第11話 誰の名で治めるのか
継続審議は、前回と同じ大広間で開かれた。
違っていたのは、卓上に並ぶ資料だった。
前回は、三人が越権した記録が積まれていた。
今日は、沈み野の権限を書き出した図が広げられている。
主席審議官が、その図の左端を指した。
「七河の管理。ここは水利部門の管轄である」
指が右へ移る。
「広域物流。共同備蓄。自治都市との契約。新住民の登録と定住。辺境伯領との防衛協定」
一つずつ、別の枠で囲まれていた。
「それぞれに担当する官職と権限者が存在する。だが、災害が起きたとき、これらは同時に動かねばならない」
主席審議官は、図の上に何も書かれていない余白を指した。
「そこを調整する責任者が、現行制度には存在しない」
セイラは、その余白を見ていた。
先の国境危機を思い返すまでもなく、その空白がどれほどの重さを持つかは分かっていた。
上流の水位を見て船を止めるか出すか。
備蓄をどこまで割るか。
護衛をどの区間に置くか。
あの三日間、それを判断したのは、判断する権限を持たない自分たちだった。
「したがって、監察院と宮廷は一つの案を検討している」
主席審議官が続けた。
「沈み野に、恒久的な広域統治圏を設ける。その責任者には、既存の侯爵を超える権限を与える。すなわち、公爵級の権限を持つ席である」
広間が静かになった。
アマンダの手が、資料の縁で止まった。
ライモンドは、いつもより長く目を伏せていた。
「本日は制度の可否のみを審議する」
主席審議官は、セイラを見た。
「誰をその席へ置くかについては、別に審議する」
セイラは頭を下げた。
何も言わなかった。
◇
ヴェルディア侯爵邸の書斎は、卒業式の前と何も変わっていなかった。
壁一面の書架。
父が使う黒檀の卓。
窓の外の庭木。
変わったのは、その部屋に入るときの自分の気持ちだった。
「座りなさい」
ロドリゴは、書類を脇へ寄せた。
公務のときと同じ姿勢で座っている。
侯爵として娘と話すつもりなのだと、それだけで分かった。
「審議のことは聞いている」
「はい」
「誰を据えるかは未定だと聞いている。だが、お前の名が挙がらないはずもない」
セイラは、父がそこまで先を見ていたことに気づいた。
まだ自分でも答えを出していない問いを、父はすでに現実の問題として考えている。
「まず言っておく」
ロドリゴは、一度言葉を切った。
「沈み野でお前が果たした役割が、公爵級のものであったことは認める。あの規模の広域行政を、官補三人が中心となって回した例を私は知らん」
セイラは顔を上げた。
父がこれほど直接に自分の仕事を認めたのは、初めてだった。
「ありがとうございます」
「だが」
ロドリゴは、卓の上で指を組んだ。
「公爵級の働きをしたことと、二十二歳の次女に独立公爵家を興させることは、別の話だ」
「はい」
「お前には、直属の家臣団も、独立した財政基盤もない。新しい家門には蓄えも、確立した財源もない。公爵府を立ち上げる最初の数年、何を原資に動かす」
「……」
「宮廷での指示はどうする。新しい家門を立てるには、他の貴族との調整が要る。誰がお前のために動く」
セイラは答えられなかった。
どれも事実だった。
「勘違いするな」
ロドリゴは、そこで声を落とした。
「お前に責任を捨てろとは言っていない」
セイラは父を見た。
「責任を負うからこそ、支えられる家を使えと言っている。ヴェルディア家の家臣も、信用も、宮廷での票も使える。後見を付ければ、お前は沈み野の統治を続けられる。なぜ、一人で新しい家を一から作る必要がある」
「……お父様は、私に沈み野を治めさせるつもりなのですか?」
「治めさせるさ」
ロドリゴは、当然のように言った。
「ヴェルディア家の名の下でだ」
セイラは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
反論する材料が、一つも思い浮かばなかった。
◇
兄ドゥアルテとは、庭で会った。
「父上と話したそうだな」
「はい」
「私も同じ意見だ。ただし、もう少し具体的に言う」
ドゥアルテは歩きながら話した。
「沈み野で協力した者たちのことだ。辺境伯、自治都市の代表、公認輸送組織の頭領。彼らはお前の家臣か?」
「いいえ」
「辺境伯は指揮権を渡さなかった。自治都市は関税権を譲らなかった。船団も、軍の直接指揮下へ入ることを拒んだと聞いている」
「そのとおりです」
