第3話 存在しない堤防
夜の資料室には、まだ三人が残っていた。
セイラがランプの焦げた芯を切り揃えると、光が卓上へ広がった。
肩から落ちた髪を背へ払い、二枚の図を見比べる。
「別の名で呼ばれている場合があります」
セイラは言った。
「位置が誤って記されている場合も、建設後に洪水で流された場合も、別の工事と混同されている場合もあります」
「つまり、まだ何も分からないということですね」
アマンダが言った。
「だから、可能性を一つずつ潰します」
セイラは白紙の調査表を引き寄せた。
「帳簿と証憑をロセルさんに。追認文書の時系列をマクセル様に。事業報告書の整理と、現地の確認を私が」
アマンダは、すぐには資料へ手を伸ばさなかった。
「上司へ相談せず、私たちだけで調べるのですか?」
「不正を告発するためではありません」
セイラは答えた。
「何が事実で、何がまだ分からないのか。それを確かめるためです」
ライモンドは文書の束へ目を向けた。
「順序は妥当です。ただ、私は今の時点で、不正があると考えているわけではありません」
「私もです」
セイラが答えると、アマンダは帳簿の束へ視線を移した。
「では、私は数字だけを確認します。そこから先の判断は、三人分を持ち寄ってからです」
「異論はありません」
ライモンドが追認文書を引き寄せた。
三人の意見が一致したわけではなかった。
ただ、何も分からないまま別々の棚へ資料を戻すことだけは、誰も選ばなかった。
◇
翌朝、アマンダは財務資料室で、複数年度の帳簿を卓へ並べた。
以前、執行率の欄へ引いた線は、まだ消していなかった。
中央提出用の帳簿写しと、現地保管用の控えを並べ、見比べた。
同じ年度、同じ工区の数字が、二つの帳簿で違っていた。
輸送費の欄には、倉庫間輸送への支払いが並んでいた。
だが、倉庫の開設記録によれば、輸送先とされた建物が使われ始めたのは翌年だった。
備蓄記録では、同じ受領番号を持つ穀物が、離れた二つの倉庫へ同じ日に計上されていた。
アマンダは、該当頁を写し取った。
帳簿番号、頁、数字の対照。
原本の保管棚の位置も、余白へ書き添えた。
写しを綴じ終えてから、財務官の執務室へ向かった。
「三点だけ、確認させてください」
数字の不一致、輸送費、重複計上。
アマンダは、それだけを尋ねた。
フィゲイラの答えは、一件ずつなら成立していた。
中央提出用の数字は、決算前の概算だった。
輸送先の建物は、正式な開設前から臨時保管所として使っていた。
同じ受領番号が二か所に残っているのは、移送前の計上を消し忘れたためだという。
「災害の年の帳簿は、そういうものだよ」
それから、フィゲイラは机の鍵束を脇へ寄せた。
「君は数字が読める。この土地へ来て、これだけ短い間に控えと写しを突き合わせた者はいない」
フィゲイラは静かな口調で、二つの道を示した。
「この数字を正しいまま上へ出せば、職を失うのは君だ。私の数字として整えれば、数年後には君がこの席へ座れる」
アマンダの指が、抱えていた書類綴りの角を強く押さえた。
厚い紙が掌へ食い込み、息が胸の奥で一度止まった。
赤毛が前へ落ちたが、払う余裕はなかった。
採用通知を指先で弾いた日のことが、一瞬よぎった。
自分の署名で予算を動かせるところまで上がる。
そう言った日のことだ。
貴族の二人は、失敗しても家へ帰れる。
告発が虚偽として退けられれば、職を失うのは平民の自分だけだ。
喉が乾いていた。
いま口を開けば、声が揺れるかもしれない。
アマンダは答えなかった。
書類綴りを抱え直し、一礼して退出した。
背後で、フィゲイラが茶を注ぐ音がした。
◇
同じ日の午後、ライモンドは追認文書のうち二件だけを手に、法務官の執務室を訪ねた。
「非常時措置の追認について、法務官の責任範囲はどこまでと考えるべきでしょうか」
モニスは、条文集の頁を押さえたまま答えた。
「私が作った文書は有効です。その権限を何に使ったかは、決裁者の責任でしょう」
法務官が政策の判断まで引き受ければ、それは職務権限の逸脱になる。
その説明は、ライモンドが学んできた条文の理解とも合っていた。
モニスは、二枚の文書を揃えて重ねた。
「君は、良い法務官になれるでしょう。決定そのものまで背負おうとしなければ」
「よく分かりました」
そう答えて退出したとき、ライモンドは納得しかけていた。
法務資料室で、彼は追認文書を年月の順に並べ直した。
非常時の措置が、何年も更新され続けていた。
責任者の名義は、文書ごとに入れ替わっていた。
監査の直前には、請負契約の名義まで変更されていた。
一枚ずつ見れば、どれも有効な文書だった。
だが、時系列に並べると、どれも同じ働きをしていた。
工事を命じた者。
支出を認めた者。
完成を確認した者。
その名が文書ごとに変わり、誰も全体の責任を負わない形にされていた。
ライモンドは筆を置いた。
