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第1話 侯爵令嬢の卒業

前書き


侯爵令嬢セイラ・ヴェルディア。

用意された未来を疑わなかった彼女の人生は、辺境の「沈み野」への赴任から動き始めます。

全13話、統治と責任をめぐる物語の始まりです。

貴族学園大学の卒業式が終わると、祝賀会場には昼下がりの光が満ちていた。

磨かれた大理石の床には午後の日差しが淡く反射し、祝いの卓からは、甘い焼き菓子と微かな柑橘茶の香りが漂っている。


式典用の正装は肩にわずかな重みを残していたが、その重ささえ、今日のセイラには心地よかった。


セイラ・ヴェルディアは、その一角で二人の同期と向かい合っていた。

背中まで届く、紺色に近い濃い青の髪を隙なく結い上げ、侯爵令嬢らしい端正な装いを崩していない。


地方行政学科を首席級の成績で修めた彼女は、卒業後、帝国地方監察官補として採用されることが決まっていた。


ひととおり卒業の祝いを交わしたあと、セイラは赤毛の同期へ目を向けた。


「ロセルさんは、財務院へ?」


アマンダ・ロセルが、わずかに眉を上げた。


「合同演習で、備蓄費の計算を一人だけ修正していたでしょう。あれは、よく覚えています」

「ヴェルディア侯爵令嬢こそ。河川輸送の再編案は、教授会でも随分と評判でしたよ」


アマンダの声音には、侯爵令嬢を前にした遠慮も、過度な追従もなかった。


「お二人とも、互いの仕事はよくご存じなのですね」


力みのない穏やかな声音で口を挟んだのは、茶色の髪と瞳の青年、ライモンド・マクセルだった。


「ロセル嬢は、最初の希望どおり財務ですか」


アマンダは、真新しい採用通知を指先で弾いた。


「官補のうちは、数字をどれだけ整えても、最後に名を書くのは別の人です。自分の署名で予算を動かせるところまでは、上がります」

「マクセル様は、家を継がれるのでは?」

「兄が二人いますから。私は、家名がなくても食べていける官職があれば十分です」


ライモンドは穏やかに笑い、それからセイラを見た。


「ヴェルディア侯爵令嬢も、監察院に残るおつもりですか?」

「いいえ。結婚までの数年間です」


セイラは、会場の向こうへ目を向けた。


大学で学んだ治水も、備蓄も、街道整備も、いずれ婚家の領地で役立てられる。

それ以上に望むべき将来を、セイラは考えたことがなかった。


やがて、人波の向こうから、父ロドリゴ・ヴェルディア侯爵と、婚約者のガブリエル・アルヴェイラが歩み寄ってきた。


二人の姿に気づくと、アマンダとライモンドはそれぞれ一礼し、家族の祝いを邪魔しないよう人波の向こうへ退いた。


「見事な卒業だ、セイラ」


ロドリゴは厳格な面持ちのまま、声に深い誇りを滲ませた。


「その学識は、いずれ実家と婚家の双方を支えることになる」

「君の知識は、きっとアルヴェイラ領を豊かにしてくれる」


ガブリエルの声には、微塵の疑いもない信頼があった。


「南部の灌漑地について、今度君の意見を聞かせてほしい。父も楽しみにしている」


セイラは、胸元の卒業章へ指を触れた。


「ご期待に添えるよう、務めます」


そう答えると、父は満足そうに頷き、ガブリエルは嬉しそうに笑った。



会場の隅の窓辺に、姉のイネスが立っていた。

すでに他家へ嫁いだ姉は、家族の誰よりも静かな目をしてセイラを見ていた。


「あなた自身は――」


イネスは、前置きもなく切り出した。


「官僚の仕事を、いつまで続けたいの?」

「結婚までの数年間です。当然でしょう」


イネスは、すぐには答えなかった。

会場の方から、父がセイラを呼ぶ声がした。


「……そう」


イネスは窓の外へ目を向けたまま、わずかに笑った。


「あなたが、そう思っているなら……」

「お姉様?」

「……お父様がお呼びよ」


会場では、次の祝杯を告げる拍手が起こった。

問い返す間を与えず、イネスは会場の方を示した。



数日後、帝国監察院。

正式な辞令が交付され、セイラ、アマンダ、ライモンドの三人は、それぞれの専門を担当する官補として、沈み野(アネガード)地方監察団への配属を命じられた。


辞令を手に廊下へ出ると、すれ違う官僚たちの声が耳に触れた。


