第7話 幽霊の彼女が僕の心臓に住んでいる
『やっと入れた』
僕の胸の奥から
美月の声が聞こえた。
午前四時四十四分。
皮膚の下には
小さな手の形が浮かんでいる。
内側から押されるたび
胸が不自然に膨らんだ。
「美月さん!」
叫んでも返事はない。
もう一度呼ぶ。
すると胸の中で
何かが動いた。
ドクン。
自分の鼓動とは違う
二つ目の音が響く。
僕は洗面所へ走った。
鏡の前で服を脱ぐ。
胸には赤い痣があった。
女性の手の形だった。
昨日まではなかった。
恐る恐る指で触れる。
その瞬間
頭の中に声が響いた。
『触らないで』
僕は飛び上がった。
「美月さんなの?」
『違う』
同じ声だった。
けれど話し方が違う。
いつもの美月は
もっと柔らかく話す。
今の声には
感情がなかった。
『まだ起こさないで』
「誰を?」
返事はなかった。
代わりに
洗面所の鏡が曇り始めた。
白い表面に
文字が浮かび上がる。
『二人目』
僕は息を止めた。
「二人目って何だよ」
文字はすぐに消えた。
その直後
胸の痣も薄くなった。
僕は床に座り込んだ。
夢ではない。
身体の中に
何かがいる。
しかもそれは
美月の声を使っていた。
朝七時。
僕は健太に電話した。
何度かけても出ない。
メッセージを送る。
『昨日はありがとう』
『無事に朝になった』
『少し話したい』
既読はつかなかった。
仕方なく翔太に連絡した。
三回目で電話がつながった。
「もしもし」
「翔太、悠真だけど」
「……誰?」
僕は笑った。
「何だよ。冗談か?」
「いや、誰ですか?」
声が真剣だった。
「高校の同級生だろ」
「高校?」
「健太と三人で
昨日も旅館に行っただろ」
沈黙。
「すみません」
翔太は困ったように言った。
「人違いじゃないですか?」
電話が切れた。
僕は画面を見つめた。
指先が冷たくなる。
もう一度かけた。
今度はつながらなかった。
連絡先を開く。
翔太の名前は残っている。
一緒に撮った写真もある。
なのに本人だけが
僕を覚えていない。
十五年前の男が
言っていたことを思い出す。
『友達が俺を忘れた』
僕にも始まったのだ。
存在が消える現象が。
午前九時。
会社から電話が来た。
上司だった。
「悠真、大丈夫か?」
その声を聞いて
僕は少し安心した。
「はい。すみません」
「昨日も休んだし
無理するなよ」
まだ覚えてくれている。
それだけで嬉しかった。
「明日は出勤します」
「分かった」
電話を切る直前
上司が言った。
「ところでさ」
「はい?」
「お前の社員証
写真が消えてるぞ」
心臓が跳ねた。
「どういうことですか?」
「顔写真だけ
真っ白になってる」
僕は返事ができなかった。
「システムの不具合かな」
上司は笑った。
「明日確認しよう」
通話が終わった。
僕はスマホの
アルバムを開いた。
自分が写った写真を探す。
旅行の写真。
会社の飲み会。
高校の卒業式。
どの写真にも
僕の姿はあった。
ただし顔だけが
少しぼやけていた。
まるでピントが
合っていないようだった。
「嘘だろ……」
そのとき
背後から声がした。
「悠真」
振り返る。
美月が立っていた。
いつもの白いブラウス。
赤い花柄のスカート。
しかし顔色が悪かった。
「美月さん!」
僕は駆け寄った。
「どこにいたんですか!」
「ごめんね」
彼女は俯いた。
「朝まで戻れなかった」
「僕の胸から
声がしたんです」
美月が顔を上げた。
「何て?」
「やっと入れたって」
彼女の表情が凍った。
「それから
二人目って文字が……」
美月は僕の胸に触れた。
そして小さく呟いた。
「もうそこまで……」
「何が起きてるんですか?」
彼女は答えなかった。
僕は思わず
その肩を掴んだ。
「嘘はつかないって
約束しましたよね」
美月の瞳が揺れた。
「……うん」
「だったら教えてください」
長い沈黙。
やがて彼女は言った。
「あなたの中にいるのは
私じゃない」
背筋が凍った。
「じゃあ誰なんですか?」
美月は僕の胸を見た。
「私の身体に
最後まで残っていたもの」
「身体?」
「死んだときに
置いてきたはずのもの」
意味が分からなかった。
美月は震える声で続けた。
「私が死んだ夜
心臓が一つ
なくなったの」
僕は言葉を失った。
「なくなった?」
「うん」
彼女は頷いた。
「誰かが持っていった」
僕は胸に手を当てた。
二つの鼓動。
片方は自分のもの。
もう片方は
誰のものなのか。
「まさか……」
美月は首を横に振った。
「まだ分からない」
その言葉が
余計に恐ろしかった。
僕は深く息を吐いた。
「僕はどうなるんですか?」
美月は僕を見つめた。
「このままだと
少しずつ忘れられる」
「最後は?」
彼女は答えなかった。
「死ぬんですか?」
「……うん」
胸が締めつけられた。
美月は泣きそうな顔で
僕の手を握った。
「でも助ける」
