2.過去の幽霊たち
その男の名前は、健太郎。三十四歳、IT系の企業でマネージャーをしているらしい。 知り合ってから三回ほど飲みに行ったが、付き合うでもなく、かといって友達というわけでもない、まさに「どっちつかず」の象徴のような関係だった。
『結衣ちゃん、今週もお疲れ。土曜、急に暇になったんだけど、午後からぶらぶらしない? 夜、美味いビストロ予約できるかも』
木曜日に届いた誘いを、私はまだ開いたままにしていた。土曜の午後を彼に空けるべきか、予定表と画面を見比べた。
彼に会うなら、金曜の夜に服を選ぶだろう。仕事の資料はそのあとになる。そう考えたところで、私は予定表を閉じた。
「……もう、こういうの、本当にいらない」
声に出すと、不思議なほど冷えた感情が胸を占めた。 健太郎だけではない。私のスマートフォンの中には、こうした「過去の幽霊」たちが、何人も住み着いている。
数回デートしただけで、いつの間にか連絡が途絶えた男。 たまに「生きてる?」とだけ送ってくる、元カレ。 マッチングアプリでマッチングし、当たり障りのない挨拶だけを交わして放置されている、名前も顔もよく覚えていない男たち。
先週、焼き鳥の誘いを断った誠司さんも、その列に加わりかけていた。彼は何も悪くない。ただ、返事を待つ側に戻りたくなかった。
私はトーク履歴を上へ送った。返事を待って何度も開いた画面が、そこに残っていた。
私は、スマートフォンの連絡先を開いた。 そして、上から順番にスクロールしていく。
健太郎の名前の上で、指が止まった。
健太郎の連絡先を選び、「削除」のボタンをタップする。 『本当に削除しますか?』 画面に現れた警告文に対し、私の指は一切躊躇しなかった。ポップアップが消え、健太郎の名前が私の世界から消滅した。
続いて、トーク履歴を開く。 過去の男たちとの、他愛のない、そして今となっては寒々しいやり取りの数々。 『今日楽しかったよ。また行こうね』 『仕事忙しい? 落ち着いたら連絡して』 そんな、約束されることのなかった未来の言葉たちを、私は次々とゴミ箱へと放り込んでいった。
連絡先とトーク履歴を消し終えると、私は画面を裏返した。
ただし、アプリを削除しただけでは退会にならない。パソコンのブラウザから二つのサービスにログインし、プロフィールに書いた「お互いに高め合える関係」という一文を最後に読み返した。
私は退会の確認画面を見て、一度だけ息を吐いた。
退会ページを開き、確認画面に従って手続きを進めた。有料プランの解約状況も別に確かめてから、最後のボタンを押した。
もう一つのサービスも同じように退会した。手続き完了のメールを確認し、受信箱を閉じた。
テーブルに置いたスマートフォンは静かだった。私は友人の香織からの履歴を見つけ、消さずに残した。
誰にも予定を合わせない土曜日ができた。自由になったはずの時間を、どう使えばいいのか、まだ分からなかった。
窓の外で車が通り過ぎた。私はカーテンを閉め、翌朝の洗濯のために目覚ましをかけた。




