三
今回は視点と場面の移動が激しいので、読みづらいかもしれません。
「いらっしゃいませ。」
もともと短い髪をすっきりとまとめた女は《葵》と名乗った。店の中でも最も若い部類であろう彼女の口元に浮かべた笑みはしかし、若さ特有の清純さを感じさせるものではなかった。
「お嬢には、知ってて近づいたのか?」
青唯は直球で来たな、とは思うものの、当然かとも感じた。こんな小娘相手に今更駆け引きでもなかろう。
「いいえ。知っても引かなかったのは事実ですが。」
「まあ、飯田さんの女のとこの娘だとは思わなかった。」
「お知り合いですか?」
「組は違うが、会うことはある。」
酒を作る手つきも、やけに手馴れている。朝岡は気に食わなかった。
「お嬢はこっちの世界のことは何も知らない。妙なかかわり方はするなよ。」
「やだ、私はただのホステス、それこそ何も知りませんよ。それにあの子は線引きが上手い。あそこまで割り切れる人間も珍しいと、私は思いますけどね。」
「・・俺にはそうは思えんが。」
「あの子が何故、あなたを嫌うか分かりますか?」
朝岡は顔をしかめつつ、隣で動いた男を制した。女は別段挑発しているようでもなく、しゃべりを好むたちにも見えなかった。
「お嬢は家業を嫌っているだろう。」
「まさか。あの子はごく自然に受け入れている。だけど、使えもしない駒として見られるのを許容できるほど、寛容じゃない。」
「俺は、お嬢には、堅気の世界で生きてほしいと思っている。」
「あの子にとってその答えは決まっていたものではなく、長年かけて導き出したものだった。・・あの子、相当プライド高いですよ。」
朝岡が気をそがれるほど、青唯は苦笑といっていい表情を浮かべていた。琥珀色の液体が、不在でありながらこの場の中心である女の、ふわふわした髪を思わせた。
「別に父親代わりでもないが。少し驚いた、それだけだ。」
青唯が灯した煙草を、一気に吸い込む。妙に煙が、熱く感じられた。
「今夜は、もう上がりか?」
「ええ。」
初めて青唯の目が、挑戦的に見えた。
かすかに気だるげな、緩慢な動作に、日和の目は吸い寄せられた。ホステス、といっていたが、自分が鈍いだけなのか、酒のにおいはしない。
「昨日も、お仕事だったんですか。」
「そう。急なヘルプ入っちゃって。いつもは連日とか、ないんだけどね。」
「その、どうして。」
「母親もそうだったから、私。」
不安、だろうか。日和は考えた。
「どうして。」
日和は口を噤んだ。同じことばかり繰り返す己が、いっそ滑稽に思えた。
「日和といるのはさ、楽しいから。それと、日和が強い女だから、かな。」
寄る人間、去る人間、その両方の理由となることを、日和は承知している。青唯の立ち位置が、見えづらい。スモークのかかった、グレーゾーン。
例えばもっと深く知ったり、目的を果たしたりすれば、いつか青唯も、離れていくのだろうか。知的な瞳は理由のある楽しさを肯定するように煌めいて、日和は息を詰める。
背を向けて歩き出した青唯。日和は自由の代わりに、見えない鎖に手を伸ばす。
「御夕飯、食べていきませんか。」
これだから女は、鋭い。青唯は苦笑して、腹をくくった。
「日和の手料理?楽しみだな。」
筑前煮は旨い。旨いが、その味を共有している人間がはす向かいの御仁ともなると、風味が変わってくる。だが。この味が、日和の味だ。
「日和が随分世話になっているようだね。」
「いえ。一緒にいて楽しい思いをしているのはこちらですよ。日和さんは素敵な人ですから。」
いやだ青唯さんたら、おじいちゃん、青唯さんっておちゃめな人でしょ。頭もよくてベースだって弾けるし、日和の病気まで治しちゃうの。青唯は照れるでもなく微笑んで聞いていた。
「日和、そろそろ食べないと、料理冷めるよ。せっかくすごくおいしいんだから。」
素直に食べ始めた日和を見て、白い眉が少し上がった。
そんな回想を、寝物語にした。
「筑前煮食いながら、親父と話した?まあ、親父の好物だが。」
青唯は笑い出した。日和も、なかなかやる。
「お前。どこまで近づくつもりだ。あまり下手にかかわらない方がいい。」
「あら。今、が一番近づいていると思いますが?」
意味は違うが、ある意味直球だ。親父とは寝るなよ、半ば冗談で言った台詞にはいと即答しつつ、少し残念そうな顔をした青唯を、若干殴りたくなった朝岡であった。
青唯は、常に艶やかであった。けれど不思議な透明感があった。透明感?日和ははっとした。自然な、そう、風の匂いのする感じじゃない、半透明のビニールに包まれたような。考えたくなくても、考えずにはいられない現実に、日和は多分、無意識に背を向けていてた自分を自覚する。
残り香なんて、一度もなかったけれど。使い込まれたライターを壊したいのか、守りたいのか。分からないことは、そのままでもいいよ。優しい声が、頭の中で響いて、日和はますます、分からなくなる。
「青唯さん、彼氏いるんですか。」
日和は、目を伏せた静かな面持ちで、震える声で、そう訊いた。
「ああ。うーん。」
一瞬考え込んだようにみえた青唯は、けれどあっさりと答えを出した。
「いるよ。」
「・・何人?」
青唯は朗らかに笑い出した。いっそ憎らしい程に。
「とっても可愛い彼女なら、一人だけいるよ。」
日和は、悔しかった。男なんかに勝てない自分が、悔しかった。
「どうして。」
「日和が、いい女だから。」
それは、日和が表面上聞こうとしたどんな問いの答えよりも、的を射ている、というべき答えだった。
「青唯さんは、いい女だけど、可愛くない。」
「じゃあ、キレイ?」
「綺麗でもない。」
「ひどいな。」
「でも、真っ直ぐ過ぎて、切なくなる。光に縋りたくなるみたいに、追わずにはいられないの。たとえ全部手に入れようとしていても、でも、一番以外は切り捨て方を、全部知っていて、だから、ちっとも欲張りじゃなくて。知る前に、知りたいと思う前に、思わず触れているの。あなたの『揺らめき』なんか、怖くない。」
日和は、自分でも不思議な程、淡々と話した。言葉にすることで、青唯の扉に、少しでも近づけたら。そんな思いがあった。
「怖くない、か。確かに、そんな風に言ってくれるの、日和だけだね。」
お姫様は、大事にしなくちゃ。耳元で囁かれた言葉には、不満のある日和だったけれど、その包囲された感覚と圧迫感に、言いようもない幸せを感じていた。




