第2話 沈み野《アネガード》
街道の現況を確かめ終えた三人は、予定より半刻遅れて地方監察団の仮庁舎へ着いた。
三人の外套の裾には乾きかけた泥がこびりつき、セイラの靴にも厚く残っていた。
低い雲は、帝都を発った日と変わらず、沈み野の上に居座っていた。
仮庁舎は、旧行政庁舎を転用したものだった。
外壁のひび割れには、間に合わせの板が打ち付けられている。
案内された備蓄倉庫の扉を開けると、土間に積まれた麻袋は数えるほどだった。
事前資料に記された残量には、明らかに届かない。
床には、湿気を吸って黒ずんだ跡が、壁際まで続いていた。
倉庫を出た三人は、そのまま監察官室へ通された。
机の上には、これまでの報告書が几帳面に積まれている。
セイラは手帳を開いた。
「復旧完了」とされた街道に残る、深い轍と崩れた路肩の記録が、そこにあった。
セイラは、三人の上司と向き合った。
「主要街道は復旧完了となっています。ですが、馬車の車輪が沈むほどの轍が残っていました」
監察官アルバロ・サンティリャンは動じなかった。
「以前、実情をそのまま中央へ報告したことがある。軍の派遣案が出され、自治都市と辺境伯の兵が、互いに武器を向けかけた。沈み野では、正確すぎる報告が正しい結果を生むとは限らんのだ」
財務官ヌーノ・フィゲイラは、倉庫の鍵束を机へ置いた。
「君が見た一覧は、決算前の概算だ。未精算分は災害復旧枠として一括で留保される。請負先が違っても、中央へ出す段階では似た執行率になることがある」
アマンダは、それ以上は聞き返さず、数字を手元へ書き留めた。
ただし、複数年度にわたって同じ執行率が並ぶ箇所へ引いた線は、消さなかった。
法務官セザール・モニスは、机の端に置かれた追認印へ一度目を落とし、指を組んだ。
「事後追認そのものは違法ではありません。非常時命令は、通常の決裁を待てない場合に執行を先行させる、正式な制度です。問題があるとすれば、手続きではなく運用でしょう」
反論できるだけの客観的な事実がまだ足りない。
セイラは、それを認めるしかなかった。
サンティリャンは、机の上に一冊の書類を置いた。
表紙には、几帳面な字で「完成事業一覧」と記されている。
「三日も見れば、帝都の理屈だけでは扱えない土地だと分かる。慣熟視察として、三日間の行程を組んでおいた」
セイラは、差し出された一覧を開いた。
行程に記されているのは、中央本流の自治都市、南方のエルシア川、東方国境の砦だった。
完成済みの大規模事業と行程を見比べるうち、セイラは一項目で指を止めた。
上流域第三工区の堤防工事。
規模の大きな事業であるにもかかわらず、その工区は三日間の行程に含まれていない。
「上流域第三工区も、確認したいのですが」
「それは行程の外だ。まず、決められた三日を終えなさい」
サンティリャンは、行程表を完成事業一覧の上へ重ねた。
これ以上の説明はなかった。
セイラは一覧を閉じる前に、上流域第三工区の名を手帳へ書き留めた。
◇
一日目、中央本流アルヴァーダ川の中流にある自治都市で、参事会代表ベアトリス・コレイアと会った。
石造りの市庁舎は水害の跡もなく、港からは荷を積む商人たちの声が聞こえてきた。
面会室の奥には、鉄格子の嵌まった保管庫の扉があった。
「監察の権限は尊重いたします。ですが、商会帳簿や港湾税台帳まで閲覧なさる法的根拠を、文書でお示しください。緊急事態を理由とした自治権の侵害には、同意いたしかねます」
ライモンドは、法務官補の身分証と監察団の派遣命令書を差し出した。
「公共倉庫と帝国公金の支出については、監察団に閲覧権があります。ただし、自治都市の港湾税台帳と民間商会の帳簿まで含めるには、監察官名義で範囲を指定した追加命令が必要です」
「では、その命令をお持ちください」
ベアトリスは、そう告げて保管庫の扉を閉じた。
鍵の回る乾いた音が、廊下に響いた。
ライモンドは、それ以上を主張しなかった。
追加命令がなければ、踏み込めないのだ。
それでもセイラには、ベアトリスの慎重さが、必要な調査を自治権の名で先延ばしにしているように見えた。
◇
二日目、南のエルシア川へ入った。
湿った土と、腐りかけた葦の匂いが濃くなった。
上流から流されてきた丸太が、岸へ幾つも打ち上げられていた。
皇帝直轄穀倉地帯の紋章を付けた穀物船が本流を下る一方で、帝国の標章を持たない浅底船が一隻、湿地の奥へ穀物袋を運んでいくのが見えた。
水門ごとに異なる紋章が掲げられ、脇の札に記された開閉時刻も揃っていなかった。
