第6話 僕の代わりに死んだ男の告白
「お前は俺の代わりに
死ぬために生まれた」
目の前の男は
僕と同じ顔で笑った。
灰色のパーカー。
右袖の小さな傷。
髪の分け目まで同じだった。
ただ一つ違うのは
男の足元だった。
黒い水が
床に広がっていた。
「何を言ってるんだ」
僕は壁まで後ずさった。
男はゆっくり近づいた。
「俺にも最初は
意味が分からなかった」
「近づくな!」
「怖がるなよ」
男が笑う。
「自分の顔だろ?」
その瞬間
男の右手が伸びた。
僕は反射的に避けた。
指先が壁に触れる。
白い壁紙が
一瞬で黒く変色した。
「お前は何者なんだ!」
男は手を止めた。
「十五年前の悠真だ」
「僕は当時十三歳だ!」
「知ってる」
男は平然と答えた。
「俺もそうだった」
背筋が冷たくなった。
「どういう意味だよ」
「ここに来るまではな」
男は寝室の鏡を指さした。
「俺も普通に暮らしてた」
鏡の表面が曇り始める。
「仕事をして
友達と遊んで
恋人に振られて」
僕は息を呑んだ。
「お盆の夜に
廃旅館へ行った」
まったく同じだった。
「そこで美月に会った」
男は目を伏せた。
「そして恋をした」
鏡の中に
見知らぬ部屋が映った。
僕の部屋によく似ている。
ただし家具の配置が違った。
その部屋で
男と美月が笑っていた。
「これは……」
「俺の思い出だ」
男が答えた。
「お前が見るはずだった
未来でもある」
鏡の中の美月は
男の肩に頭を預けていた。
幸せそうだった。
僕は胸が苦しくなった。
「美月さんは
お前を愛してたのか?」
「愛してたよ」
男は僕を見た。
「少なくとも
俺はそう信じてた」
鏡の映像が変わった。
夜の寝室。
美月が男を抱きしめている。
男の身体は
少しずつ透けていた。
「最初は指先だった」
男が呟く。
「次に鏡の中の顔」
映像の中で
男が洗面台に立っている。
鏡には
首から下しか映っていない。
「そのうち
友達が俺を忘れた」
僕は健太の顔を思い出した。
「最後は母親まで
俺の名前を忘れた」
男の声が震えた。
「でも美月だけは
覚えていてくれた」
鏡の中で
男は泣いていた。
美月がその背中を
優しく撫でている。
「だから離れなかった」
男は笑った。
「離れられなかったんだ」
僕は何も言えなかった。
「それでどうなった?」
男はゆっくり
自分の胸に手を当てた。
「心臓が止まった」
鏡の映像が消えた。
「午前二時ちょうどにな」
僕は時計を見た。
午前二時三分。
「でもお前は
まだここにいる」
「そうだ」
男は僕を見つめた。
「死んだのに
消えられなかった」
「どうして?」
「美月が離してくれない」
男の表情が歪んだ。
「俺たちは
あの旅館に戻される」
「俺たち?」
男は黙った。
その沈黙が
何より恐ろしかった。
「他にもいるのか?」
男は頷いた。
「俺だけじゃない」
寝室の鏡に
次々と男の顔が映った。
全員が僕だった。
学生服の僕。
スーツ姿の僕。
髪の長い僕。
痩せ細った僕。
何十人もの僕が
鏡の向こうから
こちらを見つめていた。
「やめろ……」
僕は目を逸らした。
「何なんだよ、これ!」
男が低い声で言った。
「みんな美月を愛した」
鏡の中の男たちが
一斉に口を開いた。
『そして死んだ』
僕は耳を塞いだ。
その瞬間
部屋の照明が点いた。
鏡が砕けるような音。
僕は床に倒れ込んだ。
「悠真から離れて!」
美月の声だった。
顔を上げる。
美月が僕の前に立っていた。
白いブラウス。
赤い花柄のスカート。
けれどその瞳は
今まで見たことがないほど
鋭く光っていた。
男が笑った。
「やっと来たか」
「帰って」
美月は低い声で言った。
「ここはあなたの場所じゃない」
「俺の場所?」
男は笑い続けた。
「十五年前は
俺にもそう言ったよな」
美月の顔が青ざめた。
「違う……」
「何が違う?」
男は一歩近づいた。
「俺を愛してるって
言っただろ」
美月は唇を噛んだ。
「愛してたよ」
その言葉が
僕の胸に刺さった。
男は満足そうに笑った。
「ほらな」
「でも」
美月は続けた。
「あなたを殺したのは
私じゃない」
男の笑顔が消えた。
「まだそんなことを」
「本当なの!」
美月が叫んだ。
部屋の窓ガラスが震えた。
男は僕を指さした。
「じゃあ教えてやれよ」
「……」
「どうして同じ顔の男が
何人も死んでる?」
美月は答えなかった。
「どうして俺たちは
同じ女に恋をする?」
沈黙。
「そしてどうして」
男の声が低くなった。
「死ぬ前に必ず
あの旅館の写真に
写るんだ?」
僕は息を止めた。
写真。
十五年前の写真に
僕が写っていた理由。
男は僕に向き直った。
「お前ももう
写真にいるだろ?」
僕は頷いた。
「だったら時間がない」
「どういう意味だ?」
「写真に写った時点で
お前の席は用意されてる」
男は床を指さした。
黒い水が
僕の足元まで迫っていた。
「次に消えるのは
お前だ」
美月が僕の手を掴んだ。
「聞かないで」
「でも……」
「お願い!」
その声は