「では聞くが、お前が――公爵になったとして、彼らはお前に従うのか?」
公爵という語の前でだけ、兄の声がわずかに遅れた。
セイラは足を止めた。
「従わないと思います」
「そうだ」
ドゥアルテも止まった。
「彼らは条件が守られる限り協力する。条件が変われば離れる。それは家臣ではない。契約相手だ」
「はい」
「契約相手だけで統治圏は回らん。凶作の年も、疫病の年も、戦の年も、条件が悪くなっても残る者が要る。それが家臣団だ。お前にはそれがない。育てた経験もない」
反論できなかった。
「現地で人を動かせたことと、家を興して何十年も統治できることは、同じではない」
ドゥアルテは、少し先を歩いてから振り返った。
「私は、侯爵家を継ぐ側として言っている」
それだけだった。
それ以上は言わなかった。
セイラも尋ねなかった。
◇
母の居間は、暖炉に火が入っていた。
イサベルは刺繍の手を止め、セイラを招き寄せた。
「こちらへ、いらっしゃい」
セイラが隣へ座ると、母は当たり前のように娘の手を取った。
そして、動きが止まった。
「……こんなに」
セイラは、手を引こうとした。
母は離さなかった。
爪の際に残った泥。
指の関節に増えた小さな傷。
何度洗っても落ちなかったインクの染み。
宮廷の正装でも、手だけは隠せなかった。
「痛くはないの?」
「もう慣れました」
「慣れてはいけません」
イサベルは、その手を両手で包んだ。
母は制度の話をしなかった。
家臣団のことも、財政のことも、軍のことも言わなかった。
「あなたは、よくやりました」
それだけ言った。
「川のことも、村のことも、私にはよく分かりません。けれど、あなたが真面目にやり遂げたことは分かります」
「……はい」
「だからね、セイラ」
イサベルは、セイラの顔をしばらく見つめた。
幼い頃、髪を梳いてくれたときと同じ目だった。
「公爵にならなくても、あなたが立派なことは変わりません」
セイラは、母の目を見返した。
「もう、十分でしょう?」
その言葉は、責めていなかった。
母が、自分の選んだ人生を悔いる言葉を口にしたことはなかった。
夫を支え、家を守り、三人の子を育てた人生を、大切にしている人だった。
だから、本心から言っていた。
全部を自分一人で背負わない人生にも、価値がある、と。
セイラは、何も言い返せなかった。
政治の話なら、まだ考えられた。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
◇
その夜、セイラは客間の窓辺に立っていた。
帝都の灯が、川沿いに点々と続いている。
父の話。
兄の話。
母の話。
一つずつ思い返して、気づいたことがあった。
誰も、自分を無能だとは言っていない。
父は、能力を家の力で支えようとしている。
兄は、統治が何十年も続くことを心配している。
母は、娘を重責から解放しようとしている。
悪意はどこにもなかった。
以前も同じことがあった。
沈み野で帰還を勧める書簡を受け取ったとき、自分は言った。
どれも、正しいことが書かれています、と。
あのときは、それでも残ると答えられた。
自分が止めた流れを、引継ぎ事項として残したまま帰ることはできません。
理由は明確だった。
後任がいなかった。
自分が止めた物流を、自分以外の誰も再開できなかった。
だから残った。
義務だった。
今は違う。
帝国自身が、恒久的な統治制度を作ろうとしている。
公爵級の席が置かれれば、その者が七河を引き継ぐ。
引き継げる相手がいる。
つまり、もう「自分しかいないから」とは言えない。
セイラは、窓に映った自分の顔を見た。
では、私は。
残らなければならないのではなく、残りたいのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
◇
ガブリエルとは、アルヴェイラ家の帝都邸で会った。
案内された小さな応接室には、二人分の茶が用意されていた。
人払いがされているのが、入ってすぐに分かった。
ガブリエルは立ち上がって迎えた。
今日も礼装を隙なく整え、上着の襟元まで乱れがなかった。
「久しぶりだね」
「はい」
「救援物資は足りていたか?」
「助かりました。本当に」
「役に立てたなら、それでいい」
茶が注がれ、湯気が上がる。
ガブリエルは、しばらく黙っていた。
それから、静かに切り出した。
