2.夜の部屋、スマートフォンの光
五月の夜風は、火照った肌に少し冷たかった。 金曜日の夜の街は、解放感に満ちた人々で溢れている。楽しげに笑い合うカップル、大声で肩を組み合うサラリーマンたち。その喧騒をすり抜けながら、私は地下鉄に乗り込み、世田谷区にある賃貸マンションへと帰路を急いだ。
駅から徒歩八分。築十二年、ワンルーム。 ドアを開けると、一週間分の生活感が漂う、少し乱雑な空間が私を迎えた。 脱ぎ捨てたストッキング、机の上に置きっぱなしのマグカップ、積まれたままのファッション雑誌。 かつては「丁寧な暮らし」に憧れて、観葉植物を飾ったりもしたけれど、今やそのパキラの葉は、手入れを忘れて黄色く枯れかけている。
「ただいま……」
誰もいない部屋に、ぽつりと声を落とす。 バッグをソファに放り出し、メイクも落とさずにベッドに倒れ込んだ。天井の白い壁を見つめていると、さっきの美穂の薬指の輝きが、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
ポケットの中で、スマートフォンが振動した。 淡い期待を抱いて画面を開く。しかし、通知はマッチングアプリの運営からの「あなたにオススメの男性がいます!」という事務的なお達しと、先週二度目のデートをした、メーカー勤務の男性からのLINEだった。
『結衣さん、今日もお疲れ様です! 来週の土曜日、もしよかったら、前に行きたいって言ってた焼き鳥屋さんに行きませんか?』
画面を見つめたまま、私の指は動かない。 その男性、誠司さんは、三十五歳で、優しくて、誠実そうな人だ。条件だって悪くない。けれど、彼との会話を思い返すと、どうしても心が躍らないのだ。 「趣味は何ですか?」「休日は何をしてますか?」 そんな、履歴書を読み合うような会話のキャッチボール。お互いに傷つかないよう、一歩引いたところから探り合うような、大人の、あまりにも計算高い恋愛のステップ。
彼の誘いに返事をしようとして、指が止まった。約束を入れれば、仕事の予定表を何度も開くだろう。その癖を、私はよく知っていた。
二十九歳の秋、結婚を考えていた恋人に合わせて、大きな仕事を手放したことがある。結局、仕事も恋人も失った。細かい事情は、いま思い出したくなかった。
「もう、嫌だな」
天井を見上げた。誰かの返事で一晩の気分が変わる暮らしを、これ以上続けたくなかった。
スマートフォンの画面には、誠司さんへの未返信が残っている。私は仕事用の手帳を引き寄せた。
せめて、次に差し出す時間だけは、自分で決めたい。手帳に書き込んだのは、来週の仕事の予定だった。
恋人の言葉は変わることがある。仕事の成果だって保証されない。それでも、今は自分で責任を引き受けられる場所に立ちたかった。
「恋より、仕事だ」
声に出して言ってみると、不思議と胸のつかえが少し取れたような気がした。 私は起き上がり、ベッドの上に胡坐をかいた。そして、迷いを断ち切るように、スマートフォンの画面を操作した。
誠司さんからのLINEを開く。 『お誘いありがとうございます。ただ、最近新しいプロジェクトに入ることになって、しばらく仕事がかなり忙しくなりそうなんです。せっかく誘っていただいたのに、すみません』 一文字ずつ、丁寧に、けれど拒絶の意志を込めて打ち込み、送信ボタンを押した。
それだけでは足りない気がして、スマートフォンに入っていた二つのマッチングアプリのアイコンを長押しした。「アプリを削除しますか?」という表示に「削除」を選ぶ。退会の手続きまでは、まだ考えられなかった。
待ち受け画面に空白が二つできた。私はそこを親指でなぞった。
「私は、仕事を頑張る」
鏡には、メイクの崩れた三十三歳の私が映っていた。目の下のクマを見つめ、それから洗面台の照明を消した。




