第23章:英雄再起プロジェクト、開幕の号砲
翌朝、俺の平穏な隠遁生活は、商会の門の前で音を立てて崩壊した。
門を叩くより早く、背後から聞き覚えのある、そして今一番聞きたくない声が響く。
「おはよう、サトオ様。……いえ、今日からは『英雄候補生』とお呼びすべきかしら?」
振り返ると、そこには朝から完璧な身なりで可憐に微笑むエレナがいた。その後ろには、無表情な私設護衛が数名。そして俺の隣には、昨日からの余韻を楽しんでいるかのように、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべるセリアがいる。
「……エレナお嬢様、俺はただのしがないF級冒険者ですって、何度言えば」
「いいえ。貴方がいくら隠そうとしても、あの夜に私を救ってくれた英雄である事実は揺るがないわ」
エレナは俺の言葉を華麗にスルーし、有無を言わせぬ手つきで俺の腕を掴んだ。そのまま、引きずるような勢いで商会の中へと連行される。
「今日から貴方は、私の特別管理下に入ります。英雄としての品格、知識、そして社交術――そのすべてを私が再教育して差し上げますわ!」
応接室に連れ込まれた俺を待っていたのは、まるで王侯貴族のティータイムのような光景だった。テーブルの上には、これでもかと並べられた高級菓子と、目眩がするほど分厚い歴史書が山積みになっている。
「さあ、まずはこの歴史書を三時間で暗記してちょうだい。英雄たるもの、この程度の教養は必須よ」
「……あの、オークの解体なら五分で終わる自信があるんですが」
「そんな野蛮な技能は不要です!」
エレナがプイと横を向く。彼女は本気だった。
英雄であるはずの俺が「小娘(魔王の娘)に溺れて燻っている」という現実を否定するため、彼女は全力で『自分の理想の英雄像』を俺に押し付けようとしているのだ。
その隣で、セリアが高級なスコーンを優雅に摘みながら、俺に向かってひそひそと囁いた。
「ねえサトオ、私、このお嬢さんの教育に協力してあげるわ。サトオが『英雄らしいかっこいいところ』を見せるたびに、私の機嫌が良くなるっていうルールはどうかしら?」
「……お前、完全に面白がってるだろ」
「最高に面白いわよ。……あ、お嬢さん。サトオには、もっと脇を締めて気品高くお茶を飲むように言った方がいいんじゃないかしら? 英雄なら、指先の所作まで美しくなくちゃ」
「……まぁ! そうね、とても素晴らしい着眼点だわ、セリアさん!」
なぜかセリアの言葉を真に受けたエレナが、嬉々としてメモを取り始める。
こうして、俺の『英雄教育』という名の新たな地獄が幕を開けた。
分厚い歴史書を丸暗記させられ、やたらと重い貴族の正装を着せられ、一挙手一投足に優雅さを強いられる。数時間後、俺のシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れ、愛用のハンマーを一日中振り回すよりも遥かに体力を消耗していた。
「……はあ、はあ……。もう、勘弁してくれ……」
テーブルにぐったりと突っ伏す俺を見下ろし、エレナは満足げに頷く。
「今日はここまでね。でも、明日からは剣術の所作の修正に入るわ。貴方のステップ、少しだけ無駄な動きがあるもの」
「それは俺の戦闘スタイルであって、修正されるものじゃないんだが……」
俺が力なく呟くと、エレナは少しだけ頬を薔薇色に染め、恥ずかしそうに視線を落とした。
「……別に、今の貴方が嫌いなわけじゃないわ。ただ、貴方にはもっと……相応しい『高尚な場所』で輝いてほしいだけよ」
その真っ直ぐで純粋すぎる想いが、今の俺には一番の凶器だった。
俺の背後で、セリアが楽しそうにクスクスと鈴を転がすような笑い声を漏らしている。
(……ああ、クソ)
街中の噂に「ガッロ商会の令嬢が野良英雄を飼いならしている」という尾ひれがつく日も、そう遠くはないだろう。
俺の隠遁生活、その第二幕は、予想を遥かに超えて騒がしいものになりそうだ。
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