悲鳴に近かった。
僕は彼女を見た。
美月は泣いていた。
「私はもう
誰も失いたくない」
男が静かに言った。
「だったら離せばいい」
美月は首を振った。
「それだけはできない」
「なぜだ?」
男の問いに
美月は答えなかった。
僕は彼女の手を見た。
冷たい指。
小さく震えている。
この女性は
本当に僕を愛しているのか。
それとも
愛しているからこそ
離せないのか。
分からなかった。
男はため息をついた。
「午前二時は過ぎた」
僕は時計を見た。
二時七分。
「今夜はもう
お前を連れていけない」
男は後ずさった。
足元の黒い水が
ゆっくり引いていく。
「でも覚えておけ」
男は僕を指さした。
「次に眠ったら
俺たちの声が聞こえる」
「俺たち?」
「そのとき
美月の言葉だけは
信じるな」
美月が叫んだ。
「もうやめて!」
男は笑った。
「じゃあな、悠真」
その姿が
黒い水に沈んでいった。
最後に
顔だけが残った。
「次はお前が
俺になる番だ」
そして消えた。
部屋は静まり返った。
僕は床に座り込んだ。
時計は午前二時八分。
生きている。
胸に手を当てる。
心臓は確かに動いていた。
「悠真……」
美月が隣に座った。
僕は彼女を見た。
「全部、本当なんですか?」
美月は俯いた。
「何人も僕が死んだって」
彼女は頷いた。
「あなたが
僕を愛していたって」
「……うん」
「じゃあ今の僕は?」
美月が顔を上げた。
涙で濡れた瞳。
「今の悠真も
大切だよ」
僕は苦笑した。
「同じ顔だから?」
「違う」
彼女は首を振った。
「同じ顔でも
みんな違った」
「何が?」
「笑い方も
怒り方も
優しさも」
美月は僕の頬に触れた。
「今の悠真は
今の悠真だよ」
僕は目を閉じた。
信じたい。
その言葉を
どうしても信じたかった。
「美月さん」
「なあに?」
「僕に恋をしたのは
いつですか?」
彼女は驚いた顔をした。
しばらく考えてから
静かに答えた。
「今日」
僕は目を開けた。
「え?」
「正確には昨日かな」
美月は小さく笑った。
「あなたが私に
おかえりって言ったとき」
胸が熱くなった。
「十五年前の僕とは
違うんですか?」
「うん」
美月は頷いた。
「あの人を愛したことも
嘘じゃない」
彼女は僕の手を握った。
「でも今
一緒にいたいのは
目の前のあなたなの」
僕は何も言えなかった。
幽霊の言葉を
信じていいのか。
頭では疑っていた。
それなのに
心はもう
彼女の方へ傾いていた。
「一つだけ
約束してください」
僕は言った。
「何?」
「僕を守るためでも
嘘はつかないでください」
美月は長く黙った。
そして頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
彼女は僕の手を
両手で包んだ。
「これからは
嘘をつかない」
その瞬間
部屋の空気が
少しだけ温かくなった。
僕は美月を抱き寄せた。
彼女は驚いたあと
そっと腕を回してきた。
「悠真」
「はい」
「怖かった?」
「ものすごく」
「ごめんね」
僕は首を振った。
「でも生きてます」
美月は泣きながら笑った。
「うん」
僕は彼女の髪に触れた。
甘い花の香り。
柔らかな感触。
幽霊なのに
確かにここにいる。
「美月さん」
「なあに?」
「僕はまだ
あなたのことを
何も知らないけど」
彼女が僕を見上げる。
「それでも
離れたくないです」
美月の瞳が揺れた。
そして彼女は
僕の胸に顔を埋めた。
「私も……」
その夜
僕たちは初めて
互いの気持ちを
確かめるように
長く抱きしめ合った。
午前三時。
美月が静かに言った。
「少し休んで」
「眠ったら
あいつらの声が
聞こえるんじゃ?」
「私がそばにいる」
彼女は微笑んだ。
「怖くなったら
起こしてあげる」
僕は迷った。
けれど疲れ切っていた。
美月の手を握ったまま
ゆっくり目を閉じた。
どれほど経っただろう。
僕は夢を見た。
古いスナック。
赤いソファ。
カウンターの向こうに
美月が立っていた。
その前には
何十人もの僕が
並んでいた。
全員が
同じ言葉を繰り返している。
『愛してる』
『愛してる』
『愛してる』
美月は泣いていた。
そして一人ずつ
男たちの胸に触れていく。
触れられた男は
黒い水に沈んだ。
最後に残ったのは
僕だった。
美月が近づいてくる。
「ごめんね」
彼女は泣きながら
僕の胸に手を当てた。
「でも今度こそ」
その指が
僕の心臓に沈んでいく。
「あなたを
終わらせてあげる」
僕は悲鳴を上げて
目を覚ました。
午前四時四十四分。
部屋には誰もいなかった。
美月の姿もない。
僕は胸を押さえた。
心臓は動いている。
けれど
何かがおかしかった。
胸の奥から
別の鼓動が聞こえる。
ドクン。
ドクン。
自分の心臓とは
違う速さだった。
僕は恐る恐る
胸元を見た。
皮膚の下に
小さな手の形が浮かんでいた。
内側から
誰かが押している。
そして
僕の胸の奥から
女の声がした。
『やっと入れた』
美月の声だった。




