3.宣戦布告
翌週の月曜日。五月の空は明るかった。私はいつもより三十分早く出社し、会議の資料を机に並べた。
午前九時半。毎週恒例の、企画部の全体会議が始まった。 会議室の重苦しい空気の中、部長の岩本が、ホワイトボードの前に立った。岩本は五十代半ばの、典型的な数字至上主義の人間だ。
「えー、周知の通り、我が社の長年の大口クライアントである『ルミナス化粧品』が、この秋、全面的なブランドリニューアルを行う。それに伴い、プロモーション全体のコンペが行われることになった」
会議室に、小さなどよめきが走った。 ルミナス化粧品。女性向けのスキンケアブランドとして確固たる地位を築いている老舗だが、近年は海外ブランドやSNS発のプチプラブランドに押され、苦戦を強いられていた。今回のリニューアルは、まさに会社の命運をかけた一大プロジェクトだ。
「今回のコンペ、我が社としても絶対に落とせない。予算規模も大きいが、それだけに求められる完成度も高い。競合は、業界大手の電報堂だ」
電報堂。その名を聞いただけで、同僚たちの顔が曇る。誰もが「勝てるわけがない」と、心のどこかで諦めの色を浮かべていた。
「このプロジェクトのメインプランナーを募りたい。正直、かなりの激務になる。夏までの数か月間、土日返上は当たり前、徹夜も覚悟してもらうことになるだろう。誰か、立候補する者はいないか?」
岩本の鋭い視線が、会議室を一周する。 誰もが目を伏せ、書類に目を落とした。美穂は、結婚準備があるから当然のように気配を消している。他の同僚たちも、リスクと激務を恐れて、誰一人として手を挙げようとしない。
会議室が静かになった。私は机の下で握っていた指を開いた。
(今だ。ここで手を挙げなきゃ、私は一生、代わりのきく中途半端な人間のままだ)
土日返上と言われ、隣の後輩がうつむいた。私にも無理はある。それでも、手を挙げたいと思った。
私は、深く息を吸い込み、右手をまっすぐに突き上げた。
「――岩本部長。私に、やらせてください」
静まり返った会議室に、私の声が明瞭に響いた。 一斉に、周囲の視線が私に集まる。驚き、困惑、そして「正気か?」というような憐れみの混じった目。美穂にいたっては、信じられないものを見るかのように目を見開いている。
岩本も、少し意外そうな顔をして私を見つめた。 「大月か。お前の熱意は買うが、本当にわかっているな? これは、これまでの案件とは規模も責任も違うぞ」
「わかっています」 私は岩本の目を真っ直ぐに見返した。 「ルミナス化粧品のコアターゲットは、三十代の働く女性です。今の彼女たちが何を求め、何に悩み、どんな言葉に救われるのか。それを一番リアルに提案できるのは、同じ世代である私しかいないと思っています。本気で、やります」
私の言葉には、一切の迷いがなかった。その迫力に押されたのか、岩本は小さく頷き、ホワイトボードの横に私の名前を力強く書き込んだ。
「よし、メインプランナーは大月に任せる。サブには若手を数名つける。大月、期待しているぞ。我が社の命運をお前に預ける」
「はい! ありがとうございます!」
会議室を出るとき、背中に同僚たちのヒソヒソ声が刺さるのが分かった。 「大月さん、急にどうしちゃったの?」 「三十三歳で、いよいよ焦って仕事に生きることにしたのかな」 私は聞こえないふりをして、席に戻った。
席に戻ると、すぐに資料の山に取り掛かった。 ルミナス化粧品の過去五年の売上データ、競合他社のプロモーション動向、ターゲット層の消費者動向レポート。 パソコンの画面に向かう私の指先は、驚くほど軽やかだった。 これまで、どこか冷めていた自分の仕事に対するエンジンが、爆音を立てて回り始めたのが分かった。




