第1話 お盆の夜に幽霊に抱きしめられた
誰もいないはずの廃旅館で
女の声がした。
「やっと来てくれた」
僕は足を止めた。
お盆の夜。
時刻は午後十一時四十分。
僕は友人二人と
山奥の心霊スポットにいた。
「今の声、聞こえた?」
僕が振り返ると
健太が笑った。
「何も聞こえねえよ」
翔太も首を横に振る。
目の前には
廃業して十数年になる
古い温泉旅館が建っていた。
三階建ての建物は
窓ガラスが割れ
外壁には蔦が絡まっている。
僕の名前は悠真。
二十八歳の会社員だ。
霊感なんてない。
恋人とは半年前に別れ
休日は家で過ごすことが多い。
そんな僕を
健太が肝試しに誘った。
「お盆だし
面白い場所に行こうぜ」
最初は断った。
でも結局
暇だった僕はついてきた。
旅館の入口には
立入禁止の看板があった。
床も腐っているらしい。
「中に入るのは危ないだろ」
僕が言うと
健太が建物の横を指さした。
「じゃあ外から
あそこだけ見ようぜ」
旅館の脇には
小さな別棟があった。
色褪せた看板には
『スナック月あかり』
と書かれている。
かつて宿泊客向けに
営業していた店らしい。
入口のガラス越しに
赤いソファと
古いカウンターが見えた。
そのとき
耳元で声がした。
「覚えてる?」
僕は飛び上がった。
「うわっ!」
「何だよ!」
健太が驚く。
「今、女の人が……」
二人は顔を見合わせた。
「お前が一番
怖がってんじゃん」
笑われた。
僕も無理に笑った。
気のせいだ。
そう思おうとした。
すると健太のスマホが鳴った。
「母ちゃんからだ」
健太は車の方へ戻った。
翔太も
「ライト取ってくる」
と言って離れていく。
僕だけが
別棟の前に残された。
ガラス越しに
店内を覗き込む。
カウンターの上に
写真立てがあった。
若い女性が
笑っている写真だった。
長い黒髪。
大きな瞳。
白いブラウス。
赤い花柄のスカート。
驚くほど綺麗な女性だった。
写真の下には
小さな文字が見えた。
『美月』
「美月さん……」
僕が呟いた瞬間
店の奥から音がした。
カラン。
氷がグラスに落ちる音。
僕は顔を上げた。
カウンターの向こうに
女が立っていた。
写真と同じ女性だった。
「いらっしゃいませ」
彼女は微笑んだ。
僕は声が出なかった。
さっきまで
誰もいなかったはずだ。
「何を飲みますか?」
女が首を傾げる。
「え……あの……」
「そんなに怖がらないで」
彼女は笑った。
その笑顔が
あまりにも自然で
一瞬だけ恐怖を忘れた。
「あなた、誰ですか?」
僕が聞くと
彼女は悲しそうな顔をした。
「忘れちゃったんだ」
「え?」
「ううん。何でもない」
彼女が
カウンターに手を置く。
僕は息を止めた。
指が透けていた。
木目が
指の向こうに見える。
人間じゃない。
頭では理解した。
それなのに
目を逸らせなかった。
彼女が近づいてくる。
「逃げないの?」
僕は後ずさった。
「来ないでください」
「大丈夫」
彼女は囁いた。
「痛いことはしないから」
次の瞬間
彼女の姿が消えた。
僕は慌てて振り返った。
誰もいない。
「健太!」
叫ぼうとした瞬間
背中に柔らかい感触があった。
誰かが僕を
後ろから抱きしめていた。
冷たい。
そう思った。
けれど次の瞬間
胸の奥に温かいものが
ゆっくり広がっていった。
まるで長い間
会いたかった人に
ようやく会えたような感覚。
恐怖が薄れていく。
身体の力が抜ける。
「やっと会えた」
耳元で彼女が囁く。
甘い花の香りがした。
「ずっと待ってたの」
僕は目を閉じた。
知らない女性なのに
抱きしめられることが
不思議と嫌ではなかった。
むしろ
離れてほしくなかった。
「美月……さん?」
名前を呼ぶと
背中の感触が強くなった。
「そう」
彼女は嬉しそうに笑った。
「ちゃんと呼んでくれた」
その瞬間
遠くから健太の声がした。
「悠真!帰るぞ!」
僕は我に返った。
背中の温もりが消える。
振り返ると
もう誰もいなかった。
僕は走って
車へ戻った。
「お前、顔色悪いぞ」
翔太が心配そうに聞く。
「女の人がいた」
「は?」
「スナックの中に……」
健太が笑った。
「誰もいなかっただろ」
「本当にいたんだよ」
二人は黙った。
僕もそれ以上
説明できなかった。
帰りの車で
僕はずっと考えていた。
あれは幽霊だったのか。
それとも幻覚だったのか。
ただ一つ
忘れられないことがあった。
あの温もりだ。
怖かったはずなのに
もう一度会いたい。
そんな気持ちが
胸の奥に残っていた。
午前一時過ぎ。
自宅に到着した。
シャワーを浴び
ベッドに横になる。
スマホを見ると
健太から写真が届いていた。
『今日の記念写真な』
旅館の前で撮った
三人の写真だった。
僕は何気なく拡大した。
そして指が止まった。
僕の背後。
割れた窓の向こうに
白いブラウスの女性が
立っていた。
美月だった。
こちらを見つめ
静かに笑っている。
心臓が跳ねた。
僕は慌てて
健太にメッセージを送った。
『この写真の女、見える?』
すぐに返信が来た。
『女?どこ?』
僕は写真を見直した。
美月の姿が消えていた。
窓には暗闇しかない。
「何なんだよ……」
スマホを置いた。
時刻は午前一時十七分。
部屋の照明を消す。
布団をかぶり
目を閉じた。
すると
耳元で声がした。
「おやすみ、悠真」
僕は目を開けた。
ベッドの横に
美月が座っていた。
月明かりに照らされた
白いブラウス。
赤い花柄のスカート。
写真と同じ笑顔。
「どうして……」
僕が震える声で聞くと
彼女はゆっくり
僕の頬に手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たいはずなのに
不思議と心地よかった。
「どうやって
ここまで来たんですか?」
美月は答えなかった。
代わりに
僕の耳元へ顔を寄せた。
そして
甘えるような声で囁いた。
「だって今夜から……」
彼女の指が
僕の胸元に触れた。
「私、あなたの中に
住んでるんだもん」
その瞬間
僕の心臓が
一度だけ大きく鳴った。
そして胸の奥から
僕自身ではない
女の声が聞こえた。
『今度こそ、離さない』




