第12話 エクスィード女公爵
宮廷の大審議場は、監察院の広間より天井が高かった。
石壁に沿って三段の席が並び、高位貴族が座を占めている。
監察院、財務院、法務院、軍務の関係者も列席していた。
正面には、皇帝の座がある。
セイラ、アマンダ、ライモンドの三人は、その中央へ立った。
卓上には、三つの文書と、一枚の地図が並べられている。
独立創家勅書案。
継承原則案。
建領憲章案。
ライモンドが起草し、アマンダが財政計画を付し、セイラが提出者として名を連ねたものだった。
地図には、七本の河が記されていた。
二本の上流河。
自治都市を通る中央本流。
ミゲルの村があった旧河道。
穀倉支流。
南方水運路。
そして、東方国境河。
かつて別々の権利と利害を示していた流れが、いまは一枚の地図の上に並んでいた。
三段目の席に、ロドリゴがいた。
侯爵として列席している。
娘と目を合わせようとはしなかった。
セイラも、父を見なかった。
「審議を始める」
主席審議官が告げた。
「沈み野広域統治圏の創設案、および初代統治者の選任について、意見を述べよ」
◇
最初に立ったのは、東部に領地を持つ伯爵だった。
「制度そのものに反対はいたしません」
そう前置きした。
「七河を横断する権限が必要であることは、前回の審議で確認されております。問題は、誰をそこへ据えるかです」
伯爵は、セイラの方を見た。
「その初代統治者の候補として名が挙がっているのが――二十二歳の侯爵令嬢です」
場が、わずかにざわめいた。
「卒業後、最初の任地。それも二年の期限付きで赴任した官補が、いま公爵位を求めている。私は、そのこと自体を責めているのではありません。ただ、順序として異例に過ぎる」
次に、別の席から声が上がった。
「軍歴がない」
老年の侯爵だった。
「国境と接する統治圏だ。周辺勢力との協定が失効すれば、その日から前線になる。公爵に軍歴がなく、直属の家臣団もない。誰が兵を率いる」
「世襲の家臣がいないということは、代替わりの時に組織が残らないということです」
三人目が続けた。
「一人の能力だけで回している統治圏は、その人物が倒れれば止まります」
「そもそも」
四人目が立った。
「彼女は、地域統治の正式な権限を持たない監察官補でした。資産保全命令の範囲を超えて公金を支出し、村を一つ水没させ、密輸船団を公的制度へ組み込んだ。継続審議中の身のはずです」
「その村のことだが」
五人目が身を乗り出した。
「意図的に沈めたと聞いている。三十二戸だったか。墓地も水の下だと」
セイラは、その数字を聞いても表情を変えなかった。
四人目の貴族が、再び口を開いた。
「密輸船団の件も看過できません。犯罪を重ねてきた船乗りたちへ、公的資格を与えたのですよ。国境地帯で、です」
「未婚である点も申し上げておきたい」
六人目が言った。
「後継者がいない。新設家門の初代が未婚で後継者不在というのは、制度の持続性を欠きます」
「逆に、婚姻すればどうなります」
七人目が引き取った。
「有力家門と縁組すれば、公爵領はその家へ吸収されかねない。ヴェルディア侯爵家が実質的に公爵領を得る形になるという懸念もあります」
三段目のロドリゴは、何も言わなかった。
表情も動かさなかった。
反対論は、どれも筋が通っていた。
悪意で言っているのではないと、セイラにも分かった。
帝国の国境へ新しい家門を置くことへの、当然の警戒だった。
主席審議官が、セイラへ向き直った。
「申し開きはあるか」
セイラは一歩前へ出た。
「越権については、先の審議で記録されたとおりです」
短く答えた。
「軍歴がないことも、家臣団を持たないことも、事実です。辺境伯も自治都市も、私の家臣ではありません」
セイラは、列席者を見渡した。
「だからこそ、彼らを私へ臣従させる制度を求めているのではありません。それぞれの権利を残したまま、必要な時に七河全体が動ける制度を求めています」
「では、越権についてはどうする」
四人目の貴族が言った。
「規則を破った者へ、今度は規則を作る権限を与えるのか」
