一
この小説は同性愛、ガールズラブ要素を含みます。
不快感を示される方、十五歳未満の方はお戻りください。
ゆっくりと息を吐く。一、二。数えながら、呼吸を整える。大丈夫、ただの眩暈だ。このところ、おさまっていたのは緊張ゆえか。無意識にも緊張が緩む程度には、私もここに慣れたということだろうか・・。
壁に手を当ててそろりと立ち上がりながら、日和は目の前に続くクリーム色の廊下を眺めた。ここに入学して早一か月。環境は変わったが、自分は変わらない。そこに危機感はなく、苛立ちより安堵が勝っていることは自覚済みだ。
体調不良を実感した日和は、図書室での自習を取りやめ、早々に帰宅しようと踵を返した。その瞬間、歪む視界。しまった、急に動きすぎたか。壁に縋ろうにも広い廊下の中央に向かって傾く体に制御はきかず、中途半端に片手を突き出した状態で倒れこむ。グキッ。半ば予想できた、嫌な音が響いた。
「あら?発作でも起こした?」
図書室の扉の開閉音の後、女の声と駆けてくる足音が聞こえた。右手を下敷きにして倒れたままの日和の視界に、影が差した。
「息は、大丈夫そうだね。立てそう?」
女の問いに、日和は黙って頷いた。
日和は驚いていた。肩を貸して日和を立ち上がらせた女は、そのまま負ぶって歩き出したからだ。
「大丈夫ですか。」
「それはこっちのセリフだよ。変な体勢で倒れこんでるし、吃驚した。私は大丈夫。これでも介抱は慣れてるから。」
日和を背負っても途切れることのない落ち着いた口調で、女は歯切れよく返事を返した。どこかからかいを含んだような、艶のある声であった。
「ここは?」
「ジャズ研の部室。今日は休みだから、静かでしょ。医務室だと遠いし。」
日和は再度頷いた。新入生とはいえ、医務室の場所は把握している。確かに図書室からは距離があった。
女は日和をソファーに降ろすと、てきぱきと動いた。水を差しだされた時初めて、日和は女の顔を眺めた。顎のシャープなラインを縁取るようにカットされた黒髪。細面というよりは、丸顔に近い。二重の目の奥には、意思の強そうな瞳。どこか飄々とした雰囲気の美人であった。
女の手つきは、確かに手馴れていた。眩暈がするという日和をそっと寝かせ、捻挫したらしい右手首を冷やして固定した。
「今日はまだ、授業ある?」
「いえ、ないです。」
「そっか。私車なんだけど、ついでだし病院まで送ろうか?」
「いえ、そんな、そこまでしていただくわけには。」
「ついでだって。でも、家のほうがいいならそっち送るけど。遠いの?」
日和が困った顔でだいたいの住所を告げると、女は少し黙った。
「ごめん。そういえば、自己紹介してなかったね。私は法学部二年の、日下部青唯。あなたは?」
「手当までしていただいたのに、こちらこそすみません。文学部一年の榎本日和です。」
青唯は腑に落ちた、という顔をした。
チャリンと音がして、右手の鍵が左手に移る。悪戯っぽい笑みに、日和はどきりとした。
「送ってくよ。車回してくるから、ちょっと待ってて。」
日和は弱弱しく笑った。
「本当に、ありがとうございます。」
たとえ小さくても、苛立ちがあったのは本当だ。
再び青唯に背負われて、彼女の車まで運ばれた後、後部座席に横になった。
「だいぶ、楽になりました。」
「そう。なら、先にうちの人に連絡しなよ。急に帰っても吃驚させるでしょ。」
日和は左手でメールを打った。
『いつもの眩暈で倒れました。親切な先輩が介抱してくださった上、送ってくださるそうです。だいぶ楽になったので心配しないでください。』
すぐに電話が鳴った。ぽつぽつと話した後、日和は困った顔で、青唯に電話を渡した。日和の心配とは裏腹に、青唯は平然と会話をする。五分後、車は日和の家に向けて出発した。
日和が目を開けると、そこには見慣れた医師、坂部の姿があった。
「先生。・・今、何時?」
「五時過ぎだよ。熱はないし、手首もたいしたことなかった。気分はどう?」
「もう大丈夫です。あの、先輩は?」
「先輩?ああ、付き添っていたあの子なら、まだあっちの部屋にいると思うけど。」
日和は内心青ざめた。それではここがどういう場所か分かってしまっただろう。大学に入って初めて、あんなふうに話しかけてくれたあの人に。
「先輩に・・先輩に、お礼言わなきゃ。」
何を言ったらいいだろう、とにかく、今すぐ会って、それから。
「ちょっと待って。それなら呼んであげるから、落ち着きなさい。」
坂部の窘める声も聴かず、身を起こそうともがいたとき、トットッと、軽やかなリズムが刻まれた。
「あ。」
すっとあいた扉から、あの笑んだような深い声がした。
「もう大丈夫そうだね。良かった。」
春が来たと、日和は本気でそう思った。
「あの、私、だますつもりも隠すつもりもなくて。」
その人は穏やかに笑った。人間の笑顔というのは不思議だ。どうして顔が崩れるのに、こんなにも美しく見えるのだろう。
「自己紹介の時から、知ってたよ。」
「ならなんで、送ってくださったんです。」
その人の細い指が、日和の乾いた唇をなぞる。小さな渦が、無数に背筋を揺蕩っては消えた。
「下手にこじ開けるような真似さえしなけりゃ、開けちゃいけない扉なんてないんだ。そこにいることに違和感を覚えたらね。時には自分が合わせ、時には空間を馴染ませる。いいかい、日和。フニャフニャの南京錠なんて、誰の役にも立たないんだよ。」
怖さの有無など、問題ではなかった。けれども、本当はずっとあいていた扉に、気付いてくれたのはあなただけだった。
「先輩。」
形を変えるたび、その唇は鮮やかさを増した。
「青唯って呼びなよ。」
「・・青唯さん。」
「ん?」
「ありがとう、ございます。」
渦は強く激しく、深くなって日和の心を抉る。こんなに熱いものは知らない。青唯さんの冷たい唇が、私の熱で、溶けてしまえばいい。きつく閉じた瞼の裏で、日和は願い、夢想した。




