四
「へえ。じゃ、これが香港経由の。」
「そうです。政府の認可が下りるのはまだ先だが、既に人体実験済み。金持ち連中はこぞってほしがる。特にあの柏木。」
「ああ、『もうじき』の御嬢さんがいるんだったかね、あそこは。」
「そういうことです。」
「ふん。わかった、家が受けよう。もともとそういう話だったからね。」
「ありがとうございます。」
ここの茶は、ほろ苦くてうまい。いつの間にか馴染みとなった店の庭先を眺めながら、朝岡は酒ばかり注がせている女のことを思い出した。
「ときに、飯田さん。」
「何かな。」
「最近、いい買い物をされたとお聞きしましたが。」
「ああ。あの店はお前んとこに近いんだったか。なに、たいしたことでもない。」
「夜の蝶たちが蜜を吸えずに嘆いてましたよ。」
「この世界じゃ、さっさと逝きそうな奴ほど女が群がる。」
まるで、死の蠅のように。
「もう『ネオンの光に隠れて』探偵ごっこの年でもないだろう。年寄らしく、大人しくするさ。」
「年寄りなんて、とんでもない。」
飯田は穏やかだ。通常の人間が「そのとき」になって慌てることにも、眉一つ動かさない。それは極道らしく、馬鹿すぎるほど真っ直ぐの道を歩み、静かな闘志を絶やすことがないからだろうと、朝岡は思った。
「娘は、あなたの、ですか。」
飯田は、意外だという風に笑った。
「会ったのか。」
「家のシマの店でね。」
飯田は、庭の方を向いた。見つめているのは、月ではなかった。
「あれは母親に似ておらん。もちろん私にも。私のでは、ないからな。」
飯田は、心なしか眉をひそめた。
「私が会ったときはそぶりも見せなかったが。もしや、こっちの世界にいるのか?」
「いえ。そういうことでは。ただ、親父んとこの御嬢さんと懇意でしてね。」
「そうか。それも『縁』だ。私と妻と、あれの父親のように。」
法より義理の重い世界で、妻と言い切るその男の火は、静かだが、冷たくはなかった。
しばらくぶりに見た女には、相も変わらず隙がなかった。気配が分かったのか、こちらに向き直った女は、唇を歪めて打ち水された敷石と同じ温度の笑みを浮かべた。
「こんにちは。」
利発そうな眼差しにも、声色にも、どこかからかいを含んだような、飄々とした雰囲気がある。これの倍、酸いも甘いも噛み分けた女の円らな瞳が思い出されて、皮肉なものだ、と心の中で笑う。
綺麗に掃除された玉砂利と、濡れた石板。
飯田は黙って花を供え、野鳥の声を聞いた。
「大学の方は、どうだね。」
「二年になって、多少はやることも増えましたが。上級に比べれば、まだ好きなことをしていられます。」
「バイトか。」
女ははっきりと、意図して笑った。
「まさか、朝岡さんですか。」
「そうだ。・・春奈は、知らんのだろう?」
「ええ。あえて隠すほどのことでもないですがね。」
酒の匂いも、香水の香りもしない。女からはわずかに、線香の香だけが漂った。
「体調は、悪くない。」
「それは良かった。あの人には、平穏が似合う。」
「私といるのが、平穏かね。」
「あの人の基準でいえば、そうでしょう。強さは、揺らぎのなさ。簡潔な理論じゃありませんか。」
女は、片頬にだけ笑窪を作ってみせた。
「今度、会いに行きましょう。白い花を持って。」
女は、たった一輪供えた、紫の菊を一撫でして、静かにその場を去った。
ただのチンピラ、アル中で終わるには、惜しいと思わせる程度に利発な男だった。二十代半ばで散った男の血は次代に受け継がれ、それは、ただ年月を重ねるだけの自分には得られなかったものだ。死の蠅は、また夜の蝶に戻った。蜜も出ぬ、枯葉に溜まった夜露を啜るだけの、哀れな蝶に。
「今日は、病院だったかね。」
「ええ。もうだいぶいいそうよ。って、なんだか他人事みたいで、おかしいけれど。自分じゃ元気のつもりで、またご迷惑かけてもいけませんからね。」
「そうか。平穏、かね。」
「なあに?急に。」
目尻の皺、痩せた頬に掠めるようにできた笑窪は、可笑しさを滲ませていて。
「私といるのは、平穏かね。」
「そうね。平穏よ、とっても。」
次回完結予定です。




