第6話 沈める村
雨は、夜半を過ぎても弱まらなかった。
行政庁の卓には、七河の地図と、バルトロメの水位記録が広げられたままだった。
ランプの光の下で、セイラの濃い青の髪が、地図の北の端へ影を落としていた。
「セルヴァンとモランテの水は、もう別々の増水ではない」
バルトロメが、合流点から下流へ指を引いた。
「アルヴァーダで一つの波になる。今の堤防と水門では、受け止められん」
「修復済みの堤防は?」
セイラが尋ねた。
「あんたが暴いた通りだ。紙の上だけの堤防に、水は止められん」
バルトロメの指は、本流を下り、自治都市を過ぎ、ナヴェーラの合流点を越え、南の消えかけた線の上で止まった。
ロセーナの旧河道。
「外堤防を切れば、アルヴァーダへ集まる水が、ここで二手に分かれる。本流の水位が下がる。自治都市も、穀倉地帯も、下流の集落も、浸水の危険が遠のく」
「その水は、どこへ行くのですか?」
「旧河道へ入る」
バルトロメは、旧河道沿いの一点を杖の先で押さえた。
二日目に、窪地の向こうに見えた屋根。
「ミゲル・サルガドの村だ」
アマンダが、水位記録から顔を上げた。
「他の方法を検討する時間は?」
「ない」
バルトロメは短く答えた。
「別の場所の堤防を上げるには日数が足りん。水門の修理も間に合わん。何もしなければ、どこかが勝手に決壊する。どこが先に破れるかは、儂にも読めん」
「堤防が破れたら?」
ライモンドが尋ねた。
「破れた場所の下流が、全部沈む。どこが破れるか分からん以上、避難先も決められん」
セイラは、地図の上の小さな点を見た。
「村の人々を全員避難させた場合、家屋は?」
「残らん」
「農地は?」
「残らん。井戸も、墓も、水の下だ」
沈黙が落ちた。
バルトロメは、杖を引いた。
「川の行き先は教えられる。どこへ流すかを決めるのは、あんただ」
セイラは、地図の上の旧河道を見つめたまま、答えなかった。
◇
夜明け前、行政庁の広間に人が集められた。
アフォンソ・モンテイロは、濡れた外套のまま壁際に立っていた。
ベアトリス・コレイアは、自治都市から夜のうちに駆けつけていた。
ティアゴ・ヴァレラは、扉に近い席で腕を組んでいた。
マヌエラ・ソアレスは、名簿の束を膝に置いていた。
そして、卓を挟んでセイラの正面に、初めて会う男が座っていた。
ミゲル・サルガド。
五十半ばの、日に焼けた農夫だった。
村長だと名乗ったきり、口を開いていない。
セイラは地図を全員へ向けて広げ、バルトロメの予測と、外堤防切断の案を説明した。
最初に口を開いたのは、ミゲルだった。
「反対です」
声は低く、静かだった。
「あの土地は、儂の祖父の代から耕してきた。水路も、井戸も、村の者が掘った。墓地には、儂の親も、村の者の親も眠っている」
ミゲルは、地図を見なかった。
「役人は、これまでも何度も来た。治水をやると言った。復興をやると言った。地図を作って、報告書を書いて帰った。あんたも、配給とやらで湿地の連中を飢えさせたそうだな」
セイラは、否定しなかった。
「事実です」
「その人が、今度は儂の村を沈めると言う」
「下流の人々を守るためです」
「分かっている」
ミゲルは、初めて地図へ目を落とした。
「下流に人が住んでいることくらい、儂にも分かっている。だから、儂は今ここに座っている。それでも、はいそうですかと言えるものではない」
「同意を求めているのではありません」
セイラは言った。
「決めるのは私です。その責任も私が負います。ただ、あなたの村が何を失うのかを、あなたの口から聞かないまま決めることはしません」
ミゲルは、しばらくセイラを見ていた。
