の名義で行うようにした。
君が権限の外で支出を重ねていると聞いた。
君が外部へ資金や物資を求めたという形になれば、君の立場がさらに難しくなるだろう。
アルヴェイラ家が自らの意思で被災地へ送ったものであれば、君の名誉は守られる。
君は何も気に病むことはない。
責める言葉は、どこにもなかった。
恩を着せる文言も、見返りを求める一文もなかった。
セイラは、手紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
顔を上げると、前庭にアルヴェイラ家の紋章を染めた天幕が並んでいた。
その下で、村の子供が乾いた毛布にくるまっている。
ありがたかった。
本当に、ありがたかった。
この天幕がなければ、今夜も土間で眠る家族がいた。
この薬がなければ、苦しんでいた子供もいた。
ガブリエルが恩を着せようとしているわけではないことも分かっていた。
むしろ、自分を守ろうとしてくれている。
それなのに、胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。
村を沈めると決めたのは、自分だった。
沈めたままにはしないと言ったのも、自分だった。
その後始末の一部が、アルヴェイラ家の名で行われている。
自分が引き受けたはずの責任まで、婚家の大きな庇護の中へ包まれていくようだった。
未来のアルヴェイラ侯爵夫人が担っている仕事を、婚家が支え、その名誉まで守る。
そういう形に、なりつつあった。
何も間違ってはいない。
自分は数年後に、その家へ嫁ぐ予定なのだから。
だからこそ、この違和感を何と呼べばよいのか、セイラには分からなかった。
セイラは手紙を畳んだ。
返書を書こうとして、筆を取り、そのまま置いた。
感謝している。
それは確かだった。
けれど、それだけを書けばよいようには思えなかった。
◇
「受領の処理をします」
アマンダが帳簿を開いた。
「アルヴェイラ侯爵家からの救援。天幕、医薬品、食料、大工と技師の労賃。すべて公的帳簿へ記載します」
「名義はどうしますか?」
ライモンドが尋ねた。
「無条件寄付」
アマンダは、迷わずに書いた。
「返済義務なし。条件なし」
そして、顔を上げた。
「マクセル様、確認をお願いします。この寄付によって、アルヴェイラ侯爵家に沈み野の統治上の権限は生じませんね?」
「生じません」
ライモンドは即答した。
「寄付は無条件です。統治権も、行政への関与権も発生しません」
「今後、この地域で公金の弁済順位が問題になった場合、寄付者が優先されることは?」
「ありません。無条件寄付は債権になりません」
「将来、返礼として土地、権益、事業の優先枠を請求されることは?」
「請求権そのものが発生しません。受領書へ、その旨を明記しておきます」
アマンダは頷き、帳簿へ最後の一行を書き入れた。
セイラは、そのやり取りを黙って聞いていた。
ガブリエルを疑ってはいなかった。
彼は見返りなど求めない。
だが、いま処理しているのは、ガブリエル個人の善意のことではなかった。
侯爵家が被災地へ物資を送り、その地の行政がそれによって助かった。
その事実が、いつか誰かによって、別の意味へ組み替えられることがある。
配給所の回廊で、アマンダに言われたことを思い出した。
あなたの財布で今日を救えても、明日、別の貴族が来なければ同じ人たちは飢えます。
あのときは、自分の財布の話だった。
今度は、婚家の財布の話だった。
「その処理で、お願いします」
セイラは言った。
◇
数日が過ぎた。
天幕の列は増え、仮設住宅の骨組みが二棟、立ち上がった。
大工が墨壺を弾き、村の若い者がその横で材を運んでいる。
医薬品の残量が数えられ、次の便への要請が書き出された。
救援倉庫では、穀物の袋が壁際まで積み上げられている。
配給が始まり、村人が器を持って列を作るようになった。
アマンダの帳簿では、個人補償と共同体再建費が、別の区分として並び始めた。
まだ空欄の多い頁だった。それでも、欄はあった。
セイラの手帳に残された数字も、それぞれ該当する帳簿へ振り分けられていく。
家、三十二戸。納屋、十七。個人補償の側へ。
共同の井戸、三つ。集会所、一つ。水車小屋、一つ。墓、百と少し。共同体再建費の側へ。
ミゲルは、書き写された項目を確認しに来た。
「井戸は三つで合っている」
一つずつ、指で追いながら言った。
「集会所も、水車小屋もそのままだ」
感謝の言葉は、この日もなかった。
セイラは、それでよかった。
帳簿の欄が埋まっただけで、村が戻ったわけではない。
◇
急報が届いたのは、その翌日の夕刻だった。
自治都市の船着場から、監視の者が馬で駆けてきた。
「船が一隻、拿捕されました。至急、お越し願いたいとのことです」
セイラたちが船着場へ着いたとき、その船は岸へ引き上げられていた。
浅底船だった。
沈み野の水路でよく見る型の、荷を積むための船だった。
自治都市の役人が、船倉の覆いを外した。
麻袋が並んでいた。
袋の口には、封が付いたままのものもある。
救援倉庫へ入れる際に、アマンダが打たせた封だった。
「数を照合しました」
役人が言った。
「配給記録に載っていない分です。倉庫から出た記録もありません」
セイラは、袋の一つに手を触れた。
中身は、穀物だった。
被災者へ配るために積まれた穀物だった。
役人が、船尾に置かれていた旗を広げた。
「ティアゴ船団の旗印です」
セイラは、その旗を見た。
洪水の夜、村人たちを運び出したのも、ティアゴの船団だった。
アマンダが、何か言いかけて口を閉じた。
「もう一つ、ございます」
役人が、船底の床板を外させた。
板の下から、油布に包まれた荷が出てきた。
包みが解かれる。
「国境持出し禁止品です」
役人が言った。
夕日が水面へ落ち、船倉の麻袋を赤く染めていた。
袋の封は、半数ほどがまだ破られていなかった。
その隣に、旗があった。
洪水では多くの命を救ったティアゴ船団。
しかし今度は、その旗を掲げた船から救援物資と禁制品が見つかります。
功績と犯罪を切り分けながら、セイラたちは船団を公共の物流へ組み込むための交渉に挑みます。
次回、第8話「密輸船団の合法化」




