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かげろう  作者: 紫石 透
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 日和の日常は、少しだけ変わった。好きでもないジャズのCDを聴きながら、愚にもつかぬ戯言をノートに書き散らす。筆の進みにムラがあるのと、時折体調を崩すのは今まで通り。その日は、課題を終えてから迎えまで、少し時間があった。


 遠慮がちなノックの音に、青唯は口角をあげた。ベースを床に置くと、怪訝な顔の仲間を尻目にすっとドアを開けた。

「ようこそ、日和。」

「あ、あの。見学したいだけなんですけど、その、お邪魔じゃなかったでしょうか。」

「気ぃ遣わなくていいよ、私が誘ったんだし。その辺の椅子座ってていいから。あ、皆。一年の榎本日和さん。入部希望とかじゃないけど、見学者歓迎でしょ?」

 青唯のことばから一拍おいて、ドラムやギターが唸りをあげた。

「紹介とか面倒だし、とりあえずセッションやらない?」

 そこから先は、日和にとっては未知の世界で、耳の痛さに慣れるころには、弦の振動を巧みに操る青唯の手に、全身を撫でられているような、妙な陶酔感を覚えていた。


「青唯さん、よかったら今度の土曜日、買い物に行きませんか?お礼したいし、その、ジャズのCDとか教えてほしくて。」

「いいよ。じゃあ私、車で迎えに行くからさ、港のショッピングモール行こうか。日和、行ったことある?」

「ないです。すごく楽しみ。」

 青唯が車好きだと知った日和は、それについては異議を唱えなかった。車によっては酔うことがある日和も、丁寧な彼女の運転を気に入っていた。


「今日は、どうだった?」

「本当に、楽しかったです。こんなに長いこと外にいるのも、全然熱でないのも初めてで。」

「それはよかった。」

 青唯はにやりとした。

「日和が走るとこ見るなんて思わなかったよ。」

「それは青唯さんが急にいなくなるから、吃驚して・・」

「はは、日和って表情より声色が変わるよね。」

「青唯さんは・・」

 陳腐な褒め言葉を飲み込んだ日和は、別に思いついた意趣返しを口にした。

「青唯さんのしかめっ面だって、初めて見ました。」

「そりゃ日和があんなもの寄こすから。」

「ストロベリーアイス、おいしかったのに。」

「こら、今日はお礼だって誘ってくれたんじゃなかったかな?」

 日和は声をあげて笑った。こんなのは、本当に初めてで、けれどそこに戸惑いはなかった。それだって青唯が教えてくれたのだ。日和は知っているはずだよ、心地よくいられる方法を。突き詰めて、今に素直であればいいのさ、と。

「そろそろ送ってくよ。」

 その瞬間日和は、寂しさと、言いようのない熱を感じた。

「もうちょっと。青唯さん、まだ一緒にいたい。」

 青唯は呆れたりしなかった。海の方を向きながら、日和に流し目を送った。

「乗りなよ。ドライブして、それから帰ろう。」

 青唯の犬歯は、少し大きく、内向きだった。日和は自分の少し荒れた腔内を気にしながら、その鋭さに、唇が震えるのを感じていた。


「ねえ青唯さん、上がって行って。」

 はしゃぐ日和に、遠慮がちな声がかかった。

「御嬢さん、今。」

 直に複数の足音が近づいてきた。青唯は一歩下がり、顔を伏せた。


「これは御嬢さん。こんばんは。」

「・・こんばんは。」

 消え入りそうな声で、日和は言った。きちんと顔をあげ、目線を合わせるまでは礼儀でも、青唯の言うとおり、日和の声はそのまま感情だった。

「お友達とお出かけですか?元気になられたようで何よりですね。」

 それは健康な女として、しかるべきところへ片付けという意味かと邪推して、日和はすぐにその考えを打ち消した。今までもこれからも、自分がその手の期待をされることはあり得ない。

「はい。少しは良くなりました。」

 曖昧に笑うにとどめた。男の視線が青唯に向かうのをみて、日和は思わず肩に力を込めた。

「しかし、お出かけの際は何人かお連れになった方がいい。最近は落ち着いているとはいえ、物騒なことはどこにでもありますから。」

 日和の耳に、男の最後のことばは入らなかった。隣ですっと背筋を伸ばした青唯の立ち姿に、日和は見とれていた。

「確かにおっしゃる通りですが。日和さんは自分の足で歩きだしたのですよ。私が共にいる限り、誰にも傷つけさせません。」

 美しい黒髪が、日和の脇で揺れた。

「差し出がましいことを申しました。日和さんと同じ大学の二年、日下部青唯と申します。」

 男たちは頭を下げたままの青唯の横を通り、発進前にようやく返答は返された。

「朝岡だ。御嬢さんをよろしく頼む。」


 少しざらりとした縮緬生地の上着は、頬に押し当てると糊のきいた匂いがする。日和は誘惑されている己を自覚した。

「青唯さん、ね、お願い。」

「だめだよ。これから仕事だから。」

青唯の手が、くせのある髪を、ひどくゆっくりと梳いていた。

「こんな時間から?」

「そ、こんな時間から。」

「家庭教師、とか。」

 上を向いた日和の、心底不思議そうな顔を見て青唯は笑った。

「違うよ。ホステスのバイト。」

 驚いた日和の、半開きになった口を、ねっとりとした風が通り抜け、夜の街へ消えていった。


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