「……問題は、文書が無効なことではありません」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「有効な文書を使って、責任の所在を消している」
指先が、一番上の文書の角を押さえた。
紙がわずかに歪んだことに気づき、ライモンドは手を離した。
それから、並べた文書の端を一枚ずつ揃え直した。
◇
翌朝、セイラは過去の事業報告書を、引継ぎ用の一覧へ転記していた。
前日のうちに、上流域第三工区への立入許可を改めて申請したが、職務範囲外として退けられていた。
複数年度の報告書には、監察官の自筆が残っていた。
承認の署名。
被害規模を下方へ書き直した指示。
そして第三工区について、現地確認済みとして扱う記入があった。
セイラは、必要な箇所の写しを取り、文書番号と保管棚を控えた。
一覧の「完成済み」の欄へ、筆を置く。
インクが筆先に溜まり、紙へ落ちかけた。
セイラは筆を上げた。
「現地の実態を確認できていない工事を、完成済みとして引き継ぐことはできません」
その日のうちにバルトロメへ連絡し、翌朝、上流域へ向かう手筈を整えた。
手帳と、バルトロメの現況図から写し取った別紙、完成事業一覧、工事仕様の写しを鞄へ入れた。
◇
翌朝、セイラはバルトロメと数人の水利人夫を伴い、上流域第三工区へ向かった。
公共河川沿いの指定地点であり、立ち入りを禁じる法はない。
禁じられているのは、監察官が定めた職務の範囲だけだった。
指定地点までは、馬車で入れなかった。
セイラは途中で馬車を降り、裾を持ち上げて濡れた土を踏んだ。
バルトロメは杖の先で土手の表面を崩した。
湿った土がこぼれ落ちたが、石は一つも現れなかった。
セイラは工事仕様の写しと、露出した土手の断面を見比べた。
「工事資料では、基礎に石積みがあるはずですが……」
「ない」
バルトロメは杖の先で、崩した断面をなぞった。
「土に埋もれているのでは?」
「石なら杖に当たる。ここにあるのは土だけだ」
荷車が通れば残るはずの轍も、川岸へ石材を下ろした跡もなかった。
村の記録には、人夫を徴発した記載も、工事期間の記録もなかった。
年長の運搬人たちも、工事の名を知らなかった。
「……流されたのなら」
セイラが尋ねた。
「石は残る」
バルトロメは短く答えた。
「ここには、何もない」
「別の名で呼ばれていた可能性は?」
「名が違っても、工事の跡は残る。この流域にはない」
「位置の誤記は?」
バルトロメは、現況図から写した別紙を指した。
「この工区で、これだけの規模を築ける場所はここしかない」
セイラは手帳を開いた。
頁を押さえた指に、いつの間にか力が入っていた。
泥の跡が紙の端へ移ったが、拭う余裕はなかった。
書き留めなければならない。
だが、「存在しない」と記すことは、単なる調査結果を書くこととは違った。
支払われた金。
完成を認めた報告書。
そこに並んでいた署名。
そのすべてが、この何もない土手へつながっていた。
セイラは息を整え、筆を取った。
筆先が一度だけ、紙の上で止まった。
帳簿に記された規模の堤防は、流されたのではない。
最初から、築かれていなかった。
◇
夕刻、仮庁舎へ戻ると、監察官室へ呼ばれた。
サンティリャンの机には、几帳面に整えられた報告書が積まれていた。
「第三工区へ行ったそうだな」
「はい」
セイラは、サンティリャンの目を見て答えた。
「告発の対象は、私たち三人だけでは済まない。この工事の認可や請負に関わった中央の家々まで及ぶ。君が告発者となれば、ヴェルディア侯爵家も無関係ではいられない」
父の顔が脳裏をよぎった。
セイラの呼吸が、一瞬だけ止まった。
手帳を持つ指に力が入り、硬い表紙の角が掌へ食い込んだ。
サンティリャンは、報告書の角を揃えた。
「沈み野の行政が空けば、中央は軍を送る案を出す。自治都市と辺境伯は、その時に備えて兵を動かす」
セイラの指先が白くなった。
それでも、手帳から手を離さなかった。
「沈黙は怠慢ではない。損失を最小に留める選択だ」
セイラは答えなかった。
手帳の角を、指で押さえていた。
サンティリャンは、それを見て頷いた。
「今日は下がりなさい」
セイラは一礼し、監察官室を出た。
扉を閉じても、父の名と、何もなかった土手の光景は、どちらも頭から離れなかった。
手の中の手帳だけが、歩くたびに硬い角を掌へ押し返していた。
◇
同じ日の夜、資料室の卓に三つの束が置かれた。
「帳簿だけでも提出すべきです」
アマンダが言った。
それから、赤毛を耳へかけて口を閉じた。
「……ただ、私の名だけで出すのなら、少し考えさせてください」
「現地の証拠が揃っても、個々の文書は有効です」
ライモンドが言った。
「告発が退けられる可能性があります」
セイラは、監察官室で父の名と、この土地の秩序を持ち出されたことを話した。
「私は、財務官の数字として整えれば、数年後にはあの席へ座れると言われました」