「審議の話は聞いている。公爵級の席という話も」
「はい」
「セイラ」
彼は、正面から彼女を見た。
「君が傷ついていくのを、これ以上見たくない」
セイラは、茶器へ伸ばしかけた手を止めた。
「洪水の報せを聞いたとき、私は帝都にいた。何もできなかった。物資を送るくらいのことしかできなかった。そのあとも君は現地に残って、審議に呼ばれて、今度は公爵級の席の話まで出ている」
「……」
「君の手を見た」
セイラは、思わず自分の手を膝の上へ引いた。
「隠さなくていい。誇るべきものだと思っている。だが、沈み野へ赴任してからの短い間で、その手がそうなったなら、十年後はどうなる」
ガブリエルは、身を乗り出した。
「すべてを君一人が背負う必要はない」
そして、はっきりと言った。
「結婚すれば、軍も家臣も資金も用意できる。外との争いは私が引き受ける。君は、君にしかできない行政を続ければいい」
セイラは、すぐには答えなかった。
その提案の中身を、頭の中で並べていた。
アルヴェイラ家には、家臣団がある。
財政がある。
軍がある。
宮廷での政治力がある。
何代も続いた貴族としての信用がある。
自分にないものが、全部ある。
そしてガブリエルは無能ではない。
領地経営を学び、宮廷の作法を身につけ、人の使い方を知っている。
自分が行政を、彼が軍事と外交と宮廷政治を担う。
普通に考えれば、かなり良い統治体制だった。
「私は、君の仕事を取り上げようと言っているんじゃない」
ガブリエルは続けた。
「治水も、備蓄も、物流も、君の方が私よりずっと詳しい。口を出す気はない。ただ、君が一人で全部を抱えるのを見ていたくない。それだけだ」
そう言って、彼は手を差し出した。
「一緒に負おう」
セイラは、その手を見ていた。
この手を取れば。
家族と争わなくて済む。
父も母も安心する。
兄も納得するだろう。
婚約者を失わずに済む。
軍事のことは彼が判断してくれる。
宮廷での駆け引きも。
財政の裏づけができる。
そして。
次に誰かの家と、誰かの命を秤に載せる日が来たとき。
あの晩のように、自分一人で最後の一言を言わなくてもいい。
命令者は私です、と。
避難が終わるまで、堤防は切らせません、と。
あの言葉を口にしたときの、喉の乾き方を覚えている。
隣に誰かがいれば。
同じ重さを一緒に持ってくれる人がいれば。
セイラは手を伸ばし、差し出された掌へ自分の手を重ねた。
ガブリエルの指が、そっとその手を包んだ。
温かかった。
「そうできたら、どれほど楽でしょう」
ガブリエルの表情が、わずかに緩んだ。
安堵したように見えた。
この瞬間だけなら、二人はそのまま結婚できた。
セイラにも、それが分かった。
だが、セイラの指には力が入らなかった。
思い出したのは、避難所に並んだ天幕だった。
アルヴェイラ家の紋章を染めた布。
その下で、乾いた毛布にくるまっていた村の子供。
あの救援は、本当に人を助けた。
ガブリエルの善意も本物だった。
それでも、あのとき感じた違和感の正体を、今なら言葉にできる。
自分が沈めた村。
自分が出した命令。
自分が引き受けると言った再建。
その後始末が、別の家の名で行われていく。
セイラは、静かに手を引いた。
「あなたは、私を守ろうとしてくれている」
セイラは言った。
「それは分かっています。感謝もしています」
「なら」
「でも、楽になるために、最後の責任をあなたへ渡すことはできません」
ガブリエルの目が、わずかに揺れた。
彼は、宙に残っていた手をゆっくりと膝の上へ戻した。
「その守り方では、私はまた誰かの決定を実行する者へ戻ります」
「戻る、とは」
「行政を任せる、と言ってくださいました。ありがたいと思います」
セイラは、膝の上で手を組んだ。
「ですが、行政を任されることと、最後に決めることは違います」
ガブリエルは、少し身を引いた。
「二人で治めることの、何が悪いんだ」
責める調子ではなかった。
本当に分からないという顔だった。
セイラは、一度頷いた。
「意見が一致している時は、それでいいのだと思います」
「そうだ。私は君の判断を尊重する」
「では、意見が割れた時は?」
ガブリエルは、少し考えた。
「行政についてなら、君の意見をできる限り尊重するつもりだ」
「尊重する、ではなく」
セイラは、静かに問い返した。
「最後に私が決めてもいいのですか?」
ガブリエルは、すぐに答えなかった。
