第3話 死んだ彼女が僕にだけ笑いかける
「今度は私を
置いていかないでね」
美月は鏡の前で
静かに微笑んでいた。
僕はスマホを握りしめた。
電話の向こうでは
健太が何か叫んでいる。
「悠真!聞いてるか!」
「あとでかけ直す!」
通話を切った。
美月は不思議そうに
首を傾げた。
「どうして怒ってるの?」
「怒ってるんじゃない」
僕は鏡を指さした。
「これ、どういう意味?」
曇った鏡には
まだ文字が残っていた。
『約束したよね』
美月はしばらく
その文字を見つめた。
「私が書いたの」
「それは分かります」
「じゃあ何が知りたいの?」
「約束なんてしてません」
美月の笑顔が消えた。
ほんの一瞬だった。
「……そうだね」
彼女は鏡に触れた。
文字が消えていく。
「今の悠真は
まだ何も知らないもんね」
また意味の分からない
言い方だった。
「前にも会ったんですか?」
「会ってないよ」
「じゃあどうして
僕を待ってたんですか?」
美月は答えなかった。
代わりに僕の手を取った。
「朝ご飯、食べよう?」
「幽霊も食べるんですか?」
「食べられないけど
見てるのは好き」
僕は呆れてしまった。
質問をかわすのが
妙に上手な幽霊だった。
台所でトーストを焼く。
美月は隣に立ち
興味深そうに見ていた。
「それ、何?」
「トースターですよ」
「それは知ってる」
彼女は笑った。
「何を塗るの?」
「バターです」
「いいなあ」
「食べたいんですか?」
「うん」
少し寂しそうだった。
僕は皿を一枚追加した。
焼いたパンを半分に切り
彼女の前に置く。
「気持ちだけですけど」
美月は目を丸くした。
「私の分?」
「食べられないんですよね」
「うん。でも嬉しい」
彼女は両手を合わせた。
「いただきます」
僕も思わず笑った。
幽霊と朝食を取るなんて
昨日まで想像もしなかった。
美月はパンを見つめ
懐かしそうに呟いた。
「昔ね、仕事が終わると
よく朝ご飯を作ってたの」
「スナックの仕事ですか?」
「うん。閉店が遅いから
帰る頃には朝だった」
「大変だったんですね」
「でも楽しかったよ」
美月は窓の外を見た。
「みんな優しかったから」
その声は穏やかだった。
僕は思い切って聞いた。
「旅館が閉まったのは
美月さんが亡くなった後?」
彼女の指が止まった。
「……その話はやめよう」
「ごめんなさい」
美月は小さく頷いた。
それから
何事もなかったように
僕のパンを指さした。
「焦げてるよ」
「うわっ!」
慌てて口に入れる。
美月が笑った。
僕も笑ってしまった。
その笑い声が
狭い台所に響いた。
不思議だった。
昨日出会ったばかりなのに
昔から一緒にいたような
安心感があった。
昼前になると
美月の姿が薄くなった。
「どうしたんですか?」
「昼間は少し苦手なの」
「消えちゃうんですか?」
「完全には消えないよ」
彼女は僕の胸に触れた。
「ここにいるから」
またその言葉だ。
僕は苦笑した。
「心臓に悪いですよ」
「もう慣れて」
そう言って
彼女は姿を消した。
僕は一人になった。
静まり返った部屋。
さっきまで
誰かが笑っていたのに。
急に寂しくなった。
その感覚に
自分でも驚いた。
幽霊が消えて
寂しくなるなんて。
僕は頭を振った。
「おかしくなってるな」
スマホが鳴った。
健太からだった。
『昨日の写真
やっぱり変なんだ』
続けて画像が届いた。
旅館の前で撮った
例の記念写真。
僕は拡大した。
今度は何も映っていない。
そう思った瞬間
あることに気づいた。
僕の右肩。
そこだけ服が
不自然に沈んでいた。
まるで誰かが
手を置いているようだった。
健太から電話が来た。
「お前、今一人か?」
「一人だけど」
「昨日の女の声
やっぱり気になる」
僕は黙った。
「悠真、正直に言え」
「何を?」
「何か見たんだろ?」
少し迷ってから
僕は美月のことを話した。
スナックの写真。
透けた指。
背中から抱きしめられたこと。
そして昨夜
自宅に現れたこと。
健太は最後まで
黙って聞いていた。
「……マジかよ」
「信じないよな」
「いや」
健太の声が低くなった。
「実は俺も
変なもの見つけた」
「何?」
「旅館の昔の写真」
健太はネットで
廃旅館を調べていた。
営業当時の写真が
地元の掲示板に残っていたらしい。
「今送る」
画面に画像が届いた。
明るい照明。
綺麗な玄関。
浴衣姿の宿泊客。
そして入口に立つ
数人の従業員。
僕は指を止めた。
写真の端に
美月がいた。
白いブラウス。
赤い花柄のスカート。
間違いなかった。
「この人だ」
僕が言うと
健太は息を呑んだ。
「やっぱりか」
「どういうこと?」
「その写真の投稿日
見てみろよ」
画面の下には
古い日付があった。
十五年前。
美月が死んだという
時期と重なる。
「でもな」
健太は続けた。
「おかしいのは
そこじゃない」
「え?」
「写真の説明文」
僕は文字を読んだ。
『閉館直前の従業員たち』
その下には
短い追記があった。
『この写真の撮影翌日
従業員の女性一名が
行方不明となった』
僕は息を止めた。
行方不明。
死亡ではなかった。
「美月さんは
死んだって言ってた」
「なら何で
行方不明なんだよ」
答えられなかった。
健太はさらに言った。
「しかもこの旅館
その事件の直後に
営業をやめてる」
「事件?」
「詳しいことは
どこにも書いてない」
僕は写真を見つめた。
美月は笑っていた。
まるで
何も知らない少女のように。
「悠真」
健太が真剣な声で言った。
「その女とは
距離を置いた方がいい」
「でも……」
「でもじゃねえよ」
健太が珍しく怒った。
「相手は幽霊なんだぞ」
僕は返事ができなかった。
電話を切った後も
写真を見続けた。
美月は何を隠している?