「沈み野送りか」

「気の毒に。名のとおり、赴任した官吏まで沈む土地だ」


背後の笑い声が遠ざかってから、アマンダは辞令を握ったまま、廊下の先を見た。


「随分と、景気のいい初任地ですね」

「二年の期限付きです」


ライモンドが、辞令の末尾を示した。


「ただし、業務上必要な場合は延長できる、とあります」

「つまり、二年で帰れる保証はない、と」


アマンダの声が、一段低くなった。


「二年で終えられないのなら、その理由が現地にあるはずです。まず、それを確かめます」


セイラは、自分の辞令を折り畳んだ。



出立を控えた日、三人は監察院の資料室に集まった。

作業台の上に、沈み野の地図と、行政報告書、予算資料、それに幾通もの非常時特例命令書が広げられている。


アマンダが、分担表へ指を置いた。


「分担表を確認させてください。家格ではなく、専門で割り振られているか確かめておきたいので」

「当然です」


セイラは、即座に応じた。


「私も、その方が合理的だと思います」


アマンダは、一度瞬きをした。


セイラは、地図の中央を走る太い青線へ指を置いた。

地図には、七本の主要河川が青い線で描かれていた。


「中央を貫く本流のアルヴァーダ川。ここで北部街道と交差し、下流の自治都市には河港があります」


セイラは指を下流へ滑らせ、途中で西へ折れる細い線を追った。


「ナヴェーラ流域が、主要な穀倉地帯ですね」


アマンダは予算書の頁をめくり、該当する項目を指で押さえた。


「昨年度は、ナヴェーラ流域の灌漑修繕費が計上されています」


セイラが地図の南側へ目を移すと、そこには、ほとんど消えかけた線でロセーナの旧河道が描かれていた。


セイラは、改めて地図全体を見渡した。


「流域ごとの復旧事業は、少なくとも地図の上では整合しています」


その時、アマンダが、予算書の一点で眉をひそめた。


「……妙ですね」


指先が、執行率の欄を追っている。


「施工年度も、請負先も違うのに、執行率が揃いすぎています。不正とまでは断定できません。ですが、現地で原簿を見たい数字です」


ライモンドは、命令書の末尾へ並んだ印を、一枚ずつ確かめた。


「非常時特例は、すべて正式に追認されています。違法かどうかの判断は、原簿と工事記録を照合してからでしょう」


「では、予算資料はロセルさん。特例命令と契約は、マクセル様にお願いします。私は、事業報告と地図を照合します」


セイラは、白紙の調査表を三つの欄に分けた。


事業。

財務。

法務。


三人の会話が途切れ、紙をめくる乾いた音だけが資料室に残った。



数日後の早朝、監察団を乗せた馬車が帝都を発った。


石畳の街道は、沈み野へ近づくにつれて次第に狭くなり、整っていた路面にも泥と深い轍が目立ち始めた。


そして沈み野へ入って間もなく、監察団の馬車が大きく揺れた。

車輪が、街道の深い轍へ沈み込んだ。


「雨の後は、いつもこうです」


御者が、当然のように言った。


セイラは膝の上の報告書を開いた。

そこには、

「主要街道復旧完了」

と記されていた。


「馬車を止めてください。ここで降りて、報告書と現況を照合します。確認が済むまで、ここで待っていてください」


セイラが告げると、御者は手綱を引いた。


馬車が止まるのを待ち、セイラは自ら地面へ降りた。

真新しい靴が泥へ沈む。

アマンダとライモンドも後に続いた。



沈み野(アネガード)の河川敷には、低い雲が垂れ込めていた。


濡れた葦と腐土の匂いが、淀んだ風に混じっていた。


古びた石積みの堤防が、灰色の空の下に連なっていた。


行政資料では、その堤防は「修復済み」となっていた。


だが、積まれた石の隙間から、細い泥水が静かに流れ出していた。


音もなく、絶え間なく。

その水を報告する者は、誰もいなかった。

次回予告


帳簿では復旧済み――しかし三人が現地で目にしたものは、まるで違っていました。

新人監察官たちは、沈み野に積み重なった最初の違和感と向き合います。

次回、第2話「沈み野(アネガード)

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