「……家が三十二戸。納屋が十七。共同の井戸が三つ。集会所が一つ。水車小屋が一つ。墓が、百と少し……」
一つずつ、数えるように言った。
「全部、覚えておいてもらおう」
セイラは手帳を開き、その数を書き取った。
アフォンソが壁際から進み出た。
「時間がないのだろう。守備隊を出す。避難路の確保と、堤防作業と、救助だ。ただし、指揮はこちらで執る。兵を役人の下にはつけん」
「それで構いません」
ベアトリスが続いた。
「自治都市は、船着場と倉庫を開けます。避難民の受け入れも可能です。ただし、受入人数、期間、費用の負担、都市側の権限は、事前に文書で定めてください。善意の口約束では、後で双方が困ります」
「マクセル様、条件書の作成を」
ライモンドが頷き、筆を取った。
ティアゴが腕を組んだまま言った。
「船は出す。水路からの避難なら、うちの船が一番早い。だが、軍の指揮下には入らん。船と船員は俺が動かす」
「輸送許可の枠内で、航路と積載を打ち合わせてください」
セイラが答えると、ティアゴは短く頷いた。
マヌエラが名簿の束を卓へ置いた。
「うちの者を出します。避難の誘導、炊き出し、怪我人の運搬。動ける者は、名簿で把握しています」
「お願いします」
セイラは全員を見回した。
準備は揃いつつあった。
だが、最後の一つだけは、誰にも決められなかった。
ロセーナ旧河道へ、水を入れるかどうか。
セイラは卓の上の地図を見た。
救われる側の名と、沈む側の名が、同じ紙の上にあった。
「村の全住民の避難と、避難完了後の外堤防切断を命じます」
広間が静まった。
「命令者は私です。避難が終わるまで、堤防は切らせません」
セイラは、地図の上のミゲルの村へ視線を落とした。
手帳を握る指に、わずかに力が入っていた。
ミゲルは、何も言わずに立ち上がり、村人へ伝えるため広間を出ていった。
◇
「必要な金額を出します」
現地の代表者たちが退出した後、アマンダが帳簿を開いた。
「救援費、仮住居費、食料、家畜の移送費、当面の補償原資。全部合わせると――」
筆が止まらないまま、数字が並んでいく。
「保全予算の枠を超えます」
「知っています」
アマンダは顔を上げなかった。
「配給のときは、予算の枠を先に見ました。今度は、必要な額を先に出します。不足額も、権限外の分も、全部帳簿へ残します。後で審議されるなら、私が答えます」
赤毛を耳へかけ、彼女は不足見込額の欄へ数字を書き入れた。
ライモンドは、別の卓で文書を組み立てていた。
強制避難命令。
非常時土地使用命令。
外堤防切断命令。
損失記録義務。
水没対象者への補償義務。
命令の失効期限。
六つの項目が、一枚の命令書へまとめられていく。
「一つの文書にまとめるのですね」
セイラが尋ねた。
「分ければ、後からどれか一枚だけを否定できます。避難だけ認めて、補償義務は認めない、という形で」
ライモンドは書き終えた文面を読み返した。
「まとめてあれば、切断を有効と言う者は、補償義務も一緒に呑むことになります」
そして、署名欄を三つ作った。
「本来、この命令は、代表であるあなたの署名だけで成立します」
ライモンドは言った。
「私は文書を作っただけだ、と言うこともできます……ですが、それは、あの方の理屈です」
ライモンドは、書面の末尾に並べた三つの署名欄へ目を落とした。
指先で紙の端を整え、セイラの前へ差し出した。
セイラが筆を取った。
濃い青の髪を耳の後ろへ払い、三つの署名欄の一番上に署名した。
命令者の名として。
アマンダが続いた。
支出の責任者として。
ライモンドは、最後に筆を受け取った。
今度は、迷わなかった。
三つの名が、村を沈める命令の末尾に並んだ。
◇
避難は、雨の中で始まった。