どうして死んだ理由を
調べるなと言う?
そもそも
なぜ僕を知っている?
疑問ばかりだった。
その夜。
午後十一時五十九分。
部屋の照明が
一度だけ瞬いた。
そして
甘い花の香りが漂った。
「ただいま」
美月が現れた。
昨日と同じ服装。
同じ笑顔。
僕は思わず
立ち上がった。
「おかえりなさい」
口から自然に
言葉が出た。
美月は驚いた。
「今、何て言った?」
「おかえりって……」
彼女の目が潤んだ。
「もう一回言って」
「おかえりなさい」
美月は両手で
口元を覆った。
そして
泣きそうな顔で笑った。
「ただいま」
僕の胸が温かくなった。
彼女は近づいてきた。
「今日は何してたの?」
「普通に過ごしてました」
「私のこと考えた?」
「少しだけ」
「本当に?」
「……結構」
美月が嬉しそうに笑う。
「私もずっと考えてた」
「幽霊なのに?」
「幽霊だって
好きな人のことは考えるよ」
好きな人。
その言葉に
僕の心臓が跳ねた。
「それって……」
「秘密」
美月は人差し指を
唇に当てた。
僕は笑ってしまった。
それから二人で
テレビを見た。
美月は最近の番組に
いちいち驚いた。
「この人、まだテレビに
出てるんだ!」
「有名ですからね」
「私がいた頃から
全然変わらない」
「十五年も経てば
結構変わりますよ」
僕が何気なく言うと
美月の笑顔が止まった。
「十五年?」
「え?」
「どうして
十五年って知ってるの?」
しまった。
僕は言葉に詰まった。
美月は僕のスマホを見た。
画面にはまだ
旅館の写真が表示されていた。
彼女の表情が変わった。
「調べたの?」
「いや、友達が……」
「約束したよね」
声が震えていた。
「調べないって」
「死んだ理由は
調べてません」
「同じことだよ」
美月は一歩下がった。
部屋の温度が
急激に下がった。
テレビの画面が乱れる。
「美月さん?」
彼女は顔を伏せた。
「お願い」
その声は
怒っているのではなかった。
怯えていた。
「私のことを
過去から探さないで」
「どうして?」
美月は顔を上げた。
目に涙が浮かんでいた。
「あなたまで
いなくなっちゃうから」
僕は動けなかった。
「それ、どういう意味?」
美月は答えない。
代わりに
僕の胸に飛び込んできた。
冷たい身体。
でも抱きしめると
不思議な温もりが広がった。
「お願い……」
彼女の声が震えていた。
「今の私だけを見て」
僕はゆっくり
彼女の背中に手を回した。
初めて自分から
幽霊を抱きしめた。
すると美月は
小さく息を呑んだ。
「悠真……」
「分かりました」
僕は答えた。
「今は調べません」
美月は僕の胸に
顔を埋めた。
「ありがとう」
その夜
彼女は初めて
僕の腕の中で
静かに目を閉じた。
幽霊は眠らない。
そう言っていたのに。
僕は彼女の髪を
そっと撫でた。
そのとき
スマホが震えた。
健太からのメッセージ。
『悠真、やばい』
続けて
一枚の写真が届いた。
十五年前の
旅館の従業員写真。
さっき見たものと
同じ写真だった。
ただし
健太が送ってきたのは
拡大された画像だった。
美月の隣に
一人の男性が立っている。
顔は不鮮明だった。
けれど
その男性が着ていた服を見て
僕は息を止めた。
今の僕が着ている
灰色のパーカーだった。
胸元の小さな傷まで
同じだった。
さらにメッセージが届く。
『これ、お前じゃないよな?』
僕は震える指で
写真を拡大した。
男性の顔が
少しずつ鮮明になる。
そして
僕は声を失った。
十五年前の写真に
今とまったく同じ顔の
僕が写っていた。
腕の中の美月が
目を閉じたまま
小さく呟いた。
「見つけちゃったんだ」
彼女の指が
僕の背中に食い込んだ。
「だから言ったのに」
僕は写真から
目を離せなかった。
美月が囁いた。
「今度こそ
あなたを死なせたくなかった」




