表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/6

第6話 沈める村

雨は、夜半を過ぎても弱まらなかった。


行政庁の卓には、七河の地図と、バルトロメの水位記録が広げられたままだった。


ランプの光の下で、セイラの濃い青の髪が、地図の北の端へ影を落としていた。


「セルヴァンとモランテの水は、もう別々の増水ではない」


バルトロメが、合流点から下流へ指を引いた。


「アルヴァーダで一つの波になる。今の堤防と水門では、受け止められん」


「修復済みの堤防は?」


セイラが尋ねた。


「あんたが暴いた通りだ。紙の上だけの堤防に、水は止められん」


バルトロメの指は、本流を下り、自治都市を過ぎ、ナヴェーラの合流点を越え、南の消えかけた線の上で止まった。


ロセーナの旧河道。


「外堤防を切れば、アルヴァーダへ集まる水が、ここで二手に分かれる。本流の水位が下がる。自治都市も、穀倉地帯も、下流の集落も、浸水の危険が遠のく」


「その水は、どこへ行くのですか?」

「旧河道へ入る」


バルトロメは、旧河道沿いの一点を杖の先で押さえた。


二日目に、窪地の向こうに見えた屋根。


「ミゲル・サルガドの村だ」


アマンダが、水位記録から顔を上げた。


「他の方法を検討する時間は?」

「ない」


バルトロメは短く答えた。


「別の場所の堤防を上げるには日数が足りん。水門の修理も間に合わん。何もしなければ、どこかが勝手に決壊する。どこが先に破れるかは、儂にも読めん」


「堤防が破れたら?」


ライモンドが尋ねた。


「破れた場所の下流が、全部沈む。どこが破れるか分からん以上、避難先も決められん」


セイラは、地図の上の小さな点を見た。


「村の人々を全員避難させた場合、家屋は?」

「残らん」

「農地は?」

「残らん。井戸も、墓も、水の下だ」


沈黙が落ちた。


バルトロメは、杖を引いた。


「川の行き先は教えられる。どこへ流すかを決めるのは、あんただ」


セイラは、地図の上の旧河道を見つめたまま、答えなかった。



夜明け前、行政庁の広間に人が集められた。


アフォンソ・モンテイロは、濡れた外套のまま壁際に立っていた。


ベアトリス・コレイアは、自治都市から夜のうちに駆けつけていた。


ティアゴ・ヴァレラは、扉に近い席で腕を組んでいた。


マヌエラ・ソアレスは、名簿の束を膝に置いていた。


そして、卓を挟んでセイラの正面に、初めて会う男が座っていた。


ミゲル・サルガド。

五十半ばの、日に焼けた農夫だった。

村長だと名乗ったきり、口を開いていない。


セイラは地図を全員へ向けて広げ、バルトロメの予測と、外堤防切断の案を説明した。


最初に口を開いたのは、ミゲルだった。


「反対です」


声は低く、静かだった。


「あの土地は、儂の祖父の代から耕してきた。水路も、井戸も、村の者が掘った。墓地には、儂の親も、村の者の親も眠っている」


ミゲルは、地図を見なかった。


「役人は、これまでも何度も来た。治水をやると言った。復興をやると言った。地図を作って、報告書を書いて帰った。あんたも、配給とやらで湿地の連中を飢えさせたそうだな」


