第61章:市場の攪乱者、「農家」の商業登録
帝国の商人ギルド本部。その厳格な門をくぐる一人の男がいた。
鉄仮面を被り、質素な農作業着を纏ったサトオ。彼がカウンターに置いたのは、冒険者カードでも魔王軍の証明書でもない。ただの、荒れた大地を耕して得た「農作物品質保証書」だけだった。
「……ギルドへの登録だ。商売を始める」
窓口の受付嬢は、目の前の男のあまりの異様な雰囲気に息を呑んだ。だが、彼が提示した商材――見たこともないほど瑞々しく、魔力が適度に制御された高品質の野菜――を前にして、彼女の手は震えた。
「た、ただの農家……ですか? ……わかりました。個人登録、手続きいたします」
こうして、「商人・カトウ」が市場に参入した。
サトオはさっそく、帝国の三大市場の一つ、「大中央市場」の一角に屋台を構えた。看板はただ一言、『ただの農家』。
この市場は、魔王商事が裏から操る圧倒的な安値と品質に支配されており、既存の商人たちは閑古鳥を鳴らしていた。サトオの屋台を見た商人の老人は、哀れむような視線を向けた。
「おい若いの、やめておけ。この市場には『魔王商事』という怪物がいるんだ。お前のような個人店が入る隙間はないぞ」
サトオは返事をせず、淡々と野菜を陳列した。
その瞬間、市場の空気が一変した。サトオが並べた食材から放たれる「最適化された鮮度」の波長が、周囲の商人の商品すらも霞ませるほどの存在感を放ち始めたのだ。
客が、足を止める。
そして一口、サトオの野菜を試食した瞬間、市場に衝撃が走った。
「……何だこの味は!? 魔王商事の商品も最高だと思っていたが、こっちは……もっと根本から身体が満たされるような……!」
噂は爆発的に広まった。
昼過ぎには、サトオの屋台には長蛇の列ができる。魔王商事の直売所から客が引き揚げ、カトウの列に並ぶ。
サトオは鉄仮面の奥で、市場の需給バランスを観察しながら呟いた。
「……ほう。飽和状態の市場でも、突出した品質があれば客は動く。面白い。……だが、客が流れただけでは物足りない」
サトオは、手元で指輪を操作する。
魔王商事の幹部に対して、極秘の指令を送る。
【指令:カトウの屋台周辺の品揃えを、一時的に枯渇させろ。競争相手の欠品を演出し、カトウの商品の希少価値を極限まで釣り上げる。その後、残った在庫をカトウの屋台経由で流せ】
市場の裏側では、魔王商事とただの露店が激しく争っているように見える。だが、実態は「サトオ」という同一の頭脳が、両方の勢力を同時に操り、市場の価格決定権を完全に掌握する「マッチポンプ」の極致だった。
夕暮れ時。
サトオの屋台は完売。売上は帝国の商人一ヶ月分の利益を一日で叩き出していた。
ギルドの幹部たちが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「か、カトウ殿! あなた、一体何をしたんだ……! 魔王商事の牙城を崩しただけでなく、この市場の価格相場そのものを書き換えてしまった……!」
サトオは荷物を片付けながら、冷ややかな口調で言い放った。
「市場? 違うな。ただ少し、収穫した作物を適切な場所へ配置し直しただけだ。お前たちの経済という名の農場は、少しばかり雑草が多すぎるらしい」
サトオは去り際、呆然とするギルドの面々を振り返りもせず、次の「市場開拓」の予定表を脳内で更新した。
彼にとって、帝国市場はもはや経済活動の場ではない。自分好みの作物を、効率よく流通させるための「広大な菜園」に過ぎなかった。
遠くで見守っていたバルドたちは、この光景を見て膝から崩れ落ちた。
「……魔王を支配し、商人ギルドさえも踊らせる。……あいつ、俺たちの知ってる『農家』の定義を、完全に塗り替えやがった……」




