第41話「仕事での時間、恋人としての時間」
翌日、お店に出勤したジーク。
BAR Luminousの前で一度だけ、深呼吸する。
木の扉の向こうからは、昨日までと変わらないはずの静けさ――なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
(お、おちつけ。いつも通りだ。仕事だ。……仕事なんだけど)
そう自分に言い聞かせて、ジークはそっと扉を開けた。
カラン、とベルが鳴る。
磨かれたグラスと柑橘、ほんのり甘いリキュールの匂いが混ざった“いつもの空気”が、鼻先をくすぐった。
「お、おはようございます、セレナさん」
カウンターの向こうには、開店準備中のセレナがいた。
彼女も、いつもより少しだけ動きがぎこちない。
「う、うん。おはよう、ジークくん」
いつものカウンターで挨拶をする2人。
視線が合いそうで、合わない。
合ったら最後、頬が熱くなってしまいそうで――。
((は、恥ずかしくて目を見て話せない……!))
そう思ってしまうのに、胸の奥はふわっと温かい。
恥ずかしさよりも、
大好きな相手と恋人関係になれたという嬉しさが、じわじわと勝っていく。
セレナがエプロンの紐を結び直しながら、少しだけ逡巡して――意を決したように口を開いた。
「あの、ね。考えたんだけど、付き合うことになったわけだし、ジークって呼んでもいいかな? ジークくんにもセレナって呼んで欲しいし、くだけた話し方でいいから。その……恋人なわけだし……」
そう言ってはにかむセレナ。
照明に照らされた頬が、ほんのり赤い。
ジークは思わず微笑んでしまう。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「わかりました。それじゃあ俺もセレナって呼ぶし、もっとくだけた話し方でもいいかな?」
もちろん、とうなずくセレナがかわいくて、ジークはさらに口元を緩める。
「うん、わかった! じゃああらためてよろしくな! セレナ!」
「うん、こちらこそよろしくね。ジーク!」
言葉が変わるだけで、世界が一段近くなる。
2人は手と手を取って見つめ合う。
指先が触れて、熱が伝わって、同時に息が浅くなる。
「セレナ、今日も仕事頑張ろうな」
「うん! 頑張りましょ!」
そのとき――
店の奥から、グラスを置く軽い音がした。
すでに出勤していたリチャードが、ニヤリと微笑みながら2人を見つめていたのだ。
「おやおや、知らない間にずいぶんと仲良くなったみたいだなぁ。ジークさん、娘をよろしく頼むよ」
リチャードのそんな言葉に、セレナは顔を赤くし、ジークは照れながらもうなずいた。
それを見て嬉しそうに微笑むと、リチャードは気持ちを切り替えるように、手をパンッと叩く。
「でも仕事は仕事! 2人だけでイチャイチャしてお客さんを置いてけぼりにしないようにな?」
「はい!」
声を揃えて笑顔で返事をする2人。
そのまま、いつもの流れで開店準備に取り掛かるのだった。
仕事中は今まで通りの呼び方、話し方で接客をこなす2人。
そうすることで、仕事とプライベートの切り替えをしっかりしていた。
「ジークくん、このお皿はあっちに運んでもらえる?」
「了解!」
テーブルを拭く音、氷が鳴る音、グラスの触れる乾いた音。
その中で交わされる短いやり取りが、どこかいつもより柔らかい。
「ありがとうございました~!」
最後のお客さんを送り出して、本日の営業も無事に終了。
扉のベルが鳴り、閉まる音がして、店内に静けさが戻る。
「お疲れさん」
そう言ってリチャードが、水の入ったコップをカウンターに置いてくれた。
水滴がグラスの外側を滑り、ライトにきらりと反射する。
2人はお礼を言ってからそれを飲む。
冷たい水が、火照った喉をすっと通っていく。
「ねぇ、お父さん? 今日もジークくんにカクテルを飲んでもらおうと思ってるんだけど、お父さんもどうかな?」
