第12話 死んだ母が教えてくれた本当の僕
「その扉を開けたら
本当の家に帰れないよ」
二〇八号室の入口に
母が立っていた。
十五年前に死んだ母。
あの頃と同じ服。
同じ髪型。
そして
何度も夢に見た笑顔。
「……母さん?」
僕の声が震えた。
母は小さく頷いた。
「久しぶりね、悠真」
僕は駆け寄ろうとした。
しかし美月が
僕の腕を掴んだ。
「待って」
「どうして?」
「本物か分からない」
僕は母を見つめた。
確かにそうだった。
この旅館では
何が本当なのか
もう分からない。
母は悲しそうに笑った。
「疑って当然よ」
そして
ゆっくり両手を広げた。
「でも一つだけ
覚えているでしょう?」
僕は息を止めた。
「あなたが小さい頃
眠れない夜に
いつも歌ってあげた歌」
母は静かに
鼻歌を歌い始めた。
懐かしい旋律。
僕の目から
涙がこぼれた。
「……母さん」
その歌を知っているのは
母と僕だけだった。
僕は美月の手を離した。
そして母に近づいた。
「本当に母さんなの?」
母は頷いた。
「会いたかった」
その言葉を聞いた瞬間
僕は母に抱きついた。
温かかった。
幽霊のはずなのに。
母は僕の背中を撫でた。
「大きくなったね」
僕は泣いた。
十五年間
一度も泣けなかった分まで
涙が止まらなかった。
美月は少し離れた場所で
静かに見守っていた。
結衣も黙っていた。
やがて母が言った。
「悠真」
「……何?」
「もう終わりにしよう」
僕は顔を上げた。
「何を?」
母は部屋を見回した。
白い扉。
黒い扉。
そして天井の黒い染み。
「この旅館の願いを」
その瞬間
天井から声が響いた。
『余計なことを』
黒い水が波打つ。
母は怯まなかった。
「あなたは
もう十分奪ったでしょう」
『奪ったのではない』
声が笑った。
『願いを叶えただけだ』
母は首を振った。
「違う」
そして僕を見た。
「悠真、聞いて」
僕は頷いた。
「あなたは十五年前
この旅館で死んだの」
時間が止まった。
「……え?」
母は涙を流していた。
「十三歳の夏休み」
僕は何も言えなかった。
「家族旅行で
ここに来たでしょう?」
「……うん」
「結衣ちゃんと
仲良くなったよね」
僕は頷いた。
鏡で見た記憶。
結衣と遊んだこと。
約束したこと。
全部思い出していた。
「でもあの日」
母の声が震えた。
「あなたは
家に帰らなかった」
僕は首を振った。
「そんなはずない」
「悠真……」
「僕は学校に通って
大人になって
会社で働いて……」
母は静かに
僕の頬に触れた。
「それはね」
彼女の目から
涙がこぼれた。
「あなたが
願った人生なの」
僕は動けなかった。
「願った……?」
母は頷いた。
「死ぬ直前に
あなたは言ったの」
その声が震えた。
『大人になりたい』
僕は息を止めた。
『友達と遊んで
仕事をして』
母は泣きながら続けた。
『好きな人と
結婚したい』
胸の奥が痛んだ。
「それを
この旅館が聞いたの」
天井の声が笑った。
『素晴らしい願いだった』
黒い染みが広がる。
『十三歳で終わるはずの
人生を延ばしてやった』
僕は震えた。
「じゃあ今の僕は……」
母は答えた。
「あなた自身よ」
僕は顔を上げた。
「偽物じゃない」
母は強く言った。
「確かに生きて
笑って
誰かを好きになった」
僕の目から
涙がこぼれた。
「でも本当の身体は
十五年前に
亡くなっているの」
僕は胸を押さえた。
二つ目の鼓動。
薄くなる指先。
消えていく記録。
すべてが
つながり始めていた。
「じゃあ六人の僕は?」
母は鏡を見た。
「あなたの願いが
繰り返し作った人生」
鏡の中に
何人もの僕が現れる。
「一人が終わるたび
また別の悠真が
生まれたの」
「でもどうして
みんな美月さんを?」
母は悲しそうに笑った。
「最初のあなたが
大人になって
本当に好きになった人が
美月さんだったから」
僕は彼女を見た。
美月は泣いていた。
「だから何度生まれても
彼女を探してしまう」
僕は何も言えなかった。
美月が僕に近づいた。
「悠真……」
彼女は震える声で言った。
「私は知らなかった」
「何を?」
「あなたが
十三歳で死んでたこと」
美月は泣きながら
首を振った。
「ずっと
