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NO.9 早速振り回されている

 ロビーに着くと、環はすでに待っていた。


 スーツ姿のまま、ジャケットだけを腕にかけている。

 環はスマートフォンをしまい、口元に笑みを浮かべながらこちらを見る。


「行こうか」


 なんでそんなに楽しそうなんだ。


「……はい」


 伊織が不満げに頷くと、環は気にした様子もなくエントランスへ向かった。

 並んで歩き出してから、伊織は少しだけ眉を寄せる。


「どこへ行くんですか」


「代々木」


「代々木?」


「そう。代々木公園のあたり。タクシー呼んであるから」


「……早いですね」


「まあね」


 あまりにもサクサク事が進んで釈然としない。

 人の弱みを握っているくせに、こういうところだけ抜かりないのが癇に障る。


 外に出ると、1台のタクシーが停まっていた。

 環は迷うことなくその車へ向かい、運転手に会釈する。

 自動ドアが開き、伊織に先に乗るよう促した。


「どうぞ」


 伊織は小さく頭を下げてから、後部座席に乗り込む。


「……ありがとうございます」


 礼を言うのも少し悔しい。

 そう思いながら、シートベルトを締めた。


 タクシーは渋谷の通りを抜け、代々木公園の方へ向かっていく。


 昼過ぎの街は、平日のわりに人が多い。

 ガラス越しの景色を横目で見ながら、伊織は膝の上の資料に視線を落とす。


 隣で、環が口を開いた。


「今日見るのは、音楽系の野外イベントの協賛ブース」


「協賛ブース?」


「低アルコールとノンアルの試飲、サンプリング。第一回の候補地が代々木」


「……フェスですか」


「そう」


 伊織は窓の外へ視線を戻した。


 音楽と酒。

 人が集まって、テンションが上がる場所。


 嫌いではない。

 むしろ、その組み合わせ自体は少し分かる。


 無理やりねじ込まれたプロジェクトなのに、そう思ってしまったことが、少し気に食わなかった。


***


 タクシーを降りると、代々木の空が広かった。

 公園内を散歩している人のざわめきと、平日の会社員たちが入り交じるゆるい人の流れ。


 まだフェス本番ではないのに、広場の一部には仮設の柵や搬入用の導線が見えている。


 会社のきっちりした空気とは違い、開放感がある。

 伊織は、現場に連れ回されるなんて最悪だと思っていた。


 けれど、白い照明の下で資料を見ているよりは、ずっと息がしやすい。


 ……なんか、いいかも。

 そう思いかけて、すぐに打ち消す。

 ここで気分が楽になるのは、なんとなく環に負けた気がする。


「こっち」


 環が先に歩き出す。

 伊織は一拍遅れて、その後ろについていった。


 広場の端に、ひとりの男性が立っていた。ラフなジャケットにスニーカー。

 環より二、三歳上だろうか。明るく笑う顔が、遠目にもよく分かる。近くまで行くとその男性が軽く手を上げた。


「久世くん、お疲れ。急に現地で悪いね」


「いえ。こちらこそありがとうございます」


 環もにこやかに会釈する。

 男性はすぐに伊織へ視線を移した。


「今回から入る方?」


「片瀬です。現場まわりにも入ります」


 環がそう紹介する。

 伊織は軽く頭を下げた。


「片瀬です。よろしくお願いいたします」


「よろしく。大野です。いやー、現場見てくれる人が増えるの助かります」


 大野は低アルコール・ノンアルコール飲料会社の担当者だった。人との距離が近く、よく笑う。


「じゃあ、見ながら話しましょうか。こっちです」


 大野はそう言って、広場の方へ歩き出した。


 環もすぐに並び、伊織も少し遅れて後に続く。

 まだフェス本番前の広場は静かで、遠くから作業員の声だけが聞こえていた。


 歩きながら、大野がふと口を開く。


「俺、音楽は好きなんだけど、酒はそんな強くないんですよ」


 伊織は少しだけ意外に思った。


「フェスって、みんな片手に酒持って楽しそうじゃないですか。でも、飲めない人って、意外と同じテンションで混ざりにくいんですよね」


 大野は軽く笑いながら、広場の方へ視線を向けた。


「だから今回の販促は、ただ商品を配るだけじゃなくて、音楽と酒の空気ごと作りたいんです」


「音楽と酒、ですか」


「はい。飲める人も飲めない人も、同じテンションで楽しめるフェスみたいな感じ。低アルとかノンアルを、“仕方なく選ぶもの”じゃなくて、ちゃんと楽しい選択肢として見せたいんですよ」


 伊織は黙って聞いていた。

 伊織自身は、酒を飲める。ノンアルや低アルを、わざわざ選んだこともほとんどない。


 でも、クラブでは見てきた。お酒が弱い人たち。

 すぐ顔が赤くなる子。場に合わせようとして、無理に飲んでる子。テンションは合わせたいのに、体がついていかない子。


 ああ、たしかに。

 弱い子も同じペースで楽しめたら、それはいいのかもしれない。


 大野は前方を指した。


「メインステージがあっち。フードエリアがこっち。候補はこの通路沿いですね」


 そこからは、歩きながらの確認になった。

 当日の位置関係や動きなどの方針を固めていく。


 大野はブース候補地を見ながら続ける。


「だから、基本は音楽と酒をメインにやっていきたいんですよね」

「飲める人も飲めない人も、同じテンションで楽しめる場所。そこを全国で発信していきたいんです」


「そうですね。最初の代々木で、その印象をちゃんと作りたいところです」


 環が資料に視線を落としながら返す。


 全国。

 音楽と酒。

 同じテンションで楽しめる場所。


 その言葉を聞きながら、伊織はふと口を開いた。


「……毎回、同じ雰囲気でやるんですか」


 大野と環が、同時に伊織を見る。

 言ってから、少しだけしまったと思った。けれど、もう遅い。


「地方でもやるなら、場所ごとに少し色を変えるのもアリかと思って」


「色?」


 大野が興味を示す。

 伊織は言葉を選びながら続けた。


「はい。代々木なら、音楽と外の開放感。海沿いなら夕方とか夜景。地方なら、その土地の音楽とか、食べ物とか、フェスのジャンルに合わせるとか」


 瞬間、二人の視線が伊織に集まった。

 まず、大野の表情が変わる。


「それ、いいですね」


 環は一拍置いて、考えるように口を開いた。


「シリーズ感は残して、場所ごとに見え方を変える」


「そうそう。それなら全国で回る意味も出るね」


 大野が楽しそうに頷く。


 思いつきで言っただけだった。無理やり連れてこられただけで、このプロジェクトにたいした思い入れもない。

 けれど、二人に真面目に受け止められてなんだか不思議な気持ちだった。


「横浜なら海沿いの夕方とか、いいですね。福岡なら夜市っぽくしても合いそうだし」


 大野が楽しそうに話を広げる。


「音楽のジャンルに合わせて、ブースの見せ方も変えられる」


 環が続ける。

 伊織は聞きながら、頭の中に少しだけ絵が浮かんだ。


 代々木の明るい空。海沿いの夕方。地方の夜。

 音楽と、人と、同じタイミングで上がる乾杯の声。


 悪くない。

 むしろ、少し面白い。


 そう思ってしまってから、伊織は少しだけ嫌になる。


 無理やり入れられたプロジェクトなのに。

 少しでも面白いと思ってしまうのは、なんだか負けた気がした。

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