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第3話 存在しない堤防

夜の資料室には、まだ三人が残っていた。

セイラがランプの焦げた芯を切り揃えると、光が卓上へ広がった。

肩から落ちた髪を背へ払い、二枚の図を見比べる。


「別の名で呼ばれている場合があります」


セイラは言った。


「位置が誤って記されている場合も、建設後に洪水で流された場合も、別の工事と混同されている場合もあります」


「つまり、まだ何も分からないということですね」


アマンダが言った。


「だから、可能性を一つずつ潰します」


セイラは白紙の調査表を引き寄せた。


「帳簿と証憑をロセルさんに。追認文書の時系列をマクセル様に。事業報告書の整理と、現地の確認を私が」


アマンダは、すぐには資料へ手を伸ばさなかった。


「上司へ相談せず、私たちだけで調べるのですか?」


「不正を告発するためではありません」


セイラは答えた。


「何が事実で、何がまだ分からないのか。それを確かめるためです」


ライモンドは文書の束へ目を向けた。


「順序は妥当です。ただ、私は今の時点で、不正があると考えているわけではありません」

「私もです」


セイラが答えると、アマンダは帳簿の束へ視線を移した。


「では、私は数字だけを確認します。そこから先の判断は、三人分を持ち寄ってからです」

「異論はありません」


ライモンドが追認文書を引き寄せた。


三人の意見が一致したわけではなかった。

ただ、何も分からないまま別々の棚へ資料を戻すことだけは、誰も選ばなかった。



翌朝、アマンダは財務資料室で、複数年度の帳簿を卓へ並べた。

以前、執行率の欄へ引いた線は、まだ消していなかった。


中央提出用の帳簿写しと、現地保管用の控えを並べ、見比べた。

同じ年度、同じ工区の数字が、二つの帳簿で違っていた。


輸送費の欄には、倉庫間輸送への支払いが並んでいた。

だが、倉庫の開設記録によれば、輸送先とされた建物が使われ始めたのは翌年だった。


備蓄記録では、同じ受領番号を持つ穀物が、離れた二つの倉庫へ同じ日に計上されていた。


アマンダは、該当頁を写し取った。

帳簿番号、頁、数字の対照。

原本の保管棚の位置も、余白へ書き添えた。


写しを綴じ終えてから、財務官の執務室へ向かった。


「三点だけ、確認させてください」


数字の不一致、輸送費、重複計上。

アマンダは、それだけを尋ねた。


フィゲイラの答えは、一件ずつなら成立していた。

中央提出用の数字は、決算前の概算だった。

輸送先の建物は、正式な開設前から臨時保管所として使っていた。

同じ受領番号が二か所に残っているのは、移送前の計上を消し忘れたためだという。


「災害の年の帳簿は、そういうものだよ」


それから、フィゲイラは机の鍵束を脇へ寄せた。


「君は数字が読める。この土地へ来て、これだけ短い間に控えと写しを突き合わせた者はいない」


フィゲイラは静かな口調で、二つの道を示した。


「この数字を正しいまま上へ出せば、職を失うのは君だ。私の数字として整えれば、数年後には君がこの席へ座れる」


アマンダの指が、抱えていた書類綴りの角を強く押さえた。

厚い紙が掌へ食い込み、息が胸の奥で一度止まった。

赤毛が前へ落ちたが、払う余裕はなかった。


採用通知を指先で弾いた日のことが、一瞬よぎった。

自分の署名で予算を動かせるところまで上がる。

そう言った日のことだ。


貴族の二人は、失敗しても家へ帰れる。

告発が虚偽として退けられれば、職を失うのは平民の自分だけだ。


喉が乾いていた。

いま口を開けば、声が揺れるかもしれない。


アマンダは答えなかった。

書類綴りを抱え直し、一礼して退出した。


背後で、フィゲイラが茶を注ぐ音がした。



同じ日の午後、ライモンドは追認文書のうち二件だけを手に、法務官の執務室を訪ねた。


「非常時措置の追認について、法務官の責任範囲はどこまでと考えるべきでしょうか」


モニスは、条文集の頁を押さえたまま答えた。


「私が作った文書は有効です。その権限を何に使ったかは、決裁者の責任でしょう」


法務官が政策の判断まで引き受ければ、それは職務権限の逸脱になる。

その説明は、ライモンドが学んできた条文の理解とも合っていた。


モニスは、二枚の文書を揃えて重ねた。


「君は、良い法務官になれるでしょう。決定そのものまで背負おうとしなければ」

「よく分かりました」


そう答えて退出したとき、ライモンドは納得しかけていた。


法務資料室で、彼は追認文書を年月の順に並べ直した。


非常時の措置が、何年も更新され続けていた。

責任者の名義は、文書ごとに入れ替わっていた。

監査の直前には、請負契約の名義まで変更されていた。


一枚ずつ見れば、どれも有効な文書だった。

だが、時系列に並べると、どれも同じ働きをしていた。


工事を命じた者。

支出を認めた者。

完成を確認した者。


その名が文書ごとに変わり、誰も全体の責任を負わない形にされていた。


