第30章:国境の静寂、ささやきの森へ
法帝国を脱出した俺たちは、追手の目を眩ませながら南東の方角へと足を向けた。
目指すは、広大な未開のジャングル――『ささやきの森』。この大森林の先にはレムリア法皇国があり、帝国とは複雑な国境線を隔てている。いわゆる「境界線上の空白地帯」であり、双方の国家の管理が行き届かないこの場所こそ、俺が求めていた隠遁生活の最適地だった。
数日間に及ぶ徒歩での強行軍を経て、ようやく森の入り口に立ったとき、背後から聞こえていた帝国の喧騒は完全に途絶えていた。
森の名は、風が木の葉を揺らす音が、まるで何者かが耳元でひそひそと囁き合っているように聞こえることから名付けられたという。
「……ここなら、さすがに誰も追ってこないだろう」
俺は立ち止まり、胸いっぱいに深く息を吸い込んだ。
湿り気を帯びた空気と、古い腐葉土の匂いが鼻腔を満たす。法帝国のあの華やかで、どこか息の詰まるような香水の匂いとは、完全に別世界だ。
『ふふ、随分と気合の入った隠れ家を選んだものね。確かにここなら、あの五月蝿い『英雄』の称号も届かないわ』
セリアが相変わらず俺の影からするりと顔を覗かせ、近くの木の枝に身軽に腰を下ろした。
俺は腰のポーチに手を当て、中に収まった銀のギルド証を指先で確認する。法帝国の法が及ばない場所とはいえ、冒険者ギルドのネットワークだけは大陸全土に張り巡らされている。いざとなれば、このBランクの身分を隠れ蓑にして最低限の物資を調達しつつ、ひっそりと自給自足の農作業でも始めればいい。
だが、ささやきの森はただの安全地帯ではない。
二大国家の国境線。当然、帝国の追手だけでなく、法皇国の辺境巡回兵や、境界線を縄張りとする狂暴な魔獣たちも潜んでいるはずだ。
「さあサトオ、ここからどんな生活を始めるの? 畑を作る? それとも、また魔獣を神速で解体して職人芸でも見せちゃう?」
「……畑だよ。まずは拠点の確保と、土地の整備、それから水源の確保だ」
俺は手近な倒木の上に腰を下ろし、リュックから硬い干し肉を取り出して口に含んだ。
法帝国での英雄としての騒乱、エレナの的外れで熱心な視線、第二王女の潤んだ瞳――それらすべてをあの街に置き去りにしてきたはずなのに。なぜか森の木々が風に揺れるたび、エレナの説教や執事の鋭い疑念が、文字通り『囁き』となって脳裏に蘇る気がした。
『……やっぱり、まだ忘れられない?』
セリアの射抜くような問いかけに、俺は静かに首を振る。
忘れる必要はない。ただ、あれは『サトオという名の、俺ではない誰か』の物語だ。
俺は食事用のナイフを手に取り、拠点の目印として近くの灌木をバッサリと切り払った。
境界の森、ささやきの森での新たな隠遁生活が、今、静かに幕を開けた。
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