「過去の越権を消していただきたいとは申し上げていません」
セイラは、はっきりと答えた。
「次に同じ危機が起きた時、正式な権限を持たない官補が、同じ越権をしなくても済む制度を作っていただきたいのです」
反対派の何人かが、視線を交わした。
「そのうえで、制度案をご審議いただきたく存じます」
セイラは、それ以上言わなかった。
ここから先は、言葉ではなく制度そのものが答えるべきだった。
◇
そのとき、二段目の席から声が上がった。
「一つ、根本的な問題がある」
痩せた体躯の、西部の伯爵だった。
「女性が公爵家を立てた前例はない」
場が静まった。
「婚姻も後継者も定まらぬ家門を、帝国の国境へ置くのか」
セイラは、その言葉を正面から受けた。
反論の言葉は、いくつも浮かんだ。
だが、前例がないという事実を、自分一人の覚悟だけで覆すことはできない。
ここで必要なのは、感情的な自己弁護ではなく、すでに積み上がった実例だった。
セイラは、口を開かなかった。
沈黙が続いた。
そのとき、扉脇に控えていた宮廷官が声を上げた。
「先例に関する証人の入廷を、お許しいただけますか」
◇
入ってきたのは、五十代半ばの女性だった。
背は高くない。
だが、歩き方に一切の迷いがなかった。
灰色の混じった髪をきつく結い上げ、装飾のない濃紺の外套を羽織っている。
宮廷向けの華やかさは、どこにもなかった。
日に焼けた顔。
手には、長年書類と手綱を握ってきた者の硬さがある。
「マルティナ・リーメルでございます」
彼女は、皇帝の座へ一礼した。
場のざわめきが変わった。
帝国初の女性爵位保持者だった。
それから約二十年、今もリーメル女子爵として自領を治めている。
「発言を許す」
主席審議官が告げた。
マルティナは、審議場の中央へ進んだ。
「二十年前、私へ爵位を与える時にも、前例がないとの声がございました」
前置きは、それだけだった。
「女へ爵位を与えてよいのか。息子へ継がせるべきではないのか。女が領地を治め続けられるのか、と」
彼女は、二段目の席を見た。
「当時、私には十歳の息子がおりました。異民族が領地へ侵攻した時、家臣たちは、その子を名目上の領主代理に立て、私が後見人として軍を動かせばよいと申しました」
マルティナの声に、誇る響きはなかった。
「私は断りました。兵を動かすのが私なら、失敗した時に罪を負うのも私でなければならないと考えたからです」
一度、言葉を切った。
「戦後、夫の爵位が剥奪された時、本来なら子爵位は息子へ渡され、私は後見人となるはずでした。ですが帝国は、私が下した命令と、その後の責任を、戦場にいなかった子供の名へ移しませんでした」
皇帝の座へ一礼した。
「あの時、帝国が出した答えは、実際に責任を負った者へ、その後を引き受ける権限を与えるというものでした」
マルティナは、顔を上げた。
「以来、約二十年、私はリーメル領を治めております。今日も、あの領地は続いております」
「つまり」
二段目の席から、低い声が上がった。
先ほど女性公爵の前例を問題にした、西部の伯爵だった。
「御自身が女の身で爵位を受け、二十年領地を治められた。だから、彼女にも公爵位を与えよと仰るのですか?」
マルティナは、すぐには答えなかった。
それから、セイラの方へ視線を移した。
初めて、二人の目が合った。
「いいえ」
短く答えた。
「私は、この方の適性を保証するために参ったのではありません」
反対派の一人が、わずかに眉を上げた。
「私は、この方の仕事を現地で見たわけではありません。人柄も存じません。公爵として二十年後も統治できているかどうか、私には分かりません」
そこで、審議場全体へ向き直った。
「そもそも、沈み野は、彼女が赴任して初めて荒れた土地ではありません」
マルティナの声は、責める調子ではなかった。
「堤防の帳簿は改竄され、配給は滞り、物流は寸断され、国境の市場は閉じていた。そのあいだ、監察官も、財務官も、法務官もいた。自治都市も、領主も、中央官庁も、それぞれの権限を持っていた」
一拍置いた。
「けれど、沈み野全体を引き受ける者はいなかった」
