第2話 僕のベッドに幽霊が住み始めた
「私、あなたの中に
住んでるんだもん」
美月がそう言った瞬間
僕は布団から飛び起きた。
「出ていってください!」
情けないほど
大きな声が出た。
美月は驚いた顔をした。
そして少しだけ
唇を尖らせた。
「そんな言い方しなくても」
「だって幽霊ですよね?」
「うん」
あっさり認めた。
僕は言葉を失った。
「怖くないの?」
美月が聞いた。
「怖いに決まってます!」
「そっか……」
彼女は寂しそうに笑った。
その表情を見た瞬間
なぜか胸が痛んだ。
いやいや。
相手は幽霊だ。
同情している場合じゃない。
僕はスマホを掴んだ。
時刻は午前一時二十分。
警察に電話する?
いや、何と言えばいい。
幽霊が部屋にいます。
そんな通報をしたら
僕の方が心配される。
「ねえ」
美月が僕を見つめた。
「そんなに嫌なら
今夜は帰るよ」
「帰るって……どこへ?」
「あなたが来てくれた場所」
あの廃旅館だ。
僕は黙った。
美月はベッドから立ち上がる。
白いブラウスの裾が
ふわりと揺れた。
床に足を下ろす。
けれど音はしなかった。
「おやすみ、悠真」
彼女が背を向ける。
その姿が
少しずつ薄くなっていく。
僕は思わず声をかけた。
「待って」
美月が振り返った。
「何?」
「どうして僕の名前を
知ってるんですか?」
彼女は答えなかった。
代わりに
不思議そうな顔をした。
「本当に覚えてないの?」
「何をですか?」
「……何でもない」
またそれだ。
旅館でも同じことを言った。
僕は思い切って聞いた。
「僕たち、以前どこかで
会ったことがありますか?」
美月はしばらく
僕の顔を見つめていた。
「会ったことはないよ」
「じゃあ、どうして?」
「ずっと知ってたから」
意味が分からなかった。
「それって……」
「ねえ、悠真」
彼女が話を遮った。
「少しだけ
ここにいてもいい?」
僕は迷った。
正直に言えば
今すぐ消えてほしかった。
でも同時に
彼女が消えてしまうことが
妙に寂しく感じられた。
「少しだけなら……」
美月の顔が明るくなった。
「本当?」
「ただし条件があります」
「何?」
「勝手に身体の中に
入らないでください」
彼女は目を丸くした。
それから
声を出して笑った。
「ふふっ」
「笑い事じゃないですよ」
「ごめんね」
美月は口元を押さえた。
「でも勘違いしてる」
「え?」
「あなたの中に住んでるって
そういう意味じゃないの」
彼女は僕の胸を指さした。
「ここ」
「心臓?」
「ううん」
美月は優しく微笑んだ。
「あなたの心の中」
僕は拍子抜けした。
「紛らわしい言い方
しないでくださいよ」
「ごめん」
そう言いながら
また笑っている。
幽霊なのに
ずいぶん普通の女性だった。
僕は少しだけ
肩の力を抜いた。
「じゃあ質問しても?」
「いいよ」
「美月さんは
あのスナックで
働いていたんですか?」
「うん」
「いつ頃ですか?」
「ずっと昔」
「何年前?」
美月は天井を見上げた。
「もう十年以上かな」
「そんなに……」
僕は彼女の顔を見た。
どう見ても
二十代半ばにしか見えない。
「何歳なんですか?」
「女の子に年齢を聞く?」
「いや、そういう意味じゃ」
「二十四歳」
彼女は笑った。
「死んだときの年齢ね」
その言葉で
部屋の空気が変わった。
死んだ。
目の前の女性は
確かにそう言った。
「どうして……」
そこまで口にして
僕は迷った。
聞いていいことなのか。
美月は僕の表情を見て
静かに言った。
「どうして死んだのか
聞きたいんでしょ?」
僕は頷いた。
すると彼女の笑顔が消えた。
「それだけは聞かないで」
初めて聞く
冷たい声だった。
「ごめんなさい」
僕が謝ると
美月は目を伏せた。
「私こそごめん」
そして小さく続けた。
「でも約束して」
「何を?」
「私がどうして死んだのか
絶対に調べないで」
その目は真剣だった。
冗談を言っている
雰囲気ではない。
「分かりました」
僕はそう答えた。
美月はようやく
安心したように笑った。
「ありがとう」
