第4話 最も高い家の娘
護送馬車が動き出し、車輪が泥を噛んだ。
仮庁舎の前庭を回り、街道へ出て、やがて雲の低い方へ消えた。
セイラは、閉じた扉が見えなくなるまでその場に立っていた。
それから庁舎へ戻った。
監察官室の三つの机と書棚には、封印紙が貼られていた。
帝国監察院からの返書が届いたのは、六日後だった。
後任が到着するまで、証拠、帳簿、公金、穀物倉庫、その他の帝国資産を保全すること。
新規の政策を行わないこと。
残留班から代表者一名を定め、地方監督官へ報告すること。
後任の名は、どこにも記されていなかった。
沈み野行政庁書記長が、返書を卓の上へ置いた。
「後任候補の再調査が入っております。任命手続きは、しばらくかかると見るべきでしょう」
「しばらく、とは」
アマンダが尋ねた。
「私には申し上げられません」
書記長は答えた。
それから、返書の三つ目の項目を指した。
「代表者一名について、当庁の先例を申し上げます。同格の官補から対外代表を定める場合、家格順とするのが従来の扱いです」
三人の官補は、いずれも同じ位階だった。
だが、家格で並べれば、侯爵家、伯爵家、そして平民だった。
「能力ではなく、家格を基準にするのですか?」
アマンダが尋ねた。
書記長は、表情を変えなかった。
「保全に失敗して損失が生じた場合、貴族であれば家産による弁済を求められます。中央への責任も、本人だけでなく家門が負います」
「平民には、その家門がないと?」
「処分は本人に下せます。ですが、失われた資産を補う家産も、中央に対して責任を負う家門もありません」
アマンダは、卓の上の返書へ目を落とした。
「あの告発書には、三人の名が同じ紙に並びました――それでも、責任者を決める時には、差し出せる家を持つ者が選ばれるのですね」
書記長は否定しなかった。
「当庁の先例では、そうなります」
「ロセルさんの言う通り、不公平な決め方です」
セイラは言った。
「異議は議事録へ残してください。それでも先例に従うのであれば、私が引き受けます」
アマンダは異議を撤回しなかった。
ただ、別の候補も挙げなかった。
ライモンドが議事録へ目を落とした。
「ロセル嬢の異議を残したうえで、先例に従うことに異論はありません」
書記長が報告書へ筆を走らせた。
「記載する職務は、監察団残留班代表、臨時保全責任者、帝都と現地官吏の連絡窓口。この三点です」
ライモンドが報告書へ目を落とした。
「地域を統治する権限は含まれないのですね」
「含まれません。自治都市、辺境伯領、住民への命令権もありません」
セイラは、書記長が記した三行を見た。
「では、保全の範囲を先に決めます」
アマンダが帳簿を開いた。
「まず、現物を数え直します。封印前の数字を、そのまま引き継ぐことはできません」
「記録のない払出しも停止します」
セイラは言った。
「倉庫を開ける際は、残留班と書記長の双方が立ち会う。払出量、受取先、日時は、新しい管理簿へ残す。それでよろしいですね」
ライモンドが確認した。
「はい」
セイラは答えた。
「旧上司の非常時通行証も、無効として扱ってください」
書記長が頷いた。
セイラは、決まった項目を一つずつ書き留めた。
記録外の払出しを続ければ、また帳簿と現物が離れる。
それを防ぐための手続きだった。
◇
護送馬車が去って十日目、倉庫の検数が終わった。
後任は、まだ来なかった。
アマンダが検数表を持ってきた。
「実在の在庫は、封印前の記録より二割少ないです。帳簿が汚れているので、どこで消えたかは追えません」
アマンダは検数表を卓へ置いた。
「配給要求は、逆に増えています。前任者たちがいた頃は、記録外の払出しで周縁にも食料が回っていました。それが止まりましたから」
「記録外の払出しを、続けるわけにはいきません」
セイラは言った。
アマンダは頷いた。
「私もそう思います。ただ、止めた分をどこへ振り替えるかは、先に決める必要があります」
セイラは、要求票の束をめくった。
配給を求める文書は、行政庁からも、湿地の集落からも、船着場からも届いていた。
現在の記録では、誰へ何をどれだけ渡したのか、追えない。
追えないまま配れば、また同じことになる。
「基準を、公式の住民台帳へ戻します」
セイラは三つの措置を並べた。
古い公式住民台帳に基づく配給の一元化。
未登録船への倉庫払出しと、公営船着場使用の停止。
自治都市への食料供出命令。
ライモンドが、書き取っていた筆を止めた。
「未登録船への払出しを止めるところまでは、資産保全として説明できます。ですが、配給基準を変更し、自治都市へ供出を命じるなら、新しい政策です」
