第13話 女公爵の帰還
川風が、頬を打った。
公認番号を船腹へ付けた輸送船の甲板に、セイラは立っていた。
濃い青の髪が風に流れ、川面の光を受けて、ほとんど紺に見えた。
宮廷の侍女が結い上げた形は、もう半分ほど崩れている。
直そうとは思わなかった。
船首の向こうに、旧行政庁の塔が見えてきた。
岸には、旗が並んでいた。
新しい公爵の帰還を祝う旗だった。
織りは急ごしらえで、丈も色も揃っていない。
それでも、風を受けて懸命に鳴っていた。
セイラは、旗を見た。
それから、旗の下を見た。
まだ水の抜けきらない低地。
杭の上へ板を渡しただけの仮設住宅。
岸へ積み上げられた建築資材。
屋根板の足りない家々。
土を運ぶ荷車と、復旧工事に出ている住民たち。
沈み野は、エクスィードになった。
名前は変わった。
だが、名前が変わった朝に、水が引いたわけではなかった。
船着場で、荷役の男が顔を上げた。
「公爵閣下だ」
誰かが言い、作業の手が一瞬だけ止まった。
頭を下げる者がいた。
下げない者もいた。
すぐに荷へ戻る者が、一番多かった。
それでいい、とセイラは思った。
荷は、待ってくれない。
◇
公爵府は、旧行政庁だった。
新しい城はない。
建てる予算もない。
少なくとも今は、建てるつもりもなかった。
公爵執務室は、かつて残留班の三人が資料を積み上げていた、あの一室である。
狭い。
壁には七河の地図。
棚には帳簿と命令書の控え。
廊下では、官吏と住民が入り交じって行き交っている。
到着したその日、行政庁の官吏から一つの伺いが出た。
公爵家の格式として、執務室の家具を新調し、正面玄関へ公爵旗を掲げてはどうか、という内容だった。
帳簿を抱えて入ってきたアマンダが、伺い書へ目を走らせた。
「椅子は座れます。机も書けます」
そして、書類を机へ置いた。
「公爵旗より先に屋根を直します」
官吏は、少し迷ってから頷いた。
セイラも、異を唱えなかった。
卒業したばかりの頃の自分なら、公爵府には公爵府の格式が要る、とまず考えたかもしれない。
今は、順序が分かる。
格式は、いつか要る。
屋根は、次の雨までに要る。
「仮設住宅の補修費は、再建予算とは別枠で組んであります」
アマンダは、もう次の帳簿を開いていた。
窓から差す光で、赤毛が銅の色に見えた。
彼女がここに残ったのは、友情のためではない。
この土地の収入と負債、備蓄と物流、復興費と仮住民制度を、帝国中の誰よりも把握している財務官だからだった。
セイラが政策を口にするたび、最初に返ってくる言葉は決まっている。
「財源は?」
その一言に、何度も止められてきた。
これからも、止められるのだろう。
ライモンドは、隣の部屋を法務室にしていた。
自治都市との協定文。
緊急命令の失効期限の一覧。
監査の手順書。
異論記録の様式。
彼が整えているのは、セイラを守る書類ではない。
「それは公爵権限ではできません」
必要なら、公爵本人へそう言うための書類だった。
いつか、セイラほど善良でない者がこの席へ座る日が来る。
その日にも壊れない形を、彼は最初から作っている。
◇
建領評議会の、最初の会合が開かれた。
公爵、自治都市、辺境伯領、水利部門、住民代表。
憲章に定められた代表が、旧行政庁の広間に集まった。
その日の議題に関わる者として、ティアゴも同席していた。
忠誠の誓いは、なかった。
代わりに、初日から異論が出た。
最初に文書を出したのは、ベアトリスだった。
自治協定の修正要求。
港湾倉庫の使用料と、公認船の入港順位に関する条項だった。
「叙爵のお祝いは、すでに申し上げました」
彼女は、商人の顔で言った。
「そのうえで申し上げます。公爵になられたことと、都市の権利を譲ることは、別の話です」