そして、セイラへ目を向けた。
「そこへ赴いたのが、二十二歳の侯爵令嬢です」
列席者の視線が、セイラへ集まった。
「帰ることもできたでしょう。新しい政策を禁じられている以上、自分には権限がないと報告し、後任を待つこともできた」
マルティナは、静かに言った。
「ですが、彼女は残った」
広間に、その言葉だけが残った。
「一人の若い官補が、配給の失敗にも、洪水にも、自ら沈めた村にも、国境の危機にも背を向けなかった」
西部の伯爵が、口を開こうとした。
マルティナは、そちらへ向き直った。
「その者に対し、今になって、若すぎる、経験が足りない、権限がなかったと仰るのであれば――」
列席者を見渡した。
「これまでそれぞれの権限を持っていた方々は、沈み野のために何をなさったのでしょう」
答えはなかった。
「実際に責任を負った者へ、責任だけを残し、それを果たす権限を与えないのであれば、次に同じ危機が起きた時、誰が決断するのでしょう」
沈黙が落ちた。
マルティナは、その沈黙を待ってから続けた。
「もちろん、それだけを理由に、セイラ・ヴェルディアを公爵へ叙すべきだとは申しません」
顔を上げた。
「私の先例だけで彼女を選ぶべきではありません。ですが、私の性別だけを理由に私を退けられなかったように、彼女の性別だけを理由に退けることもできません」
そこで、一度セイラを見た。
「私は、一つの領地を守りました」
マルティナは、静かに続けた。
「彼女は、互いに従わなかった土地と人々の間へ、統治の形を作りました」
それ以上、言葉を重ねなかった。
彼女は一礼し、証人席へ退いた。
◇
主席審議官が、卓上の文書を開いた。
「では、制度案の審議へ移る」
最初に発言したのは、七番目に反対した貴族だった。
「先ほど申し上げた点を、改めて伺いたい。ヴェルディア侯爵家が公爵領を得る形になるのではないか?」
ライモンドが一歩前へ出た。
「独立創家勅書によって、その懸念は制度上排除されます」
文書を示す。
「新設される家門は、ヴェルディア家の分家ではありません。独立した家門です。ヴェルディア侯爵家に、新統治圏への統治権も、継承権も、後見権も生じません」
「旧婚約はどうなる。アルヴェイラ家との縁は?」
「解消済みの婚約から、いかなる権利も生じないことを明記します」
「当主は?」
「セイラ・ヴェルディアを単独の家長とします。共同統治者を置きません」
ライモンドは、次の条項を指した。
「さらに、婚姻による他家への吸収を認めません。将来いかなる家門と縁組しても、新家門が別の家へ組み込まれることはありません。領国の分割相続も禁じます」
三段目で、ロドリゴが書類へ目を落とした。
娘が、ヴェルディアの名から外れる条文だった。
彼は何も言わなかった。
セイラも、父を見なかった。
◇
「では、後継者の件を」
六番目の貴族が言った。
「未婚で後継者がいない。この点はどう扱う?」
ライモンドが、二つ目の文書を開いた。
「継承原則を定めます。第一に、男女を問わない直系継承」
「男子優先ではないと?」
「性別による優劣を置きません」
反対の声は、すぐには上がらなかった。
「第二に、配偶者へ自動的な統治権を与えません」
ライモンドは、その一条を読み上げた。
「公爵が婚姻した場合も、配偶者は統治権を得ません。公爵の権限と責任は、公爵本人に帰属し続けます」
セイラは、その条文を聞いていた。
意見が割れた時、最後に誰の名で決めるのか。
ガブリエルと向かい合った、答えの出なかった問い。
その問いが、いま条文になっていた。
「第三に、養子および傍系継承には、建領評議会と皇帝の承認を要します」
「当主の一存では決められないということか」
「はい。第四に、家門が断絶した場合も、広域統治圏を分割しません。七河を分ければ、この制度そのものが意味を失います」
継承の問題もまた、セイラ個人の婚姻や血縁だけに委ねない仕組みとして定められていた。
◇
「では、権限の中身を伺おう」
老年の侯爵が言った。
「災害時の権限とやらだ。緊急を口実にすれば、公爵は何でもできることにならんか?」