午前二時を過ぎていた。
僕は眠気に襲われた。
「そろそろ寝てもいいですか」
「もちろん」
美月はベッドの端に座った。
「そこで何してるんです?」
「見てる」
「何を?」
「悠真の寝顔」
「寝られませんよ!」
また笑われた。
結局
美月は窓際の椅子に座り
僕が眠るまで
静かにしていることになった。
部屋の明かりを消す。
カーテンの隙間から
月明かりが差し込んだ。
椅子に座る美月は
まるで普通の人間のようだった。
僕は横になりながら
小さく聞いた。
「美月さん」
「なあに?」
「幽霊って眠るんですか?」
「眠らないよ」
「退屈じゃないですか?」
少しの沈黙。
それから彼女は答えた。
「すごく退屈だった」
過去形だった。
「だった?」
「うん」
美月は僕を見つめた。
「今日まではね」
胸の奥が
不思議に温かくなった。
何と返せばいいのか
分からなかった。
僕は目を閉じた。
それからどれほど
時間が経っただろう。
ふと目が覚めた。
時計は午前三時三分。
部屋が異様に寒かった。
真夏なのに
吐く息が白い。
窓際を見る。
椅子には誰もいなかった。
「美月さん?」
返事はない。
僕は起き上がった。
すると
背後から声がした。
「起こしちゃった?」
振り返る。
美月が僕の隣に
横になっていた。
「うわっ!」
僕はまた飛び起きた。
「どうして隣に!」
「だって寒そうだったから」
「寒いのは
美月さんのせいでは?」
彼女は考え込んだ。
「そうかも」
「そうかもって……」
美月は布団の中から
僕を見上げた。
「でもね」
「何ですか?」
「私が近くにいると
悠真は温かくなるでしょ?」
確かにそうだった。
彼女の身体は冷たい。
なのに触れられると
胸の奥が温かくなる。
「変ですよね」
僕が呟くと
美月は静かに頷いた。
「私も不思議なの」
その声は
少しだけ震えていた。
「幽霊になってから
誰にも触れなかったのに」
「え?」
「悠真だけなの」
彼女は僕の手に
そっと指を重ねた。
冷たい感触。
でも嫌ではなかった。
「どうして僕なんですか?」
美月は答えなかった。
ただ
泣きそうな顔で微笑んだ。
「今はまだ言えない」
その夜
僕は初めて
幽霊と同じ布団で眠った。
何も起こらなかった。
ただ彼女は
僕の手を握ったまま
朝まで離さなかった。
翌朝。
目が覚めると
美月はいなかった。
部屋はいつもの温度に戻り
昨夜の出来事が
夢だったように思えた。
僕は洗面所へ向かった。
鏡に映る自分を見る。
いつもと変わらない顔。
少し寝不足なだけだ。
そう思ったとき
右手首に気づいた。
薄い赤い痕があった。
まるで誰かに
握られたような形。
美月が触れていたのは
左手だったはずだ。
僕は首を傾げた。
そのとき
スマホが鳴った。
健太からだった。
『昨日の写真
もう一回見てみろ』
僕は写真を開いた。
旅館の前で笑う三人。
今度は窓にも
誰も映っていなかった。
しかし
写真の端に
見覚えのない文字があった。
『おかえり』
白い指で
曇ったガラスに書いたような文字。
僕は息を呑んだ。
続けて健太から
メッセージが届いた。
『これ、お前が書いたの?』
僕はすぐに返信した。
『違う』
既読がついた。
そして数秒後
健太から電話がかかってきた。
「悠真」
声が震えていた。
「お前、昨日の夜
誰と帰った?」
「誰って……」
「俺たち車に乗っただろ」
「うん」
「お前、後部座席で
ずっと誰かと喋ってたぞ」
背筋が凍った。
「何言ってんだよ」
「俺たちには
誰も見えなかった」
電話の向こうで
健太が息を呑んだ。
「でもな」
一瞬の沈黙。
「車を降りるとき
女の声がしたんだ」
僕は動けなかった。
健太は続けた。
「『今度こそ
ちゃんと連れて帰ってね』って」
その瞬間
洗面所の鏡が
白く曇り始めた。
そして
誰も触れていない鏡に
一文字ずつ
文字が浮かび上がった。
『約束したよね』
僕の背後で
美月の声がした。
「ねえ、悠真」
ゆっくり振り返る。
彼女は笑っていた。
「今度は私を
置いていかないでね」