「たとえば、領内の備蓄をどこまで放出するか。どの街道を先に直すか」
セイラは続けた。
「洪水のとき、どの土地を守り、どの土地を沈めるか」
ガブリエルの目が、わずかに動いた。
「あなたが反対していても、私が必要だと判断したなら、私の名で命令を出してもいいのですか?」
「……それは」
「そして、その判断が間違っていたときは」
セイラはガブリエルを見た。
「アルヴェイラ侯爵家ではなく、私自身の責任として裁かれることを、認めてくださいますか?」
ガブリエルは、しばらく黙っていた。
「……君は私の妻になるんだ」
やがて、そう言った。
「最終的には、アルヴェイラ家として決めることになる。家としての責任は、私が負う」
セイラは、その答えを受け止めた。
「そうなのですね」
そこで、初めて分かった。
「あなたは私に行政を任せてくださる。でも、その行政の最後の責任者には、私をしないのですね」
ガブリエルが、口を開きかけた。
だが、言葉は出てこなかった。
沈黙が、部屋に落ちた。
ガブリエルは、膝の上の自分の手へ視線を落とした。
彼が今、何を考えているのか。
セイラには分かる気がした。
外との争いは私が引き受ける。
そう言ったとき、彼は「一緒に負う」と本気で思っていた。
思っていながら、最後に名を書くのは自分だと、疑ったことがなかった。
それは悪意ではない。
むしろ、責任を妻へ押しつけず、自分が家長として負おうとする、彼なりの誠実さだった。
彼が生まれ育った家では、それが当たり前だった。
セイラも、少し前まで同じことを当たり前だと思っていた。
「……考えたことが、なかった」
ガブリエルが、そう言った。
セイラは、しばらく黙っていた。
「……お互いに、考える時間が必要だと思います」
ガブリエルは、ゆっくりと頷いた。
「そうだね」
その日は、それ以上話さなかった。
迫らなかった。
彼はそういう人だった。
帰り際、彼は玄関まで送ってくれた。
作法どおりの、丁寧な見送りだった。
ただ、部屋を出るとき、二人の間には、手を差し出したときよりも少しだけ広い距離があった。
◇
姉のイネスとは、実家の二階の窓辺で会った。
窓辺に立つ姉の姿を見て、セイラは卒業式の日を思い出した。
あの日もイネスは、祝賀会場の隅の窓辺からセイラを見ていた。
「久しぶりね」
イネスは、嫁いだ先から戻ってきていた。
夜会用ではない簡素な装いで、髪も低く結っている。
「はい」
「みんなから聞いたわ。お父様も、お兄様も、お母様も、それぞれ言いたいことを言ったみたいね」
「はい」
「ガブリエル様とも?」
「はい」
「そう……」
イネスは窓の外へ目をやった。
しばらく黙っていた。
それから、思い出したように言った。
「以前ね、ロウレイロの領地で水路を引き直したのよ」
セイラは姉を見た。
「上流の堰を一つ動かして、二つの村へ順番に水を回すようにしたの。時間をかけて調べて、費用も出して、村の寄り合いも私が回った」
「……存じませんでした」
「知らないでしょうね」
イネスは、少し笑った。
「あれは、婚家の事業として公文書に残っているから」
セイラは、何と言えばいいのか分からなかった。
「誤解しないで。夫が横取りしたのではないの」
イネスは首を振った。
「あの人は家の中では私の意見をきちんと聞くし、感謝もしてくれる。ただ、正式な会議には当主が出る。公文書には当主の名が載る。それだけのことよ」
姉は、窓枠に手を置いた。
「私はその形を選んだの。今も、後悔はしていない。あの水路で、村の人たちは去年の日照りを越えられた。それで十分だと思っている」
「はい」
「でも」
イネスは、そこで振り返った。
「私がその道を受け入れたことと、あなたも同じ道を選ぶべきかどうかは、別の話よ」
セイラは、姉の目を見返した。
イネスは、また窓の外へ視線を戻した。
「一つだけ聞かせて」
「はい」
「あなたは責任を果たしたいの? それとも、自分を罰したいの?」
セイラは、すぐには答えられなかった。
窓の外の灯が、にじんで見えた。
姉が何を心配しているかは分かった。
村を沈めた。
家が三十二戸。
納屋が十七。
共同の井戸が三つ。
集会所が一つ。
水車小屋が一つ。
墓が、百と少し。
その重さを、自分に一生背負わせようとしているのではないか。
公爵になるという選択が、実は自分への刑罰なのではないか。
セイラは、その問いを最後まで考えた。
考えて、答えた。
