第1章:33歳の足踏み 1.薬指のレリーフ
「――というわけで、私、来年の春に結婚することになりました!」
金曜日の午後六時。オフィスビルの地下一階にある、少し高めのイタリアンバルの個室に、甲高い歓声が響いた。 声の主は、二年前に中途入社してきた企画部の後輩、新谷美穂だ。二十八歳。いつも流行のリップを絶妙な色加減で使いこなし、仕事も要領よくこなす、いわゆる「世渡り上手」な華やかさを持つ女性だった。
彼女が差し出した左手の薬指には、小ぶりだが質の良さそうなプラチナのリングが、間接照明を浴びて上品に輝いている。
「わあ、おめでとう、美穂ちゃん! 相手は? やっぱり例の商社の人?」 「はい! ちょっと気が早いんですけど、式場も押さえちゃって。表参道の……」
周囲に座る同僚たちが、一斉に身を乗り出して祝福の言葉を浴びせる。その中心で、美穂は頬を林檎のように赤く染めながら、幸せの絶頂にいる顔を隠そうともしなかった。
「結衣さん、見てくださいよ。これ、彼がサプライズで買ってくれて」
美穂が、テーブルの向かい側に座る私に向けて、いたずらっぽく薬指を突き出してみせる。
「……うん、すごく素敵。よく似合ってるよ、美穂ちゃん」
私は、自分の顔が引き攣っていないことを祈りながら、精一杯の笑みを浮かべた。嘘偽りなく、おめでたいとは思う。その指輪から目をそらし、私は皿の上の冷めた前菜をフォークで寄せた。
大月結衣。今年で三十三歳。 中堅の広告代理店でプランナーとして働いて、今年で十一年目になる。
「結衣さんも、そろそろ良い報告、期待してますからね? ほら、いつもマメにスマホチェックされてるから、てっきり素敵なパートナーがいるんだと思ってました」
美穂の悪気のない言葉が、胸にチクリと刺さる。 「いつもマメにスマホをチェックしている」のは、決して愛しい恋人からの甘いメッセージを待っているからではない。マッチングアプリの、定型文のようなやり取りを途切れさせないため。あるいは、数回デートしただけで音沙汰のなくなった男からの、奇跡のような連絡を淡く期待してしまっているからだ。
「あはは、私はまだ、そんな予定全然ないよ。今はほら、仕事が恋人っていうかさ」
使い古された、そして自分でもうんざりするほど使い古した言い訳が、口をついて出た。 周囲は「またまたー!」と笑って流してくれたが、その空気すら居心地が悪い。私は乾杯のスパークリングワインを、喉を鳴らして一気に煽った。
美穂の結婚話は、その後もドレスのデザインや新居の場所にまで及び、宴は延々と続いた。 周囲が盛り上がる中、私はときおり相槌を打ちながら、グラスの中の泡を見つめていた。
「結衣さんって、いつも楽しそうですよね」
隣に座っていた営業部の女性が、取り皿を差し出しながら言った。
「そう見える?」
「だって、仕事もできるし、飲み会でも場を明るくしてくれるし。私なら毎日あんなに忙しかったら、機嫌悪くなっちゃう」
「機嫌悪くしたって、締め切りは延びないからね」
軽口に笑いが起こる。私もつられて笑った。笑っているあいだは、誰にも心配されずに済む。
美穂は指輪をそっと外してケースに戻しながら、「でも、私、会社を辞めるわけじゃないですからね」と言った。
「もちろん。美穂ちゃん、今の案件だって頑張ってるじゃない」
「彼には、結婚しても仕事を続けたいって伝えました。最初は意外そうな顔してましたけど、ちゃんと話して」
「……そうなんだ」
「結衣さんは? 何か、今やりたいことないんですか。結婚とかじゃなくて」
私はグラスの縁に指を置いた。大きな案件を自分の名前で動かしたい。そう答えかけて、飲み込む。
「取りあえず、明日の洗濯かな」
また笑いが起きた。美穂は笑わず、「そういうのじゃなくて」と言いかけたが、別の同僚がドレスの写真を見せてと呼んだ。
私は空いた皿を重ねて、店員に渡した。テーブルの真ん中では、まだ誰も見たことのない未来の写真が、スマートフォンの画面を行き来していた。
三十三歳。仕事では後輩の相談に乗ることが増え、私生活では友人から結婚式の招待状が届く。テーブルの向こうで美穂が笑うたび、私はグラスの縁をなぞった。
「三十三歳なんて人生の踊り場よ」と、冗談めかして自分で言ったことがある。上っているのか降りているのか、立ち止まった私には、まだ分からない。
二十代の私は、恋も仕事も頑張っていればいつか形になると思っていた。けれど今、誰かに将来を尋ねられると、つい冗談で答えてしまう。
広告代理店で十一年。案件の穴埋めは任されるのに、企画の最初から最後まで自分の名前で動かした仕事は、まだなかった。恋愛も、数か月続いては途切れた。
美穂の指輪が照明を返す。私は皿の上に残った前菜を、もう一度フォークで寄せた。
「――結衣さん、二次会どうします?」
気がつくと、店内の照明が少し落とされ、お開きの時間になっていた。美穂が、少し酔った目で私を覗き込んでいる。
「あ、ごめん。私、ちょっと明日早いから、今日はここで失礼するね。本当に、おめでとう」
私は財布から一万円札を出し、テーブルに置いた。「お釣りは美穂ちゃんのお祝いの足しにして」と言い残し、逃げるように店を後にした。地下から地上へと続く階段を上る足取りは、ひどく重かった。




