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第18章:境界線の夜

 聖都の外れにある木造の安宿『泥の靴亭』。


 仲間たちと別れた俺が彼女を案内したのは、壁が薄く、隣室のいびきや階下の酒場の喧騒がそのまま流れ込んでくるような最下層の小部屋だった。


 かつて勇者として豪奢な宮殿で目覚めていた記憶を持つ俺にとって、この部屋の埃っぽさとカビの臭いは、ある種の「罰」のようでもあった。だが同時に、今の俺にとっては、この「何者でもない自分」を維持できる唯一の聖域だ。


 その狭い四畳半に、魔王の娘が転がり込んできた。


「……ねえ、サトオ。ここが貴方の家なの?」


セリアは部屋の中央に立ち、汚泥を検分するかのような目で室内を見渡した。


 彼女がそこにいるだけで、部屋の色彩が劇的に変わっていく。薄汚れた壁も、軋む床板も、彼女の紅い瞳が射抜くことで、なぜか神聖で、同時に途方もなく危険な場所に思えてくるから不思議だ。


「そうだ。しがない冒険者にはお似合いの、湿気た部屋だろ。……文句があるなら出ていけ」


「いいえ。……外よりはマシよ。それに、この部屋には貴方の匂いが染み付いているわ」


 彼女はためらいもなく、俺の安物マットレスに腰を下ろした。


 布団が軋み、微かに砂埃が舞う。普段なら俺が泥のように眠るための唯一の場所だ。そこに魔王の娘が座っているという現実のせいで、脳の処理が追いつかない。


 俺は部屋に一つしかない椅子に腰掛け、またしてもハンマーの手入れを始めた。


 いかんせん部屋が狭すぎる。手を伸ばせば、彼女の華奢な背中に触れられるほどの距離だ。


 薄い壁の向こうでは、酔っ払った冒険者たちが「次のクエストで金貨を稼ぐ」と大声で笑い合っている。俺たちが今、世界を揺るがすような存在をここに隠しているとは、夢にも思わずに。


「……サトオ。貴方は、どうしてこんな場所を選んだの? 勇者の力があれば、どんな権力だって手に入ったはずでしょう?」


「権力? そんなものは、ただの重荷だ。……俺はただ、誰も俺の名前を知らない場所で、誰にも指図されずに生きたかっただけだ」


彼女は俺の言葉に、少しだけ悲しげな表情を浮かべた。かつての魔王軍との死闘を知る者として、彼女は俺が静寂を求める理由を、感覚的に理解しかけているのかもしれない。


「……そうね。私も、お父様の城は窮屈だった。……貴方とここへ逃げてくるのは、意外と悪くないかもしれないわ」


 彼女はそのままマットレスに横たわり、天井の染みを見つめた。


 窓から差し込む月明かりが、彼女の白い肌を青白く照らす。この安宿の小部屋は、外の喧騒から完全に切り離された、まるで別次元の空間のようだった。


 俺はハンマーの手入れを止めた。


 ただのFランク冒険者が、魔王の娘を安宿に隠す。この危うい均衡がいつまで保てるのかは分からない。明日には宿の主人が怪しむかもしれないし、教団の犬が鼻を利かせて扉を叩くかもしれない。


 だが、今はただ、この狭い暗がりのなかで、彼女の静かな呼吸音が聞こえることだけが唯一の現実だった。


 俺は小さくため息をつき、安酒を一口あおってから灯りを消した。


 明日の朝には、また「冒険者サトオ」としてギルドに行かなければならない。この厄介な同居人を連れて。


 闇の中で、俺は自分の右手を握りしめる。手のひらにはまだ、かつて世界を救うために振るった「勇者の残滓」が、熱を持って残っている気がした。


 俺は、その熱を無理やり消し去るように、冷たいハンマーの柄を強く握り直した。

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