ライモンドは筆を置いた。


「……問題は、文書が無効なことではありません」


誰にも聞かせるつもりのない声だった。


「有効な文書を使って、責任の所在を消している」


指先が、一番上の文書の角を押さえた。

紙がわずかに歪んだことに気づき、ライモンドは手を離した。


それから、並べた文書の端を一枚ずつ揃え直した。



翌朝、セイラは過去の事業報告書を、引継ぎ用の一覧へ転記していた。


前日のうちに、上流域第三工区への立入許可を改めて申請したが、職務範囲外として退けられていた。


複数年度の報告書には、監察官の自筆が残っていた。


承認の署名。

被害規模を下方へ書き直した指示。

そして第三工区について、現地確認済みとして扱う記入があった。


セイラは、必要な箇所の写しを取り、文書番号と保管棚を控えた。


一覧の「完成済み」の欄へ、筆を置く。

インクが筆先に溜まり、紙へ落ちかけた。


セイラは筆を上げた。


「現地の実態を確認できていない工事を、完成済みとして引き継ぐことはできません」


その日のうちにバルトロメへ連絡し、翌朝、上流域へ向かう手筈を整えた。

手帳と、バルトロメの現況図から写し取った別紙、完成事業一覧、工事仕様の写しを鞄へ入れた。



翌朝、セイラはバルトロメと数人の水利人夫を伴い、上流域第三工区へ向かった。


公共河川沿いの指定地点であり、立ち入りを禁じる法はない。

禁じられているのは、監察官が定めた職務の範囲だけだった。


指定地点までは、馬車で入れなかった。

セイラは途中で馬車を降り、裾を持ち上げて濡れた土を踏んだ。


バルトロメは杖の先で土手の表面を崩した。

湿った土がこぼれ落ちたが、石は一つも現れなかった。


セイラは工事仕様の写しと、露出した土手の断面を見比べた。


「工事資料では、基礎に石積みがあるはずですが……」

「ない」


バルトロメは杖の先で、崩した断面をなぞった。


「土に埋もれているのでは?」

「石なら杖に当たる。ここにあるのは土だけだ」


荷車が通れば残るはずの轍も、川岸へ石材を下ろした跡もなかった。

村の記録には、人夫を徴発した記載も、工事期間の記録もなかった。


年長の運搬人たちも、工事の名を知らなかった。


「……流されたのなら」


セイラが尋ねた。


「石は残る」


バルトロメは短く答えた。


「ここには、何もない」


「別の名で呼ばれていた可能性は?」

「名が違っても、工事の跡は残る。この流域にはない」


「位置の誤記は?」


バルトロメは、現況図から写した別紙を指した。


「この工区で、これだけの規模を築ける場所はここしかない」


セイラは手帳を開いた。

頁を押さえた指に、いつの間にか力が入っていた。

泥の跡が紙の端へ移ったが、拭う余裕はなかった。


書き留めなければならない。

だが、「存在しない」と記すことは、単なる調査結果を書くこととは違った。


支払われた金。

完成を認めた報告書。

そこに並んでいた署名。

そのすべてが、この何もない土手へつながっていた。


セイラは息を整え、筆を取った。

筆先が一度だけ、紙の上で止まった。


帳簿に記された規模の堤防は、流されたのではない。

最初から、築かれていなかった。



夕刻、仮庁舎へ戻ると、監察官室へ呼ばれた。

サンティリャンの机には、几帳面に整えられた報告書が積まれていた。


「第三工区へ行ったそうだな」

「はい」


セイラは、サンティリャンの目を見て答えた。


「告発の対象は、私たち三人だけでは済まない。この工事の認可や請負に関わった中央の家々まで及ぶ。君が告発者となれば、ヴェルディア侯爵家も無関係ではいられない」


父の顔が脳裏をよぎった。

セイラの呼吸が、一瞬だけ止まった。

手帳を持つ指に力が入り、硬い表紙の角が掌へ食い込んだ。


サンティリャンは、報告書の角を揃えた。


「沈み野の行政が空けば、中央は軍を送る案を出す。自治都市と辺境伯は、その時に備えて兵を動かす」


セイラの指先が白くなった。

それでも、手帳から手を離さなかった。


「沈黙は怠慢ではない。損失を最小に留める選択だ」


セイラは答えなかった。

手帳の角を、指で押さえていた。


サンティリャンは、それを見て頷いた。


「今日は下がりなさい」


セイラは一礼し、監察官室を出た。


扉を閉じても、父の名と、何もなかった土手の光景は、どちらも頭から離れなかった。


手の中の手帳だけが、歩くたびに硬い角を掌へ押し返していた。



同じ日の夜、資料室の卓に三つの束が置かれた。


「帳簿だけでも提出すべきです」


アマンダが言った。

それから、赤毛を耳へかけて口を閉じた。


「……ただ、私の名だけで出すのなら、少し考えさせてください」


「現地の証拠が揃っても、個々の文書は有効です」


ライモンドが言った。


「告発が退けられる可能性があります」


セイラは、監察官室で父の名と、この土地の秩序を持ち出されたことを話した。


「私は、財務官の数字として整えれば、数年後にはあの席へ座れると言われました」