「拝見します」
セイラは、文書を受け取った。
「三日以内に、法務室から回答します」
ベアトリスは頷き、席へ戻った。
それが、彼女の祝辞だった。
アフォンソは、軍装のまま列席していた。
儀礼は正確だった。
着席の前に、規定どおりの敬礼をした。
そして着席するなり、防衛協定案の写しを机へ置いた。
「爵位について異論はない。だが、この防衛案にはある」
砦の守備兵力の配分と、協定失効時の展開手順。
異論は二点、簡潔に述べられた。
「異論記録へ残します」
ライモンドが筆記した。
アフォンソは、それで満足したように口を閉じた。
賛成はしない。
だが、記録に残るなら、手続きには従う。
国境の協定は一季節限りの試験協定であり、期限が来れば再交渉になる。
その資料も、すでに机の端へ積まれていた。
ティアゴは、評議会の席でも変わらなかった。
「台帳の様式、また増えたな」
積荷目録の写しを指で叩く。
「船乗りに毎晩これを書かせる気か。字より櫂の方が得意な連中だぞ」
「簡易様式を作ります」
アマンダが即答した。
「その代わり、封印の確認は省きません」
「……分かってるよ」
ティアゴは、荒っぽく書類を畳んだ。
文句は言う。
だが、輸送は一日も止めていなかった。
彼の船団は、丸ごと残ったわけではない。
公認化に反発して離れた船主の一部は、いまも非公認航路で商売を続けている。
その報告書も、評議会の卓上にあった。
ティアゴは、その紙を長く見なかった。
セイラは、その意味を問いたださなかった。
バルトロメは、会合の間、ほとんど水位表だけを見ていた。
「次の雨までに、旧河道の北堤を先に直す」
議題が一巡したところで、それだけ言った。
「祝いの旗を立てる杭があるなら、堤に打て」
彼の後ろには、若い水利官たちが、記録板を抱えて控えていた。
バルトロメの頭の中にしかなかった七河の癖が、少しずつ、紙の上へ移されている。
マヌエラは、住民登録の報告を出した。
学校を再開したこと。
仮登録から正式登録への移行が始まったこと。
「ただし、全員が喜んで登録しているわけではありません」
彼女は、正直に付け加えた。
「名前を書けば税が来る、と考える者もいます。実際、来ますから」
広間に、小さな笑いが起きた。
マヌエラは笑わなかった。
「それでも、名簿にある人間は、次の危機で配給から漏れません。私たちは、それを知っています」
かつて、帳簿に載らなかった人々の代表だった。
いまは、帳簿を作る側に立っている。
◇
「では、本日の最終案件です」
アマンダが、一冊の綴りを卓の中央へ置いた。
水没村共同体再建予算。
代替地の取得。
共同井戸の掘削。
墓地の移転と再整備。
集会所。
共同倉庫。
農地の復旧。
そして、仮設住宅からの移転期限。
家屋の再建費だけではない。
村人が、同じ共同体として暮らし直すために要るものが、一つずつ項目になっていた。
数字にできない、という理由で帳簿の外へ置かれるものは、もうなかった。
「共同体再建費は裁量支出から外してあります。財政が苦しい年も、支払います」
アマンダの説明が終わった。
評議員たちの目が、セイラへ向いた。
卓の端には、公爵印が置かれている。
叙爵の日に受け取ってから、まだ一度も押していない印だった。
この印を最初に何へ押すのか。
それだけは、受け取ったその場で、もう決めていた。
セイラは、印へ手を伸ばさなかった。
「この文書を、ミゲルさんたちへ見せてください」
アマンダが顔を上げた。
「予算としては完成しています」
「完成しているかどうかを決めるのは、公爵府だけではありません」
セイラは、綴りを閉じた。
村を沈める命令を出した時は、時間がなかった。
水が来ていた。