「その懸念に応えるのが、建領憲章です」
ライモンドは、三つ目の文書を開いた。
「公爵の権限は、河川管理、広域物流、災害対応について列挙します。列挙された範囲を越えて、既存の領主権や自治権へ踏み込むことはできません」
「自治都市はどうなる?」
「自治権と契約上の権利は、そのまま残します。市場、関税、港内の裁判権。いずれも公爵が一方的に変更することはできません」
「辺境伯領は?」
「防衛協定として定めます。辺境伯軍の指揮権は辺境伯に残ります。公爵がこれを直接指揮することはできません」
軍務関係者の席から、小さく息を吐く音がした。
「公認河川輸送組織については、義務を明記します。積荷目録、封印、運賃上限、救援時の優先輸送。同時に、資格の停止条件も定めます」
ライモンドは次の条項を指した。
「新住民の法的地位。仮登録から正式登録への手続きを制度化します。それから、水没村共同体への再建義務を置きます」
彼は、そこで一度顔を上げた。
「財政上の扱いは、ロセル官補から説明します」
「緊急命令はどうする?」
「すべてに失効期限を付けます。期限を超える場合は、改めて手続きを要します。加えて、事後の監査を義務とします」
「監査は誰がやる?」
「建領評議会です。公爵、自治都市、辺境伯領、水利部門、住民代表で構成します」
ライモンドは、最後の条項を示した。
「評議会には、異論記録制度を置きます。公爵の決定に反対した者の意見を、そのまま記録へ残します。賛成に書き換えることを禁じます」
アマンダが、そこで一歩前へ出た。
「財政について申し上げます」
赤毛を耳へかけ、彼女は数字の綴りを開いた。
「公爵府の初期運営費、徴税の見込み、共同体再建費の支出計画、公認輸送からの収入。いずれも試算を添えてあります」
「不足はどうする?」
「初年度は不足します」
アマンダは、隠さなかった。
「不足額も、そのまま計上しております。帳簿をよく見せる操作は行っておりません。監査については、財務院による定期の検査を受け入れる条項を入れました」
財務院の席から、書類をめくる音がした。
アマンダは、もう一枚の表を開いた。
「共同体再建費は、裁量支出から外しました」
五人目の貴族が眉を寄せた。
「財政に余裕がなくても支払うと?」
「はい。公爵府の財政に余裕がある年だけ支払う費用にはしておりません」
アマンダは答えた。
「再建が完了するまで、代が替わっても義務として残します。家屋だけではありません。井戸、集会所、墓地、住民が同じ共同体として暮らし直すために必要な費用を含みます」
その項目を、数字にできないという理由で帳簿の外へ置くことは、もうしなかった。
◇
「一つ、確認したい」
最初に反対した東部の伯爵が言った。
「この憲章は、将来の公爵だけを縛るものではあるまいな?」
「もちろんです」
セイラは答えた。
「私が初代に任じられた場合も、同じ制限を受けます」
「自ら求めた権限を、自ら制限すると?」
「私だけを例外にすれば、制度にはなりません」
自分のために、抜け道を残すつもりはなかった。
「そのうえで、最初の責任者として、すでにその土地で責任を負っている者を置く。そういう順序でお願いしております」
伯爵は、しばらくセイラを見ていた。
それから、静かに座った。
◇
審議が一巡した後、皇帝が口を開いた。
「双方の責任について、朕の判断を述べる」
場が静まり返った。
「まず、帝国側の失敗について」
皇帝は、資料へ目を落とした。
「沈み野監察団の汚職は、長期にわたって放置された。汚職発覚後も、後任は派遣されなかった。その結果、地域統治の正式な権限を持たない官補三名が、食料危機、洪水、国境の緊張へ対処することとなった」
一度、言葉を切る。
「これは、帝国の統治上の失敗である」
三段目の席から、身じろぎする音がした。
「次に、監察団残留班三名の越権について」
皇帝は、視線をセイラたちへ移した。
「資産保全命令の範囲を超えた行為は、制度上の逸脱である。多数を救ったという結果によって、これが帳消しになることはない」
