第2章:断捨離の夜 1.深夜の静寂と、冷えたハーブティー
二人からの食事の誘いを断った夜、帰宅したのは午前零時半を過ぎてからだった。
部屋の明かりをつけずにベッドへ腰を下ろす。窓から差す街灯の光が、床に細い線を引いていた。
「……はぁ」
私はジャケットをソファに掛け、窮屈になったスカートのホックを外した。暗い窓に映った自分を、しばらく見ていた。
キッチンに立ち、電気ケトルに水を注ぐ。お湯が沸騰する単調な音を聞きながら、私はティーバッグのストックからカモミールティーを選んだ。かつて「不眠に効く」とネットのコラムで読んで買ったものだが、賞味期限はとうに切れているかもしれない。
マグカップを両手で包み込み、ソファに深く腰を下ろす。温かい湯気が顔を包み込む。 一口すすると、独特の青臭い香りが鼻腔を抜けた。
着信音が鳴った。画面には、大学時代からの友人、香織の名前。
「まだ起きてる?」と電話に出るなり聞かれた。
「そっちは?」
「明日の資料、さっき閉じたところ。声が変。何かあった?」
私はカップを持ち直した。「今日、食事に誘われたの。二人から」
「へえ。で?」
「断った。仕事が忙しいから」
「本当にそれだけ?」
窓に映る自分の顔を見た。灯りをつけていないので、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。
「昔みたいになるのが怖かった」
香織はすぐには答えなかった。向こうで椅子の脚が床をこする音がした。
「断るのは自由よ。でも、断った相手のせいで仕事が壊れるって、まだ何も始まってないのに決めつけてない?」
「違う。私の問題なの」
「それならなおさら、仕事だけに全部預けるのも危ないんじゃない」
「今日は説教を聞く気分じゃない」
「分かった。じゃあ寝なさい。続きは、結衣が話したくなったら聞く」
通話が切れたあと、私は温くなったお茶を飲んだ。香織の言葉は気に入らなかった。それなのに、すぐ消えてはくれなかった。
私は冷めたお茶を流しに捨てた。高橋に仕事の進行表の変更理由を聞こうかと思い、画面を開いて、閉じた。
会議室を出るとき、高橋は何か言いかけていた。佐々木先輩は手を引っ込めた。その二つの仕草だけが、あとから思い出された。
二人の誘いを受ければ、仕事の話を口実に食事へ行くこともできた。私は冷めたお茶の表面を見つめた。
断ったあとも、肩の力が戻らなかった。
高橋から連絡が来たら、私は何度も画面を確かめるだろう。明日の資料のことを考えようとしても、さっきの会議室が頭から離れない。
「もう、絶対に繰り返したくない」
マグカップをテーブルに置く。手のひらに残った熱が、じわりと冷めていくのを感じながら、私は二十九歳の秋の記憶を反芻していた。
あの頃の私は、広告代理店に入って七年目で、ようやく大きなキャンペーンを任されようとしていた。同時に、三歳上の商社マン・一樹との結婚を信じていた。一樹は「自立した女性が好きだ」と言いながら、私が忙しくなると露骨に不機嫌になった。「結衣はいつも仕事ばっかりで、俺の優先順位が低いよね」。それが怖くて、私は大切な打ち合わせを後輩に譲り、彼の休みに合わせて有給を取った。
結果として、キャンペーンは小さなミスが重なって失敗に終わり、私は担当を外された。 そしてその数週間後、一樹からは「なんか、最近の結衣って必死すぎて重いんだよね。もっと楽に付き合える人と結婚したい」と、一方的な別れを告げられた。
担当を外されたあと、一樹から別れを告げられた。夜になると、返信のないスマートフォンを手放せなかった。
「私は不器用なんだ。一つしか、選べない」
私はカップの底に残ったお茶を飲み干した。次に時間を使う相手は、自分で決めたかった。
私はソファから立ち上がり、床に転がっていたバッグからスマートフォンを取り出した。 画面を点けると、深夜だというのにいくつかの通知が入っている。
さっき、私が拒絶したはずの二人からのメッセージはなかった。さすがにプロのビジネスマンとして、空気を読んでいるのだろう。 代わりにあったのは、数か月前に、共通の友人の紹介で知り合った男からの、煮え切らないメッセージだった。