セイラは答えた。
「新しい政策ではありません。本来の帳簿へ戻す、原状回復です」
ライモンドは、三項目を書き分けた紙へ目を落とした。
「少なくとも、供出命令まで同じ解釈で通るとは保証できません」
アマンダは、備蓄表の端を指で押さえた。
「旧台帳なら数字は揃います。でも、今ここにいる人数と一致する保証はありません」
セイラは、参考資料の束へ目を向けた。
「台帳外の方については、本人確認と居住確認を進め、確認できた順に加えます」
「その確認に、何日かかりますか?」
アマンダが尋ねた。
セイラは答えられなかった。
書記長が手元の人員表を確かめた。
「現在の人員では、期限を申し上げられません」
湿地の集落だけで、何家族いるのかも分かっていない。
二日目に受け取った手製の名簿は、参考資料の束に入ったままだ。
本人確認も居住確認も済んでいないものを、帝国穀物の配給根拠にはできない。
食料は減っている。
後任は来ない。
現在の帳簿は信用できない。
台帳外の住民を全員確認する時間はない。
何も決めなければ、そのあいだにも人は飢える。
一番公的で、一番整っているのは、古い住民台帳だった。
セイラは、アマンダとライモンドを順に見た。
「他に、今すぐ実施できる方法はありますか?」
アマンダは備蓄表へ目を落とした。
「現在の住民数を確かめるには時間が足りません。だからといって、旧台帳が正しいとも言えません」
ライモンドも答えた。
「現在の権限だけで、配給と物流の両方をすぐに立て直す方法はありません」
すぐに実施できる別の案は、誰からも出なかった。
セイラは三項目を見下ろした。
「分かりました。私の責任で実施します」
三項目を命令書へまとめ、書記長へ渡した。
◇
配給所は、行政庁の中庭に設けられた。
台帳に名のある者は配給券を受け取り、穀物を受け取る列へ進む。
名のない者は、本人確認のため別の列へ回された。
セイラは運用を確認するため、その場に立ち会った。
別の列は、思っていたよりも長かった。
湿地から来た者。
船で暮らす者。
季節の仕事で入っている者。
周縁の集落から、半日かけて歩いてきた者。
確認を担当する書記は、一人しかいなかった。
「お名前を」
卓の前に立った男が答えると、書記は古い住民台帳の頁を繰った。
「ありません。以前の居住地は?」
「北の堤の外だ。三年前の水で流された」
「居住を証明する文書はありますか?」
「家ごと流された。残っているわけがない」
書記は台帳を見直してから、確認受付の控えを差し出した。
「では、確認待ちになります」
「今日の配給は?」
「確認が済んでからです」
当日の配給は、次々と保留された。
セイラは書記の脇へ進んだ。
「確認が済んだ方から、順に台帳へ加えてください」
書記は額の汗を拭った。
「承知しております。ですが、この人数を私一人で確認するには――」
言葉を切り、まだ続く列へ目を向けた。
「時間がかかります」
保留された者たちは、控えを握ったまま列を離れていった。
一部は何度も紙を見返し、その足で船着場の方へ向かった。
制度を切り替えれば、混乱は起きる。
人員を増やし、確認を進めれば、数日で落ち着くはずだった。
◇
配給所の運用を確認したあと、セイラはその足で公営船着場へ向かった。
そこには、慣熟視察の二日目に見たものと同じ、無標章の浅底船が並んでいた。
積荷の上に腰を下ろしていた男が、ティアゴ・ヴァレラだった。
書記長から、あの船団を束ねる頭領だと聞かされていた。
「未登録船への倉庫払出しと、公営船着場の使用を停止します」
ティアゴは、セイラの顔と、渡された命令書を順に見た。
「そりゃ結構。役所の倉庫だけで、湿地の端まで食わせられるならな」
「必要な物資は、公式の配給で回します」
「どの村へ、何日で?」
セイラは答えた。
「順に整備します」
ティアゴは短く笑い、命令書を船員へ渡した。
「聞いたな。船を引く」
「従っていただけるのですか?」
「従うんじゃない」
ティアゴは立ち上がった。
「船と積荷を押さえられちゃ、何も運べん。押さえられる場所から離れるだけだ」
船が、湿地の奥へ向きを変えた。
その日のうちに、主要航路からティアゴ船団の船影が消えた。
◇
ティアゴ船団が主要航路から姿を消して三日後、書記長が相場表と報告書、それに一通の封書を抱えて入ってきた。
「南方水運路で、穀物と塩の値が急騰しています」
書記長は、相場表を卓へ広げた。