大人のあなたしか
知らなかったから」
僕は彼女の手を握った。
「美月さんのせいじゃない」
彼女は泣き崩れた。
そのとき
結衣が口を開いた。
「お兄ちゃん」
僕は少女を見た。
「私も
謝らなきゃいけない」
結衣は俯いた。
「私が閉じ込められたのは
本当なの」
「うん」
「でもね」
彼女の声が震えた。
「お兄ちゃんが
助けに来てくれたの」
僕は息を止めた。
「十三歳の僕が?」
結衣は頷いた。
「扉を開けてくれた」
鏡の映像が変わった。
十五年前の二〇八号室。
結衣が床に倒れている。
そこへ
制服姿の僕が駆け込んだ。
少年の僕は
結衣を抱き起こした。
『結衣ちゃん!』
しかし
彼女は動かなかった。
少年は必死に
名前を呼び続けた。
そのとき
天井から黒い水が落ちた。
『助けたいか』
少年が顔を上げる。
『助けたい!』
『ならば願え』
少年は叫んだ。
『結衣ちゃんを助けて!』
鏡の中で
黒い水が少年を包んだ。
そして
少年は倒れた。
結衣が泣き始めた。
「私を助けようとして
お兄ちゃんが死んだの」
僕は言葉を失った。
「でも私は
もう死んでたから」
少女は涙を拭った。
「何も変わらなかった」
母が僕の肩に
そっと手を置いた。
「あなたは
優しい子だった」
僕は首を振った。
「でも誰も
助けられなかった」
母は強く抱きしめた。
「違うよ」
「何が?」
「最後まで
誰かを助けようとした」
僕は泣いた。
胸の奥で
何かがほどけていく。
しかし
天井の声が響いた。
『感動的だ』
黒い水が
再び床に広がる。
『だが願いは
まだ終わっていない』
母が僕の前に立った。
「もう十分でしょう」
『契約は契約だ』
声が低くなる。
『八人目が生まれた』
僕は息を止めた。
玄関にいた少年。
十歳の僕。
『七人目が消えれば
八人目が人生を継ぐ』
母は首を振った。
「もう繰り返させない」
『ならば代償を払え』
白い扉が光った。
『美月を生かすなら
悠真は消える』
黒い扉が開きかけた。
『悠真が残るなら
美月はここへ戻る』
僕は二つの扉を見た。
そして
母に尋ねた。
「第三の方法はないの?」
母は黙った。
「誰も犠牲にならない
方法は?」
長い沈黙。
やがて母は
僕を見つめた。
「一つだけある」
天井の声が
突然大きく響いた。
『黙れ!』
母の身体が
黒い水に包まれた。
「母さん!」
僕は駆け寄った。
母は苦しそうに
息を吐いた。
「悠真……」
「何をすればいい?」
母は僕の手を握った。
「願いを……」
声が途切れた。
「願いを?」
母は必死に続けた。
「叶えてもらうんじゃなくて」
黒い水が
彼女の身体を引っ張る。
「自分で……」
僕は叫んだ。
「母さん!」
最後に
母は微笑んだ。
「終わらせるの」
その瞬間
母の姿が消えた。
「母さん!」
僕は叫び続けた。
しかし返事はなかった。
床には
母が立っていた場所だけ
小さな光が残っていた。
僕はそれを拾った。
古い鍵だった。
小さな銀色の鍵。
持ち手には
数字が刻まれていた。
『000』
美月が近づいてきた。
「それ……」
彼女は鍵を見つめた。
「どうしたんですか?」
美月の声が震えた。
「旅館の地下に
開かない部屋があったの」
僕は顔を上げた。
「地下?」
「うん」
彼女は頷いた。
「従業員も
入っちゃいけない部屋」
僕は鍵を握りしめた。
「そこに何が?」
美月は首を振った。
「分からない」
その瞬間
結衣が小さく呟いた。
「知ってるよ」
僕たちは少女を見た。
結衣は
地下へ続く廊下を指さした。
「あそこにはね」
彼女は悲しそうに笑った。
「最初のお兄ちゃんが
まだ眠ってるの」
僕は息を止めた。
「最初の僕?」
結衣は頷いた。
「十三歳の
本当のお兄ちゃん」
天井の声が
突然消えた。
黒い水も
動きを止めた。
まるで
何かを恐れているようだった。
結衣は僕を見つめた。
そして
静かに言った。
「その鍵で
本当のお兄ちゃんを
起こしてあげて」
僕は銀色の鍵を見た。
『000』
小さな数字が
青白く光っていた。
そのとき
地下の奥から
微かな声が聞こえた。
『……もういいよ』
僕は顔を上げた。
声は
幼い頃の僕だった。
『僕の夢を
終わらせて』