水利官バルトロメ・セラーノが、セイラの広げた帝都の地図を一瞥した。
「その地図は正しい。だが、川は地図を読まん」
セイラは、地図を畳んだ。
「では、地図にない流れを見せてください」
バルトロメが目を細めた。
セイラは裾を持ち上げ、湿った岸へ自ら降りた。
泥は、街道で見たものより柔らかく、靴の中まで冷たさが染みた。
バルトロメの現況図には、四十年分の書き込みが、色の違う墨で重なっていた。
「こいつは原本だ。役所へ渡して、戻らなかった地図は一枚や二枚じゃない」
セイラは、必要な箇所だけを、その場で別紙へ写し取った。
セイラは、事業一覧を開いた。
「上流域第三工区の堤防、ご存じですか?」
バルトロメは、首を振った。
同行していた水利人夫も、同じだった。
近くの集落でも尋ねたが、知る者はいなかった。
七河すべての水利記録を長く扱ってきた男が、その名を知らない。
だが、別称か、記載の誤りかもしれない。
セイラは、その場では結論を出さなかった。
「七本の川を、七人が別々に使っているようなものだ」
バルトロメは、それだけ言った。
水利の現況確認を続ける途中、バルトロメは湿地沿いの集落へ三人を案内した。
一人の女性が、三人の前へ進み出た。
「マヌエラ・ソアレスです。ここにいる者たちの取りまとめをしています」
マヌエラが手製の名簿を差し出した。
雨に濡れて波打った紙には、家族ごとに名と年齢が並んでいた。
セイラは名簿を受け取った。
「参考資料として預かります。ただし、本人確認も居住確認も済んでいません。正式な住民台帳へ加えることはできません」
「受け取るだけなら、前の方もなさいました」
マヌエラは、名簿から手を離した。
帰り道、バルトロメが湿地の先の窪地を指した。
セイラは、その方向を見た。
「あれは、もう川ではないのですか?」
「地図の上ではな。雨が続けば、水は昔の道へ戻る」
窪地の向こうに、小さな村の屋根が見えていた。
◇
三日目、東方国境河川タルヴェロ川沿いの砦は、石壁の一部が崩れたまま応急に組み直されていた。
辺境伯アフォンソ・モンテイロが、部下に補給庫の扉を開けさせた。
棚は、埃だけを残して空だった。
「増援と補給の申請は、監察団の『危機なし』という報告のせいで、跳ね返された」
アフォンソは続けた。
「補給が来ないのなら、無許可船を一括で接収する。国境に居座る無戸籍者も、外へ出す」
セイラは眉を寄せた。
「無許可船の一括接収も、無戸籍者の追放も、認められません」
「ならば、補給を寄越せ」
「その必要性は、監察報告へ記載します」
「記載では、兵は食えん」
セイラは、それ以上を言えなかった。
◇
仮庁舎に戻ったセイラは、サンティリャンに言った。
「複雑であることは理解しました。ですが、その複雑さを報告書から消す必要があった理由までは、まだ理解できません」
サンティリャンは、静かに頷いた。
「複雑さを理解したならそれで十分だ。報告の判断は私が引き受ける。君たちは、まず与えられた実務を覚えなさい」
セイラには過去の事業報告書の整理が、アマンダには支出台帳の照合が、ライモンドには追認文書の分類が命じられた。
それぞれの書類は、別の棚から出され、別の担当へ渡された。
いずれも新人官補の実務として、異を唱えられる内容ではなかった。
◇
夜、資料室に三人だけが残った。
卓の上のランプが、紙の縁を淡く照らしている。
昼間、それぞれ別の棚から渡された書類が、今は一つの卓に並んでいた。
アマンダが支出台帳を開いた。
「上流域第三工区の堤防です。完成日も、支払額も記されています」
ライモンドが追認文書を並べた。
「個々の追認文書は有効です。ですが、工事を命じた者、支出を承認した者、完成を確認した者が別々に記され、最終的な決裁責任の所在が残っていません」
セイラは、帝国の行政地図に、バルトロメの現況図から写し取った別紙を重ねた。
ランプの光の下で、二つの図の位置を合わせる。
どちらにも、堤防を示す線はない。
バルトロメも、水利人夫も、集落の者も、その名を知らなかった。
「……この工事は、どこで行われたのですか」
帳簿には、存在する。
地図にも、人の記憶にも、見つからない。
三人とも、その問いには答えられなかった。
帳簿には完成と記された上流域第三工区。
しかし、地図にも人々の記憶にも、その堤防は見つからない。
セイラたち三人は、それぞれの専門から、沈み野に隠された不正へ踏み込んでいきます。
次回、第3話「存在しない堤防」