「自分を罰したいわけではありません」
イネスが振り返った。
「でも、罰を受けるのが怖いからと言って、責任を他人へ渡すこともしたくありません」
姉は黙って聞いていた。
セイラは、そこで一度、息を吸った。
言葉にするのは、初めてだった。
「私はあの土地へ残らなければならないのではなく、残ることを選びたいのです」
イネスは、しばらくセイラを見ていた。
「そう」
それだけ言った。
「なら、それでいい」とは言わなかった。「公爵になりなさい」とも言わなかった。
代わりに、こう言った。
「公爵になれば幸福になれるとは限らない。ガブリエル様と結婚すれば不幸になるとも限らない」
一度、言葉を切る。
「だから、どちらが正しいかではなく、どちらの責任を、あなた自身の名で負いたいのかを考えなさい」
そして、窓の外へ目を戻した。
卒業式の日、姉は、いつまで官僚を続けたいのかと尋ねた。
あのとき自分は、結婚までの数年間です、当然でしょう、と即答した。
即答できなくなるまでに、ずいぶん時間がかかった。
◇
数日後、セイラはもう一度ガブリエルに会った。
同じ応接室だった。
茶も同じように用意されていた。
セイラは、腰を下ろす前に言った。
「婚約の解消をお願いするため、参りました」
ガブリエルは、すぐには動かなかった。
やがて、静かに椅子を勧めた。
セイラは座った。
「先に、申し上げておきたいことがあります」
「聞こう」
「あなたと結婚していれば、きっと穏やかに暮らせたと思います」
ガブリエルは、目を伏せた。
「それは、慰めか?」
「いいえ」
セイラは、はっきりと答えた。
「本当にそう思っています。あなたは私の仕事を認めてくださいました。学んだことを無駄だとは言わなかった。救援を送ってくださったときも、見返りを求めなかった。あなたと過ごす日々を、私は想像できていました」
「……私も、そう思っていた」
ガブリエルは、茶器に触れなかった。
「君が沈み野へ発つ前、私は思っていたよ。あの土地で二年勤めて、戻ってきて、それから結婚する。君は領地の治水を見てくれるだろうし、私はそれを誇りに思うだろうと」
「はい」
「その未来は、そんなに悪くなかったはずだ」
「悪くありませんでした」
セイラは頷いた。
「だからこそ、私が変わったのだと思います」
ガブリエルは顔を上げた。
「あなたが望んでくださったのは、あなたが外を守り、私が中を治める形でした。それは間違っていません。むしろ、多くの家がそうしています」
「だが、君はそれを選ばない」
「はい」
セイラは、自分の手を見た。
泥とインクの落ちない指。
「私は、最後に決めた責任を、自分の名で負いたいのです。あなたの名の陰へ入れば、その責任を負わずに済むかもしれません」
一度、言葉を切った。
「でも、それでは、私が引き受けると決めた責任を、最後まで自分の名で果たせません。あの村へ、別の家の名で責任を果たしたとは言いたくありません」
ガブリエルは、長いこと黙っていた。
「……止めても、無駄だろうね」
「申し訳ありません」
「謝らないでくれ」
彼は、首を振った。
「君は何も悪いことをしていない。私も、していないと思う。ただ、望んでいたものが違っただけだ」
そして、立ち上がった。
「アルヴェイラ家からは、正式に解消の手続きを進める。君の側に非があったという記録は残さない。それだけは、させてくれ」
「……ありがとうございます」
「一つだけ」
ガブリエルは、扉の前で振り返った。
「君が公爵になったとして、何かあったなら、アルヴェイラ家として力は貸す。それは婚約とは関係のない話だ」
セイラは、深く頭を下げた。
「その時は、正式にお願いに参ります」
「そうしてくれ」
最後まで、彼は礼を失わなかった。
だからこそ、応接室を出たあと、セイラはしばらく廊下で立ち止まらなければならなかった。
失ったものの大きさが、そこでようやく分かった。
◇
継続審議の場に、セイラは呼び出された。
大広間には、前回と同じ四人が並んでいた。
主席審議官が、書類から目を上げた。
「沈み野の恒久統治制度について、審議を続けている。本日は、関係者の意見を聞く」
セイラは一歩前へ出た。
「発言をお許しいただけますか?」
「許す」
セイラは、深く息を吸った。
「先の審議で、これから誰が責任を負うのかという問いが残されました」
セイラは、一度息を整えた。