住民へ計画を諮る余裕など、どこにもなかった。
最後は、自分が決めるしかなかった。
今は、違う。
時間がある。
なら、失った側に、確かめてもらえる。
「水没村の代表者を、評議会の正式な確認者として招きます」
ライモンドが、すでに手続きの様式を開いていた。
「再建義務の当事者ですから、法的にも正当です。招請状を作ります」
善い計画だから、住民は喜ぶはずだ。
そう決めつけて命令を出し、人々を飢えさせたのは、そう遠い昔ではない。
同じことは、二度としない。
◇
数日後、ミゲルは水没村の代表者数名とともに、評議室へ来た。
礼装ではなかった。
仕事着の埃を払っただけの姿だった。
入室の時、ミゲルは一度だけ頭を下げた。
「公爵閣下」
呼称は、それだけだった。
忠誠でも親愛でもない。
公的な場での、公的な呼び方だった。
セイラも、同じ深さで礼を返した。
「お越しいただき、ありがとうございます」
代表者たちが席へ着き、再建計画の綴りが配られた。
ミゲルは、老いた指で頁をめくり始めた。
家屋。
読む。
共同井戸。
読む。
集会所。
共同倉庫。
農地復旧。
一項目ずつ、飛ばさずに読んでいく。
畑の広さを確かめる者。
移転期限の月を指でなぞる者。
代表者たちも、それぞれの手で紙をめくっていた。
やがて、ミゲルの指が止まった。
墓地移転。
移転先の区画。
墓標の再建費。
移送の手順。
立会人の規定。
条文としては、整っていた。
ミゲルは、その頁を長く見ていた。
それから、顔を上げた。
「墓地を移したって、それで前と同じになると思わんでくれ」
「思っていません」
セイラは、それだけ答えた。
言い訳は、足さなかった。
水の下にある墓と、新しい土に立つ墓が同じでないことくらい、分かっていた。
ミゲルは、綴りを一度閉じた。
「新しい村がうまくいかなかった時も、あんたはここにいるのか」
セイラは、すぐには答えなかった。
まだ印の押されていない予算書を見た。
卓の端の、公爵印を見た。
それから、ミゲルの顔を見た。
「います。少なくとも、この印を持つ限りは」
ミゲルの目は、動かなかった。
「儂らが、あんたを赦さなくてもか」
評議室が、静かになった。
アマンダが、筆を置く音がした。
セイラは、息を一つ整えた。
「あなたたちが私を赦さなくても、この義務はなくなりません」
赦しは、責任の期限ではない。
赦されたら終わるのでもなく、赦されないから軽くなるのでもない。
村を沈めたのは、自分だ。
その事実の上に、この予算書はある。
ミゲルは、しばらくセイラを見ていた。
雨の避難所で、こちらを見ようとしなかったミゲルの横顔が、一瞬だけ重なった。
やがて、彼は言った。
「なら、あんたがこれから何をするのか、ずっと見てる」
感謝ではなかった。
忠誠でもなかった。
和解ですら、なかった。
約束が果たされるかどうか、これからも見続ける。
ただ、それだけの言葉だった。
セイラは、ただ頷いた。
◇
代表者たちの確認が終わり、二箇所の修正が予算書へ書き入れられた。
移転期限へ、収穫期を避ける但し書き。
墓地の移転に、村の年長者を立会人として加える一条。
ライモンドが修正文を整え、アマンダが費用の変更を書き込んだ。
「これで、確定です」
綴りが、セイラの前へ置かれた。
セイラは、公爵印を手に取った。
金属は、受け取った日と同じ重さだった。
朱肉へ、印を沈める。
一瞬、指先が思い出した。
告発書の署名欄。
三人分の名前が並んだ、あの紙。
水没命令の署名欄。
雨音の中で書いた、自分の名前。
他人の不正を告発するために、名を書いた。
一つの村を沈めるために、名を書いた。
そして今。
自分が沈めた村を、建て直し続けるために、印を押す。
セイラは、押印欄の上へ印を置き、まっすぐに力を込めた。