アマンダが言った。
「私は、法務官は決定の責任を負わないと教わりました」
ライモンドが目を伏せた。
「……私も、一度はそれを信じました」
「三人とも、それぞれ逃げ道を示されたようですね」
セイラは言った。
「私は、誰か一人の名だけで出す形にはしたくありません」
アマンダはライモンドへ目を向けた。
ライモンドはしばらく黙ったまま、卓上の文書を見つめていた。
アマンダが証拠綴りを卓の中央へ押し出した。
ライモンドも、時系列に並べた追認文書の写しをその隣へ置いた。
「監察官本人が告発対象です。この場合は、地方監督官へ直接提出できます。上席を経由しない封印報告になります」
清書の前に、セイラは記載する項目を読み上げた。
虚偽の完成報告の疑い。
公金の支出と、実在する工事の不一致。
備蓄と輸送記録の重複。
追認文書によって、責任の所在が分散していること。
要請するのは、正式な調査。
上司三名の暫定的な職務停止。
証拠と公金の保全。
公文書、帳簿、倉庫の封印。
罪名は、どこにも書かなかった。
清書には時間がかかった。
ランプの油を、一度注ぎ足した。
アマンダが筆を取った。
落ちてくる赤毛を耳へかけ、署名欄を見つめる。
「私から書きます」
迷いを振り切るように、名を書いた。
インクが紙へ染み、筆がセイラへ渡された。
セイラは署名欄へ筆先を置いた。
「ロセルさん一人にはしません」
自分の名の下に、家名がある。
それを書き終えてから、筆をライモンドへ渡した。
ライモンドは、筆を受け取ったまま動かなかった。
目だけが、署名欄の余白を追っていた。
ランプの炎が、一度小さくはぜた。
「……責任を負わないままにはできません」
それから、彼は署名した。
三つの名が、同じ紙に並んだ。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
◇
翌朝、三人は署名入りの告発書に、財務・法務・現地証拠の写しと原本所在一覧を添え、地方監督官宛ての封印報告として公用便へ託した。
原本は仮庁舎に残した。
告発書を送ってから数日間、帝都から返答はなかった。
サンティリャンたちは従来どおり執務を続け、三人も定型業務へ戻った。
引継ぎ用一覧の第三工区の欄は、まだ空白のままだった。
やがて、帝国監察院の封印を掲げた馬車が到着した。
拘束命令を携えた帝国監察院の監察官と、護送兵が降りた。
監察官は命令書を開き、上司三名の暫定的な職務停止と拘束、公金の保全、公文書、帳簿、倉庫の封印を読み上げた。
「これは有罪の認定ではありません。証拠保全と正式調査のための措置です」
サンティリャンは、最後まで聞いてから言った。
「帳簿の誤りは財務官の責任だ。工事を履行しなかったのは請負業者だ。報告を偽ったのは現地の官吏だ。私は、提出された資料を承認しただけだ」
監察官は、添付された写しの束をめくった。
複数年の報告書に残された承認署名。
被害規模を下方へ書き直した自筆の指示。
第三工区を確認済みとして扱わせた書き込み。
「承認しただけだとしても、これらの記入については帝都で伺います」
命令は取り消されなかった。
フィゲイラは、封印の準備を始めた監察官へ顔を向けた。
「待ってくれ。現地控えは、決算前の数字を含んでいる。中央提出分と違うからといって、虚偽とは限らない」
「帳簿の扱いについても、帝都で確認します。鍵をこちらへ」
差し出された手を前に、フィゲイラは鍵束を握ったまま動かなかった。
金具が触れ合い、乾いた音を立てた。
やがて指を開き、鍵束を机へ置いた。
モニスは、開いたままの条文集へ手を置いた。
「追認文書は、いずれも正規の権限に基づいて作成したものです。手続き上の違法はありません」
「その文書が何のために繰り返し使われたのかも、正式調査の対象です」
モニスの指が、頁の上で止まった。
何かを言い返しかけたが、言葉にはしなかった。
モニスは条文集を閉じかけた。
表紙と頁の端が、わずかにずれた。
それを揃え直し、卓の中央へ置いた。
◇
仮庁舎の外に、護送馬車が着けられていた。
低い雲は、まだ動いていなかった。
フィゲイラとモニスが、先に馬車へ乗せられた。
最後にサンティリャンが足を止め、セイラを見た。
「君は、誰も切り捨てずにこの土地を治められると思っているのか」
咎める声ではなかった。
長くこの土地を預かってきた者が、当然のこととして尋ねる声だった。
セイラは手帳を握り直した。
返す言葉は、見つからなかった。
護送兵がサンティリャンを促した。
馬車の扉が閉じても、その問いだけが残った。
上司を告発した三人に待っていたのは、栄転ではなく沈み野への残留。
そして「実家の爵位が最も高い」――ただそれだけの理由で、セイラは代表に選ばれます。
初めて権限を手にした彼女が下す“正しい判断”は、思わぬ結果を招くことになります。
次回、第4話「最も高い家の娘」