セイラは、頭を下げた。
「双方が事実である。一方を認めて、他方を免ずることはしない」
皇帝は三人を見た。
「よって、残留班三名の越権は正式な戒告として記録に残す。ただし、帝国側の統治不全と緊急時の事情を勘案し、これ以上の処分は科さぬ」
皇帝は、次の文書を手に取った。
「そのうえで、新設の統治圏について、帝国側の義務を定める」
読み上げられたのは、二項目だった。
「一、新統治圏へは、必要な専門官および技官を派遣する」
セイラは、その一文を聞いた。
配給危機の時も、後任は来なかった。
洪水の時も。
水没村の再建も、船団の公認も、国境危機への対応も、正式な地域統治権を持たない三人が、現地の者たちと手探りで仕組みを作るほかなかった。
その空白が、いま条文になった。
「二、周辺の有力家門による強制的な介入から、新設家門を保護する」
これも同じだった。
後見を理由に実家の権限へ組み込まれることも、婚姻を理由に別の家の権限へ組み込まれることも、制度が防ぐ。
「公爵へ責任を課す以上、帝国も義務を負う。以上である」
責任を負うのは、新たな統治者だけではなかった。
◇
皇帝が立ち上がった。
「旧名、沈み野を改める」
宮廷官が、新しい図面を掲げた。
七つの河が描かれ、その全域を一つの線が囲んでいる。
「広域統治圏エクスィードを創設する」
ただし、と皇帝は続けた。
「旧地名、洪水の記録、水没村の記録、行政上の失敗の記録は、いずれも保存する。名を改めることによって、これらを消すものではない」
セイラは、その一文に頭を下げた。
沈んだ村を、なかったことにはしない。
飢えさせた人々の名簿を、消さない。
それだけは、確かめておきたかった。
「セイラ・ヴェルディアを、初代エクスィード公爵に任ずる」
宮廷官が、進み出た。
そして、彼女を呼んだ。
「セイラ・エクスィード公爵」
◇
セイラは、一歩前へ出た。
一歩目を踏み出してから、自分の名が変わったのだと、遅れて実感した。
セイラ・ヴェルディア。
生まれてから今日まで、そう呼ばれてきた。卒業式でも、辞令交付でも、沈み野の配給所でも、水没命令の署名欄でも、審議の場でも。
その名前が、たった今、外れた。
父の娘として実家へ戻る道。
ガブリエルの妻として、アルヴェイラ家へ入るはずだった道。
どちらも、もう自分の未来ではない。
三段目の席を、見なかった。
見れば、父がどんな顔をしているか分かってしまう。
胸の奥に、何かが抜け落ちたような感覚があった。
嬉しくないわけではなかった。
ただ、それだけではなかった。
これから、もう誰の名の陰にも入れない。
最後の決定を、実家や婚家の名へ預ける逃げ道は、もうない。
逃げ道は、自分で塞いだ。
その恐ろしさが、いま初めて実感になった。
同時に、別のものも浮かんだ。
泥水の向こうに広がっていた、屋根の一つも見えない水面。
雨で波打った避難名簿。
家が三十二戸。
納屋が十七。
共同の井戸が三つ。
集会所が一つ。
水車小屋が一つ。
墓が、百と少し。
自分が署名した、あの水没命令。
セイラは、皇帝の前へ立った。
◇
公爵印が、差し出された。
金属の重みは、想像していたよりも大きかった。
セイラは、握り込まず、包むように両手で受けた。
これで報われた、とは思わなかった。
村は戻らない。
墓地は水の下にある。
飢えさせた日々は消えない。
そういうものは、爵位では帳消しにならない。
ただ、一つだけ、変わったことがあった。
これでようやく、誰かに命じられたからでもなく、誰かの妻になるからでもなく、自分の名であの村の後を引き受けられる。
セイラは、公爵印を胸の前で持ち直した。
審議場の全員が、彼女を見ていた。
この印を、最初に何へ押すのか。
それだけは、もう決めていた。
初代エクスィード公爵となったセイラが帰るのは、完成した理想郷ではありません。
仮設住宅も、水没村の再建も、異論も課題も残ったままです。
そして彼女は、新たに受け取った公爵印を――自ら沈めた村を建て直すため、初めて使います。
次回、最終話「女公爵の帰還」