「配給を保留された者たちが、残った船と仲買人へ流れました。ですが、ティアゴ船団が引いた分だけ、運び込まれる量は減っています。買い手が増え、売り物が減った結果です」
「正規の商船は使えませんか?」
セイラが尋ねた。
書記長は首を横に振った。
「許可と積み込みに時間がかかります。今日の不足を埋めるには間に合いません」
アマンダが相場表の数字を追った。
「ティアゴ船団は、安く運んでいたわけではありません。危険な航路では、正規より高い運賃を取ることもあったそうです」
アマンダの指先が、南方の集落名を順に辿る。
「それでも、正規の船が行かない場所へは運んでいました。そこへ届いていた食料が、一度に消えたのですね」
書記長が頷いた。
「はい。配給から外れた者ほど、高い食料を買うしかなくなっています」
セイラは相場表を見た。
「本人確認が進めば、その方々も配給対象へ加えられます」
「確認を待つ人数は、今朝より増えています」
書記長は、報告書を卓へ置いた。
「現在の人員では、受付に追いついておりません。それから、自治都市からも返書が届いています」
書記長は続けて、封書を差し出した。
ライモンドが封を開き、文面を追った。
「供出命令を拒否するとあります」
セイラが尋ねた。
「食料を出さない、ということですか?」
ライモンドは、文書を卓上へ置いた。
「供出そのものを拒んでいるのではありません。期限がない。返済または補償の条件もない。都市に残すべき備蓄量も、配分を監査する手続きも定められていない。そのため、この命令には従えないとしています」
アマンダが末尾へ目を落とした。
「条件を備えた協議であれば、応じるとも書かれています」
セイラは、その一行を二度読んだ。
「条件を上げるための駆け引きでしょう」
書記長は、すぐには頷かなかった。
「少なくとも文面では、供出そのものではなく、無条件の徴発を拒んでおります」
卓上には、三つの問題が並んでいた。
配給から漏れた人々が、市場へ向かう。
市場へ運ぶ船は減り、価格が上がる。
不足を補うために出した供出命令は、条件がないため拒まれる。
セイラは順に書類を引き寄せた。
「確認要員を行政庁から回してください。自治都市には、四点への回答を添えて再照会を出します。正規商船の許可を早められないか、地方監督官へも問い合わせてください」
「承知しました」
書記長は書類を抱え、部屋を出た。
アマンダは、残された要求票の束を見た。
「これで減ればよいのですが」
セイラも同じ束へ目を向けた。
一つずつ原因に対処すれば、いずれ収まるはずだった。
それでも、要求票の束は減らなかった。
◇
その日の夕刻、数人の子供たちを連れて、マヌエラが仮庁舎へ来た。
先頭の子は、空の器を両手で抱えていた。
別の子は、大人の袖を握っていた。
一人が、紙を差し出した。
確認受付の控えだった。
配給の印は、どこにも押されていない。
マヌエラは怒りを押し殺し、努めて平静に告げた。
「三日、待ちました」
マヌエラが、一人ずつ子供たちの名を告げた。
セイラは、その名を公式住民台帳で一つずつ探した。
古い公式台帳には、湿地の集落の欄そのものがなかった。
セイラは、参考資料の束から、雨で波打った紙を取り出した。
二日目に受け取り、正式な台帳へは加えられないと告げた、あの名簿だった。
古い公式台帳と、手製の名簿を、同じ机の上へ並べた。
マヌエラが告げた子供たちの名は、手製の名簿には家族ごとに並んでいた。
公式台帳には、一人の名もなかった。
セイラは、二つの名簿を見比べた。
手製の名簿を押さえる指に、わずかに力が入る。
「確認が済めば……」
言葉が一度途切れた。
セイラは息を整え、公式台帳へ目を戻した。
「台帳へ加えられます。順に進めています」
「三日です」
マヌエラは繰り返した。
それから、空の器を抱えた子の肩へ手を置いた。
「確認が済むまで、この子たちには何も食べさせるな、ということですか?」
セイラは答えようとした。
確認の手順を説明する言葉が、頭の中にはあった。
記録のない配給を続ける危険についても、説明できた。
だが、声にならなかった。
台帳の余白と、名簿の文字を見比べる。
公式台帳の頁をめくろうとした指が、そこで止まった。
自分は、記録を整えたのだと思っていた。
目の前にあるのは、器だった。
空のままの器だった。
正しいはずの配給制度からこぼれ落ちたのは、台帳に名前を持たない人々でした。
自分の命令が生んだ被害を前に、セイラは初めて「正しさ」だけでは人を救えない現実と向き合います。
次回、第5話「帳簿に載らない人々」