「どうやって?」
「方法を探してる」
僕は笑ってしまった。
「十五年も?」
美月は俯いた。
「ずっと……」
その姿を見て
責める言葉が消えた。
彼女も苦しんでいる。
それだけは分かった。
午後一時。
僕は外へ出た。
美月は昼間の光が苦手で
姿を薄くして
僕の隣を歩いていた。
「どこへ行くの?」
「神社です」
「神社?」
「幽霊の相談なら
神社かなって」
美月が小さく笑った。
「私を祓うつもり?」
「違いますよ」
僕は首を振った。
「一緒に生きる方法を
探したいんです」
美月は黙った。
しばらくして
小さな声がした。
「一緒に……」
僕は頷いた。
「僕が消えるのも嫌です」
彼女を見る。
「でも美月さんが
消えるのも嫌なんです」
美月は立ち止まった。
「悠真」
「はい」
「それって……」
彼女は最後まで言わなかった。
僕も答えられなかった。
ただ
彼女の手を握った。
人通りの少ない道だった。
他人から見れば
僕は何もない空間に
手を伸ばしているだけだ。
それでも構わなかった。
神社に着くと
境内には誰もいなかった。
古い社殿。
大きな杉の木。
風鈴の音が響いている。
僕は賽銭を入れた。
手を合わせる。
どうか
この奇妙な現象を
止めてください。
そう願った瞬間
胸が激しく痛んだ。
「うっ!」
僕は膝をついた。
美月が叫ぶ。
「悠真!」
二つ目の鼓動が
急に速くなった。
ドクドクドク。
頭の中に声が響く。
『ここは嫌い』
あの声だった。
「出ていけ!」
僕は胸を押さえた。
『帰ろう』
「嫌だ!」
『帰らないと』
声が低くなる。
『この女を壊す』
美月が悲鳴を上げた。
彼女の身体が
一瞬だけ歪んだ。
白いブラウスが
黒く染まり始める。
「美月さん!」
僕は彼女を抱きしめた。
すると胸の痛みが消えた。
美月の身体も
元に戻っていく。
彼女は震えていた。
「ごめんね……」
「どうして謝るんですか」
「私のせいだから」
僕は首を振った。
「もう一人で
抱え込まないでください」
美月は顔を上げた。
「僕たち二人の問題です」
彼女の瞳から
涙がこぼれた。
「……ありがとう」
その瞬間
胸の奥で
二つ目の鼓動が止まった。
僕は息を呑んだ。
そして頭の中に
声が響いた。
『その言葉を待っていた』
今度は男の声だった。
僕自身の声。
十五年前の悠真。
『二人になったな』
意味が分からなかった。
『これで条件が揃った』
声が消えた。
僕は美月を見た。
彼女には
聞こえていないようだった。
夕方。
僕たちは帰宅した。
部屋に入ると
美月がソファに座った。
「今日は疲れたね」
「幽霊も疲れるんですか?」
「疲れるよ」
彼女は笑った。
「特に心配するとね」
僕も笑った。
久しぶりに
普通の会話ができた。
僕は夕食を作った。
美月の分も皿を用意する。
食べられないと
分かっていても
彼女は嬉しそうだった。
「悠真」
「何ですか?」
「私、今までずっと
一人だったの」
僕は箸を止めた。
「誰かと話せても
すぐに消えてしまう」
「……」
「でもあなたは
私を見てくれる」
美月は僕を見つめた。
「怖がりながらでも
手を握ってくれる」
僕は何も言えなかった。
彼女は小さく笑った。
「だからね」
少しの沈黙。
「本当に好きに
なっちゃったみたい」
心臓が跳ねた。
「美月さん……」
彼女は恥ずかしそうに
目を逸らした。
「返事は今じゃなくていい」
僕は立ち上がった。
そして彼女の隣に座った。
「僕も」
美月が顔を上げる。
「僕も好きです」
言葉にした瞬間
胸の奥が温かくなった。
「幽霊なのに?」
彼女が聞いた。
「幽霊だからじゃなくて」
僕は彼女の手を握った。
「美月さんだから」
彼女の瞳が潤んだ。
「……ずるいよ」
「何がですか?」
「そんなこと言われたら
離れられなくなる」
僕は笑った。
「離れなくていいです」
美月は僕に抱きついた。
冷たい身体。
でも不思議と温かい。
僕は彼女の頬に触れた。
美月が目を閉じる。
僕たちは初めて
唇を重ねた。
ほんの一瞬だった。
けれど
胸の奥で
何かが大きく動いた。
ドクン。
二つ目の鼓動。
僕は身体を離した。
美月が心配そうに聞く。
「どうしたの?」
「何でもないです」
僕は嘘をついた。
彼女を不安にさせたくなかった。
その夜。
美月は僕の隣で
静かに横になった。
僕は彼女の髪を撫でた。
「おやすみ」
「おやすみ、悠真」
美月が目を閉じる。
僕も目を閉じた。
そして眠りに落ちる直前
胸の奥から声がした。
『おめでとう』
男の声だった。
『これで彼女は
お前から離れられない』
僕は目を開けた。
美月は隣にいた。
けれど
その姿が少し透けていた。
そして
僕の胸の痣が
ゆっくり変化していた。
手の形だった痣が
文字になっていく。
『七人目』
僕は息を止めた。
頭の中で
男が笑った。
『あと一人だ』