押印の音が、評議室へ響いた。
ミゲルたちは、それを見ていた。
拍手は、なかった。
歓声もなかった。
紙の上に、新しい家名の印影が一つ、残っただけだった。
だが、この場の全員が知っていた。
これは、公爵が被害者へ与えた恩恵ではない。
履行されるかどうか、これから何年も検証され続ける、公の約束だった。
◇
ほどなく、旧河道の高台に、測量の杭が打たれた。
代替地の一番杭だった。
共同井戸の予定地には縄が張られ、資材を積んだ公認船が、仮桟橋へ着いた。
すべてが円満に進んだわけではない。
墓地の区画をめぐって、住民同士の意見が割れた。
古い村と同じ並びにすべきだという者と、日当たりを選ぶべきだという者が、半日言い合った。
ミゲルは、どちらへも与しなかった。
図面を広げ、大工と話し、夕方には年長者を集めて、もう一度話し合いの席を作った。
決めるのは公爵府ではない。
村だった。
高台からは、水の残る旧河道が見えた。
沈んだ村は、水の下にある。
新しい村は、まだ杭と縄だけだった。
それでも、杭は打たれた。
◇
夜、公爵執務室には灯りが残っていた。
狭い部屋である。
壁の地図。
棚の帳簿。
そして机の上には、三つの器が並んでいた。
セイラのミルクティー。
アマンダのミルク入りコーヒー。
ライモンドのストレートティー。
器の周りには、書類が積まれている。
叙爵への祝辞。
それより高く、陳情書。
予算書。
契約修正案。
一季節後に迫った国境協定の再交渉資料。
旧官吏の処分と再登用の審査案。
登録を拒み続ける船員の名簿。
周辺の有力家門から届いた、縁談の申し入れ。
祝辞の束は、一番薄かった。
セイラは、少し冷めたミルクティーへ手を伸ばした。
一口飲む前に、アマンダが次の予算書を開いた。
「先に言っておきますけど、全額は出せませんからね」
堤防補修の追加要求だった。
赤毛の財務官は、もう数字の欄へ線を引き始めている。
セイラが口を開くより早く、ライモンドが契約書の束を重ねた。
「その前に、自治都市側の権利条項を直してください。このままでは三年後に揉めます」
茶色の髪の下の目は、条文から離れない。
セイラは、二人を見た。
卒業式の日、この三人は、互いの家柄と成績と評判しか知らない同期だった。
今は、違うことを知っている。
自分は、決めすぎる。
アマンダは、数字で切りすぎる。
ライモンドは、慎重になりすぎる。
放っておけば、それぞれがどの方向へ間違えるか。
互いに、それを知っている。
だから、止め合う。
親友と呼ぶのかどうかは、分からない。
ただ、最悪の夜にも持ち場を捨てない、ということだけは、もう疑っていなかった。
セイラは、少しだけ笑った。
ミルクティーを一口飲み、器を置く。
窓の外では、七つの河が、暗い中を流れ続けている。
明日も水位は変わり、荷は動き、誰かが陳情に来る。
墓地の並びは、まだ決まっていない。
公爵になったことが、終わりではなかった。
むしろ、これまで手を伸ばせなかった問題へ、自分の名と権限で向き合えるようになっただけだった。
セイラにとって、エクスィード公爵となったことは、統治の終着点ではなく、その始まりだった。
セイラは、次の書類を開いた。
「では、次の案件を」
全13話、最後までお読みいただきありがとうございました。
侯爵令嬢として誰かを支える未来を思い描いていたセイラが、失敗し、責任を負い、人々と制度を作り直しながら、自分自身の名で統治する女公爵となるまでの物語でした。
公爵になったことは終着点ではありません。
七つの河が流れ続ける限り、エクスィードの統治も続いていきます。
ここまでセイラたちを見届けてくださり、本当にありがとうございました!




