5.胎動
六月が近づくころには、朝いちばんにオフィスへ入り、終電で帰る日が続いた。休日も資料を開くようになった。手帳の余白には、会う約束よりも締め切りが増えていった。
提案の切り口が評価されるたび、私は資料に次の修正を書き足した。「大月さんの言葉には現場の温度がある」と担当者に言われた日の帰り道、駅の階段で足が止まった。
そして、外見にも変化が現れ始めていた。 「恋を諦めた」からといって、身なりを構わなくなったわけではない。むしろ、仕事に責任を持つようになってから、より洗練された服を選ぶようになった。 無駄な装飾を削ぎ落とした、上質なテーラードジャケット。歩くたびにカツカツと心地よい音を立てる、黒のハイヒール。 「最近の大月さん、なんか雰囲気が変わったよね」 「前はもっと、どこか自信なさげだったっていうか。今はすごく……眩しい」
給湯室で後輩たちが私の服装を褒めているのが聞こえた。鏡の前で襟を直し、引き出しの鎮痛薬を取り出そうとして、残りが少ないことに気づいた。
午後、ルミナス化粧品との合同定例会議に向かった。会議室には、先方の各部門の担当者が集まっていた。
「大月さん、お疲れ様です。今日の資料、拝見しました。素晴らしい切り口ですね」
会議室に入ると、すでに席に着いていた男性が、私を見て爽やかに微笑んだ。 高橋遼。ルミナス化粧品側の宣伝部に所属する、二十九歳。 若くして今回のプロジェクトの窓口を任されている、社内でも期待のエースだ。端正な顔立ちと、誰に対しても丁寧で、それでいて芯のある仕事ぶりが、社内の女性陣の間でも密かに話題になっている男だった。
「あ、高橋さん。ありがとうございます。そう言っていただけると、徹夜した甲斐があります」
私は手元に資料を並べながら、プロの顔で笑ってみせた。
「本当に、大月さんのエネルギーにはいつも圧倒されます。僕も負けていられないなって、いつも刺激をもらってるんです」
高橋の視線がこちらに向いた。私は資料の端をそろえ、次のページを開いた。
「……ありがとうございます。さあ、始めましょうか」
私はあえてその視線から目をそらし、会議の進行を促した。 心臓が、ほんの少しだけ、おかしなリズムを刻んだのを無視しながら。
会議は、熱を帯びたまま二時間で終了した。 解散となり、人々が席を立つ中、高橋が私の元へ歩み寄ってきた。
「大月さん、もしよかったら、この後、少しお時間ありませんか? 次回のプロモーションの方向性について、個別に少し詰めたいところがありまして……」
「ええ、いいですよ。じゃあ、ミーティングスペースで――」
「いえ」 高橋は私の言葉を遮るように、少し声を低くした。 「もしよければ、場所を変えて、食事でもしながら……どうでしょう? もちろん、大月さんのご都合がよければ、ですが」
高橋は資料を閉じたまま、私の返事を待っていた。
私はペンを握り直した。食事の誘いだと分かるまで、少し時間がかかった。
(え……?)
驚く私を置いていくように、会議室のドアが開いた。 「大月、ちょっといいか?」 入ってきたのは、営業部の先輩であり、今回のプロジェクトの統括でもある佐々木さんだった。三十六歳、独身。社内でも頼れる兄貴分として人望の厚い人だ。
「佐々木さん、どうしました?」
「いや、ルミナスの件、第一関門突破ってことで、今夜さ、美味い日本酒がある店に行かないか? 二人できちんと、今後の戦略について祝杯を挙げつつ話したいと思ってさ」
佐々木先輩は、私の肩をポンと叩き、親しげに笑いかけてきた。その目もまた、仕事仲間としての枠を超えた、温かい色を帯びていた。
高橋と佐々木先輩が、並んで私を見ていた。私は二人の間に置かれた資料へ目を落とした。
「今夜は」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。少し前までの私なら、どちらの顔も立てようとしていただろう。
一樹との約束のために仕事の予定を動かした夜が浮かんだ。資料を持つ手に汗がにじむ。
(今は、仕事を優先したい)
私は資料を抱え直した。
来週のプレゼン資料が、まだ仕上がっていない。
「――すみません」
私は二人から半歩離れた。声は思ったより硬くなった。
「お二人とも、せっかくのお誘いですが、今夜は失礼させていただきます。まだ、来週のプレゼン資料のブラッシュアップが残っていますので。仕事とプライベートの混同は、今は避けたいんです」
高橋の目が見開かれ、佐々木先輩の笑顔が固まる。 二人の男性を会議室に残したまま、私は資料を抱え、踵を返して足早に部屋を出た。
廊下に出ても、胸のざわつきは消えなかった。
「私は、間違ってない」
私は閉まった会議室のドアを振り返らずに歩いた。断る前より足音が大きい。手の中の資料の角が、掌に食い込んでいた。
エレベーターを待つ間にルミナスの進行表を開くと、私の知らない変更が一行加わっていた。更新者は高橋遼。さっき断ったばかりの相手だった。画面を閉じると、磨かれた扉に自分の顔が映っていた。




