第63章:(閑話)霧の中の仮面、接触
クロエ・フォン・ヴァレンシュタインは、自邸の窓から街の風景を眺めていた。
かつて怪物に襲われたあの夜――圧倒的な身のこなしで、それを「掃除」のように片付けた男の背中。以来、彼女の中で「日常」という言葉の定義は大きく揺らいでいた。
最近、街の空気がおかしい。
以前は貴族たちの間で「魔王商事」の食材の良し悪しが社交の話題だった。しかし今、商人の間では「カトウという名の商人」が持ち込む作物の噂で持ちきりだ。
「……サトオ様」
クロエは、その名を呟いた瞬間に、胸の奥で甘く熱い火花が散るのを感じた。
あの晩餐会で、怪物をも凌駕する力を見せつけた彼が、またこの街に現れたりしないだろうか。
「お嬢様、また魔王商事とカトウ様の野菜の価格比較表を見ていらっしゃるのですか? ……どちらも品質は異常に高いですし、貴族の間では今、カトウ様の作る『無銘の野菜』を食卓に並べることがステータスになっておりますよ」
侍女の言葉に、クロエは小さく首を振った。
「そうじゃ無いのよ。……少し気分転換に、外を歩いてみようかしら」
大中央市場の喧騒の中、クロエはヴェールを目深に被り、注意深く歩を進めていた。
人々の目当てはただ一つ。連日、瞬く間に完売してしまうという、あの『ただの商人』の屋台だ。
「……ここね」
屋台の前に立ち、クロエは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、くたびれた作業着に身を包んだ男。顔の半分を覆う鉄仮面が、異様な威圧感を放っている。
客たちは皆、彼の野菜を求めるのに必死で、誰も彼の正体など気に留めていない。だが、クロエの眼には、彼の立ち姿から滲み出る「圧倒的な違和感」が強烈に突き刺さっていた。
「……そこの令嬢。買うのか? それとも眺めるだけか?」
サトオの声は、淡々としていた。感情の起伏を感じさせない、無機質な響き。
その声を聞いた瞬間、クロエの脳裏にあの晩餐会の夜の光景がフラッシュバックする。
(まさか……この人なの? あの時の……)
クロエは高鳴る鼓動を抑えながら、慎重に問いかけた。
「……あ、あの。貴方は、商人の方ですよね? ……随分と、……その、身のこなしが、普通ではないように見受けられますが」
サトオは作業の手を止めず、袋に野菜を詰めながら答える。
「普通? 俺はただの商人だ。作物の販売をするだけ。……身のこなしなんてものは、効率を追求した結果に過ぎない」
「効率……?」
その時、横を一台の馬車が通り過ぎた。路上の水溜まりが跳ね上がり、客たちに飛沫が降りかかる瞬間――。
男はテーブルに乗った野菜の葉を素速くすくい上げ、飛沫を完璧に弾き飛ばした。
その光景を見たクロエは確信した。目の前の男こそが、あの晩餐会の夜の強者であると。
サトオは少しだけ顔を上げ、鉄仮面の奥の瞳でクロエを捉えた。
「……怪我は無いか?」
クロエは複雑な思いで、その場に立ち尽くした。サトオは作業の手を止め、まっすぐ彼女を見つめる。
「お嬢さん。いつまでそこにいるつもりだ? 売り切れだ。……明日も同じ時刻に来るなら、一番良い実りを取っておいてやる」
それは冷淡な商売人の言葉でありながら、クロエにとっては、この混沌とした世界で唯一の、そして最も危険な「招待状」に聞こえた。
「……ええ。必ず、伺いますわ」
クロエは踵を返し、市場の喧騒を後にした。
彼女の胸にあるのは、恐怖ではない。思いを寄せる存在がすぐ近くにいたという昂揚。そして、彼を独占したいという狂気じみた歪な渇望だった。