セイラは、否定しなかった。


「事実です」

「その人が、今度は儂の村を沈めると言う」

「下流の人々を守るためです」

「分かっている」


ミゲルは、初めて地図へ目を落とした。


「下流に人が住んでいることくらい、儂にも分かっている。だから、儂は今ここに座っている。それでも、はいそうですかと言えるものではない」

「同意を求めているのではありません」


セイラは言った。


「決めるのは私です。その責任も私が負います。ただ、あなたの村が何を失うのかを、あなたの口から聞かないまま決めることはしません」


ミゲルは、しばらくセイラを見ていた。


「……家が三十二戸。納屋が十七。共同の井戸が三つ。集会所が一つ。水車小屋が一つ。墓が、百と少し……」


一つずつ、数えるように言った。


「全部、覚えておいてもらおう」


セイラは手帳を開き、その数を書き取った。


アフォンソが壁際から進み出た。


「時間がないのだろう。守備隊を出す。避難路の確保と、堤防作業と、救助だ。ただし、指揮はこちらで執る。兵を役人の下にはつけん」

「それで構いません」


ベアトリスが続いた。


「自治都市は、船着場と倉庫を開けます。避難民の受け入れも可能です。ただし、受入人数、期間、費用の負担、都市側の権限は、事前に文書で定めてください。善意の口約束では、後で双方が困ります」

