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第11章:月下の斜面、忘れ得ぬ背中

 夜の闇に紛れる凶暴な魔狼『シャドウウルフ』の群れが、夜営地を急襲した。辺りは一瞬にして怒号と悲鳴が渦巻く混沌と化す。


「エレナ、こっちへ! 馬車の陰に隠れるんだ!」


「きゃあっ!?」


 パニックに陥ったガッロ商会のお嬢さん、エレナは護衛の手を振り払い、本能的に光の届かない暗闇へと走り出してしまった。だが、そこは運悪く急な斜面になっていた。彼女は短い悲鳴を上げて、そのまま闇の底へと転げ落ちていく。


 周囲にその行方を気づく者はいない――俺を除いては。


(しまっ――!)


 斜面の底で怯えるエレナと、それを追って駆け下りる三頭の魔狼。俺は黒鉄のハンマーを腰に納めると、ドノバンの革エプロンを風になびかせ、静かに闇へと滑り降りた。


「いや……来ないで……!」


 丘の底で泥にまみれ、足を痛めて動けないエレナが絶望に身を震わせる。目の前には、飢えた牙を剥く魔物の巨体。鋭い爪が彼女の喉元に届こうとしたその刹那。


 ――サッ。


 夜風が揺れるほどの気配と共に、一人の男が彼女の前に滑り込むように立ち塞がった。月明かりを背にしたその背中は、煤けた革のエプロンを纏っている。


 俺はエレナを背に庇うと、飛びかかってきた一頭目に対し、極限まで抑制した美しいフォームで右足を一閃した。


 ――シュッ……パンッ!


 鋭い風切り音の直後、横殴りの蹴りが狼の胴体を正確に捉える。骨を砕く音はさせず、しかし絶対的な質量による衝撃。魔物は悲鳴を上げる暇もなく真横へと高速で弾き飛び、闇の茂みへと消えていった。


「ガルルルッ!?」


 一瞬で仲間をねじ伏せられた残りの二頭は、動きを止めて低く唸る。俺がハンマーに手をかけず、ただ冷徹に睨みつけると、先代勇者譲りの絶対的な威圧感オーラに圧された狼たちは、恐怖に尾を巻いて一目散に逃げ去った。


 静寂が戻った月明かりの底。


 エレナは、自分の前にそびえ立つ男の「背中」を呆然と見上げていた。誰も助けに来られない絶望の暗闇で、ただ一人自分を庇い、凶暴な魔物を一蹴した存在。その逞しい佇まいは、彼女の心の奥深くに消えない光景として焼き付いた。


「……あ、あの……」


「足、捻っちゃいましたか? 大丈夫、もう魔物は来ませんよ」


 俺は彼女の前にしゃがみ込み、視線を走らせる。素顔ははっきりと見られているが、今さら偽装する余裕はない。


「あなたが……マルコさんのところの冒険者さん? どうして、そんな力を……」


「お嬢さん、この事はみんなには『ナイショ』にしておいてくれませんか? 表向きはただの頼りないFランクの職人なんで、騒がれると困っちゃうんです」


「え……あ、はい……っ」


 エレナが赤面して頷くのを確認し、俺は遠くから聞こえる捜索隊の声に耳を澄ませる。


「よし、約束ですよ」


 彼女の手を引いて開けた場所までエスコートし、救助隊の光が届く直前で、俺は素早く気配を消してその場を離脱した。


 その後、無事に合流したエレナは、父親に抱きしめられながらも何度も暗闇の方を振り返っていた。焚き火のそばで何食わぬ顔をして馬車を修理する俺の方を、彼女は熱い視線で見つめている。


(……まあ、口の堅そうなお嬢さんだし大丈夫か)


 俺はそう自分に言い聞かせ、何事もなかったかのようにハンマーを振り下ろした。


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