アフォンソの兵が、村までの道の要所に立ち、荷車の列を通していく。
崩れかけた橋の前では、兵が二人がかりで板を渡していた。
ティアゴの浅底船が、増水した水路を何往復もした。
老人が背負われて船へ乗り、鶏の籠が積み上げられ、船縁まで沈んだ船が下流へ向かう。
自治都市の船着場では、ベアトリスの手配した人足が荷を受け取り、倉庫の扉が開かれていた。
受入条件の写しを持った書記が、入ってくる家族の数を数えている。
マヌエラの人々は、村と船着場の間を行き来していた。
炊き出しの鍋が湯気を上げ、濡れた子供に布が配られ、足を挫いた男が戸板で運ばれていく。
ミゲルは、村の中にいた。
動こうとしない年寄りの家の前に立ち、長いこと話していた。
セイラの位置からは、言葉は聞こえなかった。
やがて年寄りは、家族の形見を抱えて家を出た。
家畜が追い立てられ、荷車が泥に沈み、人の手で押し出される。
持てる物だけが運ばれ、持てない物が家々に残されていく。
セイラは、避難本部に立って報告を受け続けた。
「北の組、三十一名、船着場へ着いています」
「南の八戸、家畜の移送中です」
「橋の東、あと二戸」
避難済みの印が、一つずつ増えていく。
バルトロメが、水位標から戻ってきた。
「本流が上がり続けている。もう長くは待てん」
「全員の避難が終わるまで待ちます」
「決壊すれば、避難路ごと呑まれるぞ」
セイラは名簿から顔を上げなかった。
「それでも、待ちます」
雨音の中で、名簿へ印を付ける筆だけが動いていた。
日が傾く頃、ミゲルが本部へ来た。
泥に汚れ、声は掠れていた。
「最後の二戸が出た。儂が全戸を回った」
セイラは名簿の最後の名へ印を付け、点呼の報告と突き合わせた。
「確認しました」
セイラは名簿を閉じた。
「外堤防の切断を命じます」
雨の向こうにある堤防へ目を向けた。
◇
切断地点には、バルトロメと水利人夫たちが待機していた。
雨の中で、鶴嘴が振り上げられ、堤の一角が崩されていく。
人の背より高い堤防が、少しずつ削られ、水がその切れ目を見つけた。
最初は、細い流れだった。
それが見る間に太くなり、土を抉り、切れ目を自分で広げ始めた。
水は旧河道へ流れ込んだ。
乾いていた窪地が川へ戻っていく。
水は昔の道を覚えていた。
農地が呑まれた。
畦が消え、道が消えた。
家々の土台に水が達し、壁を上り、窓へ入った。
納屋が傾き、水車小屋が押し流された。
井戸が沈んだ。
墓地の低い石が、一つずつ水面の下へ消えていった。
同じ頃、アルヴァーダ本流の水位標では、水面が刻み目一つ分、下がっていた。
自治都市の岸で、水を見張っていた者たちが声を上げた。
穀倉地帯の水門では、人足たちが互いの肩を叩いていた。
歓声は、旧河道までは届かなかった。
◇
雨は、翌朝に上がった。
救われた側の岸では、人々が濡れた荷を広げ、日に干し始めていた。
旧河道の側には、泥水だけが広がっていた。
水は引き始めていた。
それでも、村の屋根は一つも見えなかった。
ミゲルは、避難地の端に立ち、泥水の向こうを見ていた。
何も言わなかった。
セイラは、謝罪の言葉を口にしなかった。
正しかったとも、言わなかった。
手帳には、家が三十二戸、納屋が十七、井戸が三つ、集会所が一つ、水車小屋が一つ、墓が百と少し、と書かれたままだった。
セイラは、少し離れた場所から泥水の向こうを見た。
だが、二人の見ているものは、同じではなかった。
洪水は去りました。
しかし、多くを救った代わりに、一つの村が失われた事実は消えません。
セイラは、自ら沈めた村と、その住民たちへの責任に向き合います。
次回、第7話「沈めたままにはしない」