「その問いに、私から一つ答えを申し上げます」
広間が静かになった。
「まず、私の家族と、アルヴェイラ侯爵家から示された案について申し上げます」
主席審議官が、わずかに眉を上げた。
「ヴェルディア侯爵家の後見の下で沈み野を治める案。アルヴェイラ侯爵家との婚姻によって、資金と軍事力を得る案。いずれも、実務としては合理的です」
セイラは、そこを曖昧にしなかった。
「私には家臣団がありません。財政基盤もありません。軍歴もありません。既存の家門の力を借りる方が確実に早く、確実に安定します。父も、兄も、ガブリエル様も、私を無能だと思って反対したのではありません。それぞれに、そう考える理由がありました」
一度、言葉を切る。
「ですが、その形では、一つだけ解決しない問題が残ります」
「述べよ」
「村を沈める最終命令を下した責任は、私にあります。公認船団の制度化も、国境協定の実行も、最終的に採用した責任は私が負います」
セイラは、卓上の資料を見た。
そこには、前回の審議で提出した記録が、まだ綴じられている。
「そこに至る判断や設計を、私一人の功績にも、私一人の罪にもするつもりはありません。財務の判断はロセル官補が、制度の設計はマクセル官補が、それぞれ自分の責任として述べたとおりです」
主席審議官が頷いた。
「そのうえで、最後に決めた者としての責任は、私のものです。もし新しい席を作っても、そこに座る者が別の家門の名で最後の判断をするのであれば、決める者と、その結果を負う者は再び分かれます」
セイラは顔を上げた。
「では、貴殿はどうすべきだと考える」
「私が負います」
セイラは、はっきりと言った。
「ヴェルディア家の娘としてではなく、アルヴェイラ家の妻としてでもなく、私自身の名で」
広間が、静まり返った。
主席審議官が、身を乗り出した。
「あなたは、ヴェルディア家からもアルヴェイラ家からも独立した家門を求めるということか」
「はい」
セイラは答えた。
「そのうえで申し上げます。私に権限を与えるのであれば、同時に、私自身を拘束する制度が必要です」
主席審議官が筆を止めた。
「その権限を受けるための要件として、二点申し上げます」
セイラは続けた。
「一つは、独立創家勅書です。新しい家門が、ヴェルディア家の分家でも、アルヴェイラ家の付属でもなく、独立した責任主体であることを明記する勅書を求めます。責任の所在が家門の間で移らないようにするためです」
「もう一つは?」
「建領憲章です」
セイラは、一度深く息をした。
「公爵が何をできるのか。何をしてはいけないのか。自治都市の権利をどこまで残すのか。辺境伯との権限をどう分けるのか。非常時にどこまで踏み込めるのか。それらを、私の判断ではなく、制度として定めていただきたい」
「なぜだ」
主席審議官が尋ねた。
「権限は広い方が、貴殿には都合がよかろう」
セイラは首を振った。
「自治都市の代表から、以前こう言われました。あなたが善良であることと、次の統治者も善良であることは別問題です、と」
沈黙があった。
「私が今、誠実に統治するつもりであることは、何の保証にもなりません。次の公爵も、その次の公爵も、同じとは限りません。私一人の善意で成り立つ制度なら、私がいなくなった時に壊れます」
「つまり、貴殿自身も、その憲章に拘束されると」
「はい。将来の公爵も、同じように拘束されるべきです」
主席審議官は、しばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「貴殿は、公爵位を望むということでよいか」
セイラは、正面から見返した。
「褒賞を求めているのではありません」
一度、間を置く。
「責任を負わせるのであれば、それを果たすに足る権限の付与を求めます」
広間には、何の音もしなかった。
主席審議官は、しばらくセイラを見ていた。
やがて、筆記官へ目をやった。
「記録せよ」
そして、資料を閉じた。
「監察団残留班代表セイラ・ヴェルディアの申し出を、正式な叙爵および建領の審議へ回す」
二十二歳、軍歴なし、世襲家臣団なし。
そして越権、一村の水没、密輸船団の公認――セイラが新たな家門を興す資格そのものが、最後の審議で問われます。
独立創家勅書、継承原則、建領憲章。
そして帝国初の女性爵位者マルティナの証言を経て、沈み野の未来を決める裁定が下されます。
次回、第12話「エクスィード女公爵」