「いや、父さんはもう帰って寝るよ。2人の邪魔をしたくないしな」
そう言って笑うリチャードに、セレナは頬を膨らませる。
「もう! そんなんじゃないから!」
それからジークは、お店でお酒を作ってもらうことになった。
カウンターの照明が少し落ちて、閉店後の店内は“ふたりの時間”みたいに静かだ。
「それじゃあジーク。今日もお疲れさまでした」
「うん! セレナさ……セレナもお疲れさまでした!」
2人は乾杯をする。
グラスが軽く触れて、ちん、と可愛い音が鳴った。
「あ~、仕事の後の一杯は最高だなぁ」
そんなジークを見て、セレナはクスクスと笑う。
その笑い声が、夜の店にやさしく溶けていく。
それから2人は談笑しながらグラスを傾ける……。
昨日の出来事を思い出して頬を赤くするセレナを見て、ジークは隣に座る彼女との距離をそっと詰める。
「セレナ……俺、昨日から幸せでどうにかなりそうだよ」
「うん、私も……」
そう言って見つめ合う2人。
目が合うだけで、胸の奥がきゅっとなる。
「お、俺、誰かと付き合うのは初めてだけど、精一杯セレナを幸せにするから!」
顔を赤くして言うジークに、セレナは微笑みながらうなずいた。
「私も付き合うのは初めてだし……。でも、嬉しいな」
そう言って微笑むセレナは、どこか大人っぽく見えた。
いつもの凛とした“バーテンダー”じゃなくて、ひとりの女の子の顔だ。
「だって、お互い初めてのことばかりなんだもの。大好きな人と初めてを共有できるって、なんだか素敵じゃない? 2人でいろんな初めてを経験して、一緒に成長していくんだもの」
そう言って笑うセレナに、ジークも優しく微笑み返す。
「うん……そうだな! セレナといろんな初めてを共有したいな」
その答えに、セレナは幸せそうに微笑んだ。
「ふふ……嬉しい……。あらためて、これからもよろしくね?」
「あぁ! こちらこそよろしくな!」
2人はもう一度グラスを合わせて乾杯をするのだった。
カクテルの甘さが喉を通るたび、胸の奥がふわっとほどけていく。
こうして、セレナとジークはゆっくりと愛を育んでいく。
1時間ほど飲んで、お店を出た2人は家に向かって歩く。
夜明け前の空気はひんやりとしていて、頬の熱を少しずつ冷ましてくれる。
「楽しかったなぁ」
お酒で火照った身体を冷ましながら、ジークは呟くように言った。
そしてセレナの手をそっと握る。
「うん、楽しかった。ふふ、ジークの手、あったかい」
セレナは嬉しそうに笑って、ジークの手を握り返した。
指が絡まって、ふたりの歩幅も自然と揃う。
「ねぇジーク。私ね、今とっても幸せよ」
そう言って微笑むセレナを、ジークは優しい目で見つめる。
「うん、俺も同じだよ。大好きな人と一緒にいられて……本当に幸せだ」
セレナは嬉しそうに笑った。
「ふふ、ジークって本当にストレートに気持ちを伝えてくれるから嬉しい」
ジークも照れ笑いする。
「うん、だって……好きな人にはちゃんと伝えたいから……」
「ありがとう、ジーク」
そんなやり取りをしているうちに2人はセレナの家の前に着いた。
「それじゃあまた明日ね!」
笑顔でそう言って家に入ろうとするセレナ。
その手を引いて、ジークは彼女を抱きしめた。
「え? あ、あの……ジ、ジーク……?」
突然近くなった体温。
セレナの髪から、ほのかに甘い匂いがする。
「セレナ……ちょっとだけこのままでいさせて……」
その声が、少しだけ弱くて、素直で。
セレナは顔を赤くしたまま、小さくうなずく。
「う……うん」
セレナもジークの背中に手を回して、彼の胸に顔を埋めた。
互いの鼓動が、近すぎて分かってしまう。
2人はしばらくそのまま抱き合い、ゆっくりと離れた。
「ふふ……ジーク」
頬を赤くして嬉しそうに微笑むセレナに、ジークも微笑んだ。
「セレナ……」
それからしばらく2人は抱きしめ合うのだった……。
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