第28章:報奨の重圧と、逃亡の足取り
会場に重苦しい沈黙が流れる中、第二王女が震える足取りで俺の目の前に立った。
彼女の瞳は先程までの怯えを消し去り、濡れたような光を宿して俺を見つめている。それは、死の淵から救い出された安堵などという生易しいものではなかった。――本物の英雄を間近で目撃した者だけが浮かべる、抗いがたい熱を帯びた崇拝の眼差しだった。
「貴方……なんて名なの。その腕前、その身のこなし……。この国に、これほどの英雄が隠れていたなんて」
王女が震える指先を伸ばし、俺の着崩れたネクタイを整えようと距離を詰めてくる。
周囲の貴族たちはその光景を食い入るように見つめ、中にはすでに「あの男の正体」を調べ上げようと、商談や政略の機会を虎視眈々と狙い始める者までいた。
(……まずい。このまま捕まったら、確実に見返りという名目で王宮に縛り付けられる)
俺は王女の言葉を遮り、敢えて不遜な笑みを口元に浮かべてみせた。
英雄としての底知れない器量をあえて傲慢さに変えて誇示し、彼女を怯ませて会話を強制終了させるための、俺に残された最後の賭けだ。
「名はサトオ。しがないBランク冒険者だ。……王女殿下、あまりそのような目で俺を見ないでいただきたい。俺はただ、依頼を受けてその任を全うしただけに過ぎない」
あえて冷淡に言い放ち、俺は乱れたタキシードの裾を翻した。
周囲の近衛騎士たちが俺の不敬を咎めようと一斉に剣の柄へ手をかけるが、俺は一瞥もくれない。ただ、先ほど怪物を一瞬で沈めた圧倒的な『力』の余韻だけを会場中に撒き散らしながら、大股で歩き出した。
「今は……もう少しだけ、静かに生きたいんでね」
会場中の空気がビリビリと震える。
不敬だという罵声が上がるよりも先に、その傲慢なまでに堂々とした背中に向かって、圧倒的な『英雄』としての畏怖が伝染していくのが分かった。
俺は一度も振り返ることなく、豪奢な大扉を押し開けて会場を後にした。
誰もいない静かな廊下に出た瞬間、俺の肩から一気に力が抜ける。
後ろから、ドレスの裾を翻したエレナが、驚愕と興奮が入り混じった顔で小走りに追いかけてきた。
「今の……! 国の王女殿下に対してなんて不遜な口の利き方を……! で、でも、最高に痺れるほど格好よかったわ、サトオ様!」
「……エレナ、頼むからもう帰らせてくれ。これ以上この『英雄の仮面』を被らされていたら、今度こそ胃が爆発して死ぬ」
俺が壁に手をついて力なく呟くと、夜の回廊の影の中から、セリアがぬらりと姿を現した。彼女は俺の反対側の腕を当然のように取り、満足そうに細めた紅い瞳を向けてくる。
「あら、ご苦労様。一国の王女様をあんな熱い顔にさせてしまうなんて、サトオ、貴方って本当に罪な男ね?」
セリアの楽しげな声音が、静かな夜の回廊に妙に響く。
閉ざされた扉の向こうからは、なおも「英雄サトオ」の噂を広めようと熱狂する貴族たちのざわめきが漏れ聞こえていた。俺は手元に紛れ込んだままの、あの『食事用のナイフ』をポケットの奥に握りしめ、逃げるように夜の闇へと駆け出した。
……明日になれば、この聖都に俺の居場所は完全になくなっているかもしれない。
だが、今はただ、あの底知れない欲望と羨望が渦巻く宴から、一刻も早く遠ざかりたかった。
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