「マクセル様、条件書の作成を」


ライモンドが頷き、筆を取った。


ティアゴが腕を組んだまま言った。


「船は出す。水路からの避難なら、うちの船が一番早い。だが、軍の指揮下には入らん。船と船員は俺が動かす」

「輸送許可の枠内で、航路と積載を打ち合わせてください」


セイラが答えると、ティアゴは短く頷いた。


マヌエラが名簿の束を卓へ置いた。


「うちの者を出します。避難の誘導、炊き出し、怪我人の運搬。動ける者は、名簿で把握しています」

「お願いします」


セイラは全員を見回した。


準備は揃いつつあった。

だが、最後の一つだけは、誰にも決められなかった。


ロセーナ旧河道へ、水を入れるかどうか。


セイラは卓の上の地図を見た。

救われる側の名と、沈む側の名が、同じ紙の上にあった。


「村の全住民の避難と、避難完了後の外堤防切断を命じます」


広間が静まった。


「命令者は私です。避難が終わるまで、堤防は切らせません」


セイラは、地図の上のミゲルの村へ視線を落とした。

手帳を握る指に、わずかに力が入っていた。


ミゲルは、何も言わずに立ち上がり、村人へ伝えるため広間を出ていった。



「必要な金額を出します」


現地の代表者たちが退出した後、アマンダが帳簿を開いた。


「救援費、仮住居費、食料、家畜の移送費、当面の補償原資。全部合わせると――」


筆が止まらないまま、数字が並んでいく。


「保全予算の枠を超えます」

「知っています」


アマンダは顔を上げなかった。


「配給のときは、予算の枠を先に見ました。今度は、必要な額を先に出します。不足額も、権限外の分も、全部帳簿へ残します。後で審議されるなら、私が答えます」


赤毛を耳へかけ、彼女は不足見込額の欄へ数字を書き入れた。


ライモンドは、別の卓で文書を組み立てていた。


強制避難命令。

非常時土地使用命令。

外堤防切断命令。

損失記録義務。

水没対象者への補償義務。

命令の失効期限。


六つの項目が、一枚の命令書へまとめられていく。


「一つの文書にまとめるのですね」


セイラが尋ねた。


「分ければ、後からどれか一枚だけを否定できます。避難だけ認めて、補償義務は認めない、という形で」


ライモンドは書き終えた文面を読み返した。


「まとめてあれば、切断を有効と言う者は、補償義務も一緒に呑むことになります」


そして、署名欄を三つ作った。


「本来、この命令は、代表であるあなたの署名だけで成立します」


ライモンドは言った。


「私は文書を作っただけだ、と言うこともできます……ですが、それは、あの方の理屈です」


ライモンドは、書面の末尾に並べた三つの署名欄へ目を落とした。

指先で紙の端を整え、セイラの前へ差し出した。


セイラが筆を取った。


濃い青の髪を耳の後ろへ払い、三つの署名欄の一番上に署名した。

命令者の名として。


アマンダが続いた。

支出の責任者として。


ライモンドは、最後に筆を受け取った。

今度は、迷わなかった。


三つの名が、村を沈める命令の末尾に並んだ。



避難は、雨の中で始まった。


アフォンソの兵が、村までの道の要所に立ち、荷車の列を通していく。

崩れかけた橋の前では、兵が二人がかりで板を渡していた。


ティアゴの浅底船が、増水した水路を何往復もした。

老人が背負われて船へ乗り、鶏の籠が積み上げられ、船縁まで沈んだ船が下流へ向かう。


自治都市の船着場では、ベアトリスの手配した人足が荷を受け取り、倉庫の扉が開かれていた。

受入条件の写しを持った書記が、入ってくる家族の数を数えている。


マヌエラの人々は、村と船着場の間を行き来していた。

炊き出しの鍋が湯気を上げ、濡れた子供に布が配られ、足を挫いた男が戸板で運ばれていく。


ミゲルは、村の中にいた。


動こうとしない年寄りの家の前に立ち、長いこと話していた。

セイラの位置からは、言葉は聞こえなかった。

やがて年寄りは、家族の形見を抱えて家を出た。


家畜が追い立てられ、荷車が泥に沈み、人の手で押し出される。

持てる物だけが運ばれ、持てない物が家々に残されていく。


セイラは、避難本部に立って報告を受け続けた。


「北の組、三十一名、船着場へ着いています」

「南の八戸、家畜の移送中です」

「橋の東、あと二戸」


避難済みの印が、一つずつ増えていく。


バルトロメが、水位標から戻ってきた。


「本流が上がり続けている。もう長くは待てん」

「全員の避難が終わるまで待ちます」

「決壊すれば、避難路ごと呑まれるぞ」


セイラは名簿から顔を上げなかった。


「それでも、待ちます」


雨音の中で、名簿へ印を付ける筆だけが動いていた。


日が傾く頃、ミゲルが本部へ来た。

泥に汚れ、声は掠れていた。


「最後の二戸が出た。儂が全戸を回った」


セイラは名簿の最後の名へ印を付け、点呼の報告と突き合わせた。


「確認しました」


セイラは名簿を閉じた。


「外堤防の切断を命じます」


雨の向こうにある堤防へ目を向けた。



切断地点には、バルトロメと水利人夫たちが待機していた。


雨の中で、鶴嘴が振り上げられ、堤の一角が崩されていく。

人の背より高い堤防が、少しずつ削られ、水がその切れ目を見つけた。


最初は、細い流れだった。


それが見る間に太くなり、土を抉り、切れ目を自分で広げ始めた。


水は旧河道へ流れ込んだ。


乾いていた窪地が川へ戻っていく。

水は昔の道を覚えていた。


農地が呑まれた。

畦が消え、道が消えた。


家々の土台に水が達し、壁を上り、窓へ入った。

納屋が傾き、水車小屋が押し流された。


井戸が沈んだ。


墓地の低い石が、一つずつ水面の下へ消えていった。


同じ頃、アルヴァーダ本流の水位標では、水面が刻み目一つ分、下がっていた。


自治都市の岸で、水を見張っていた者たちが声を上げた。

穀倉地帯の水門では、人足たちが互いの肩を叩いていた。


歓声は、旧河道までは届かなかった。



雨は、翌朝に上がった。


救われた側の岸では、人々が濡れた荷を広げ、日に干し始めていた。


旧河道の側には、泥水だけが広がっていた。


水は引き始めていた。

それでも、村の屋根は一つも見えなかった。


ミゲルは、避難地の端に立ち、泥水の向こうを見ていた。


何も言わなかった。


セイラは、謝罪の言葉を口にしなかった。

正しかったとも、言わなかった。


手帳には、家が三十二戸、納屋が十七、井戸が三つ、集会所が一つ、水車小屋が一つ、墓が百と少し、と書かれたままだった。


セイラは、少し離れた場所から泥水の向こうを見た。


だが、二人の見ているものは、同じではなかった。

洪水は去りました。

しかし、多くを救った代わりに、一つの村が失われた事実は消えません。

セイラは、自ら沈めた村と、その住民たちへの責任に向き合います。

次回、第7話「沈めたままにはしない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