五
枠なのか、柵なのか。・・鎖、なのか。
ステンレスの窓枠へ向けていた目線を、つと講義中の教授へと流す。スクリーンいっぱいのパワーポイントの画像は時折小刻みに揺れ、苛立っているのか教授はペンライトを執拗に振り回していた。
「どうしたんです。」
「機材の調子が悪い。院生は遅刻する、学生はいびきをかく。」
青唯はにやにやした。
「随分ご機嫌斜めですね。国が全面敗訴したからですか。」
「あんなのは、国民に対する冒涜だ。」
教授は唸って、ペンライトを鞄に放り込んだ。
「法ってのは、へいこらしちゃいかん。毅然としておらねば、ならんのだ。」
「そんなこと、おっしゃってもね。へいこらした法律家が作るんだから。」
教授は葵の手を掴んで、ずい、と顔を寄せた。
「何をいっとるんだね。まあ、君はそのままで悪くない。しかし君のは、毅然を通り越して過激だな。」
眼鏡越しに、教授の目やにが見える。青唯は、こういうバカみたいな情熱が結構好きだった。
「過激ですか。」
青唯は教授の眼鏡を押し上げる。外すのは、面倒くさい。臀部を下降する、指先がぎこちない。どうせ一晩中キーボードを叩いていたのだろうと、青唯はひっそりと笑った。
「今日は、研究室にお邪魔しても?」
「構わんよ。むしろ、万年遅刻魔がテンパッとるのを手伝ってやってくれると助かる。」
「山上さん、コーヒー置いときますね。」
「ありがと。」
山上専用のカップ、倒しても中身の零れない優れもの。欠点は、情緒がないことだ。
「青唯ちゃーん。日付がぐちゃぐちゃになっちゃったのよ。・・手伝って?」
いくら優秀だろうが、管理能力が破壊的な時点で終わっている、と青唯は思う。国家試験にも受からずふらふらするこの人の手綱を曲がりなりにも握っている教授は相当懐が深いに違いない。
「データ管理ソフト、いじるとこまではやりますからその後は自分でやって下さい。」
「助かる!ありがと。」
ストローを加えながら山上は微笑んで見せた。
「お礼は、今夜家ってことでいい?」
「あ、遠慮しときます。」
「えー何、そういう相手でもできたの。」
「まあ、一応。」
山上はカップを倒した。もちろん書類は無事だったが、衝撃で一枚、床に落ちた。
「お礼はレポートの資料紹介ってことで、手を打ちますよ。じゃ、今度よろしく。」
エンターキーを叩くと颯爽と出て行った青唯を見送ってようやく山上は覚醒した。書類を拾いながら考える。
―もしかして、照れてたの?!
「研究室ですか?」
「そ。まあ一、二年のうちは何にもできないけど、顔ぐらいは覚えてもらえるよ。」
目的を問えば、きっと青唯は暇だから、なんて言って笑うだろう。偶然覆いの一部が捲れるのを見たように、むずりとする。
「・・私も。行ってみようかな。」
見栄か対抗意識か分からないが、するりと自分の口から出たことばに日和は驚いた。他人に関わることへの抵抗感ばかりか、いつも言い訳にしていた己の病弱さを、忘れていた。
「なんだ。ちゃんと見てるんじゃん。」
青唯に驚いた様子はない。どころか、なぜか得意げに笑っている。日和は、なんだか一緒に嬉しくなった。
「そんなんじゃ、ないんです。ただ、今日が続けばいいと思うだけで。書き続けられればと、思うだけで。」
「私にも、読ませてくれる?」
囁くようなお願いに、日和は目を瞑る。
「なら、いっぱい勉強して、いっぱい先生から盗んで、それから。」
青唯は、赤くなった日和の頬を楽しげに突いている。ああ。日和はじんわりと理解する。
「だけど。私は、あなたを書きたい。」
ことばの責任は、自分でとる。その覚悟は、静かに、深い。毎日ペンを握る瞬間に繰り返してきた、決意。
青唯の呆然とした顔が、やがて満面の笑顔に変わる。
「それなら。お互いのことを、もっと知らなくちゃ。」
私も?そう、人間関係は、相互作用だから。
選んだのか、選ばれたのか。見て、聞いて、感じたい―好奇心の間に、渦を巻く欲望が大きくなって、やがてすべてを、飲み込んでいく。
人は、多かれ少なかれ他人の不幸の上に幸福を築いている。それは純然たる事実だと、日和は信じていた。町外れの路地、木枯らしが通り抜けた後剥き出しになったコンクリの舗装、視線をずらせば吹き溜まり。落ち葉もゴミも一緒くたになって、暖を取るかのように丸まっている。ときどき、かさりと音がして。枝を離れた枯葉が、落下してそのまま加わることもある。自分が育ったのはそういう所だと日和は思った。良くも悪くも、見た目ほど冷たくはない。
再び枝に戻り、色付くことはできなくても。一歩を踏み出すことは、さほど難しくはない。風を、再び訪れた小さな木枯らしの声を今、確かに感じているのだから。
「おじいちゃん。」
「どうした。」
「今日ね、これから出かけるから。」
「そうか。日和も元気になったな。だが、無理はせんようにな。」
「うん、わかってる。」
無理のし時なんだけど、と日和は心の中で呟く。それでも、おじいちゃんの言うことは正しくて、どんなに焦っていても、今を楽しむことが最優先だ。
日和は考える。青唯は、ただ歩くだけで身を翻す。別段大層なんではない、そうしなければ歩けないところを歩いているからだ。右耳で清流のせせらぎを聞き、左耳で業火の爆ぜる音を聞く。まるで、淵を辿るかのような、日和には思いもつかなかったような、人生。
だから、確かにそれは衝撃ではあったけれど。多分、人生の転機としては、出会いのインパクトの方が強かったと日和は思う。既定の行為は、今でなくてもきっと、いつか誰かと経験しただろうから。ただそれが青唯であったことは、単純に、嬉しい。
「可愛いよ、とっても。それに、綺麗だ。」
「信じますよ。」
「いいよ。そしたらもっと、綺麗になるから。」
穏やかだった。狂気めいた光はなく、彼女がここを内側だと認識していることを、窺わせる。飲み込まれる自分を、日和は硝子越しに眺めている。揺られ、象られ、色付いて見える自分を、青唯と一緒になって、愛でている。
潜ってみなければ、海の冷たさは分からない。けれど、どんな嵐のときも雲の上、海の底には穏やかな世界が広がっている。見えないけれど、確かな事実。
日和はそこにある、青唯の穏やかさを、愛した。
本編完結です。ありがとうございました。