アマンダが言った。


「私は、法務官は決定の責任を負わないと教わりました」


ライモンドが目を伏せた。


「……私も、一度はそれを信じました」


「三人とも、それぞれ逃げ道を示されたようですね」


セイラは言った。


「私は、誰か一人の名だけで出す形にはしたくありません」


アマンダはライモンドへ目を向けた。

ライモンドはしばらく黙ったまま、卓上の文書を見つめていた。


アマンダが証拠綴りを卓の中央へ押し出した。

ライモンドも、時系列に並べた追認文書の写しをその隣へ置いた。


「監察官本人が告発対象です。この場合は、地方監督官へ直接提出できます。上席を経由しない封印報告になります」


清書の前に、セイラは記載する項目を読み上げた。


虚偽の完成報告の疑い。

公金の支出と、実在する工事の不一致。

備蓄と輸送記録の重複。

追認文書によって、責任の所在が分散していること。


要請するのは、正式な調査。

上司三名の暫定的な職務停止。

証拠と公金の保全。

公文書、帳簿、倉庫の封印。


罪名は、どこにも書かなかった。


清書には時間がかかった。

ランプの油を、一度注ぎ足した。


アマンダが筆を取った。

落ちてくる赤毛を耳へかけ、署名欄を見つめる。


「私から書きます」


迷いを振り切るように、名を書いた。


インクが紙へ染み、筆がセイラへ渡された。


セイラは署名欄へ筆先を置いた。


「ロセルさん一人にはしません」


自分の名の下に、家名がある。


それを書き終えてから、筆をライモンドへ渡した。


ライモンドは、筆を受け取ったまま動かなかった。

目だけが、署名欄の余白を追っていた。

ランプの炎が、一度小さくはぜた。


「……責任を負わないままにはできません」


それから、彼は署名した。


三つの名が、同じ紙に並んだ。

誰も、それ以上は何も言わなかった。



翌朝、三人は署名入りの告発書に、財務・法務・現地証拠の写しと原本所在一覧を添え、地方監督官宛ての封印報告として公用便へ託した。


原本は仮庁舎に残した。


告発書を送ってから数日間、帝都から返答はなかった。

サンティリャンたちは従来どおり執務を続け、三人も定型業務へ戻った。


引継ぎ用一覧の第三工区の欄は、まだ空白のままだった。


やがて、帝国監察院の封印を掲げた馬車が到着した。

拘束命令を携えた帝国監察院の監察官と、護送兵が降りた。


監察官は命令書を開き、上司三名の暫定的な職務停止と拘束、公金の保全、公文書、帳簿、倉庫の封印を読み上げた。


「これは有罪の認定ではありません。証拠保全と正式調査のための措置です」


サンティリャンは、最後まで聞いてから言った。


「帳簿の誤りは財務官の責任だ。工事を履行しなかったのは請負業者だ。報告を偽ったのは現地の官吏だ。私は、提出された資料を承認しただけだ」


監察官は、添付された写しの束をめくった。

複数年の報告書に残された承認署名。

被害規模を下方へ書き直した自筆の指示。

第三工区を確認済みとして扱わせた書き込み。


「承認しただけだとしても、これらの記入については帝都で伺います」

命令は取り消されなかった。


フィゲイラは、封印の準備を始めた監察官へ顔を向けた。


「待ってくれ。現地控えは、決算前の数字を含んでいる。中央提出分と違うからといって、虚偽とは限らない」

「帳簿の扱いについても、帝都で確認します。鍵をこちらへ」


差し出された手を前に、フィゲイラは鍵束を握ったまま動かなかった。

金具が触れ合い、乾いた音を立てた。


やがて指を開き、鍵束を机へ置いた。


モニスは、開いたままの条文集へ手を置いた。


「追認文書は、いずれも正規の権限に基づいて作成したものです。手続き上の違法はありません」

「その文書が何のために繰り返し使われたのかも、正式調査の対象です」


モニスの指が、頁の上で止まった。

何かを言い返しかけたが、言葉にはしなかった。


モニスは条文集を閉じかけた。

表紙と頁の端が、わずかにずれた。

それを揃え直し、卓の中央へ置いた。



仮庁舎の外に、護送馬車が着けられていた。

低い雲は、まだ動いていなかった。


フィゲイラとモニスが、先に馬車へ乗せられた。

最後にサンティリャンが足を止め、セイラを見た。


「君は、誰も切り捨てずにこの土地を治められると思っているのか」


咎める声ではなかった。

長くこの土地を預かってきた者が、当然のこととして尋ねる声だった。


セイラは手帳を握り直した。

返す言葉は、見つからなかった。


護送兵がサンティリャンを促した。

馬車の扉が閉じても、その問いだけが残った。

上司を告発した三人に待っていたのは、栄転ではなく沈み野への残留。

そして「実家の爵位が最も高い」――ただそれだけの理由で、セイラは代表に選ばれます。

初めて権限を手にした彼女が下す“正しい判断”は、思わぬ結果を招くことになります。

次回、第4話「最も高い家の娘」

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