NO.8 拒否権の無い月曜日
月曜日、伊織は憂鬱な気分で出社した。
原因は、他でもない。
久世環である。
あの男に弱みを握られたせいで、今日から激務が待っている。たぶん。いや、ほぼ確実に。
十時にオフィスへ入ると、社内はすでに動き始めていた。
電話の声、キーボードを叩く音、コピー機の動く低い音。
それでも月曜の午前らしく、どこかまだ速度の上がりきらない空気が流れている。
伊織は鞄を肩にかけたまま、自分の席へ向かった。
髪はひとつにまとめてある。
服もいつも通り、目立たない色を選んだ。
週末に何があったとしても、会社に来れば片瀬伊織に戻る。
席につこうとしたところで、隣の島から菜々子が顔を上げた。
「おはようございます、片瀬さん」
「おはようございます」
伊織が鞄を置くと、菜々子は少し身を乗り出すようにして言った。
「聞きましたよ!片瀬さん、久世さんのプロジェクト入るんですよね?」
伊織は、鞄の持ち手から指を離す手を一瞬だけ止めた。
「……そうみたいです」
みんな知ってるのか。
心の中でそう思う。
金曜の夜、バーで勝手に決められた話が、月曜の朝にはもう社内で噂になっている。
菜々子は少し浮かれたように笑った。
「いいな〜、久世さんと仕事」
近くの席にいた別の社員も、パソコンを立ち上げながら会話に入ってくる。
「でも、大変そうじゃない?あの案件」
「あ、週末現場あるやつですよね」
「地方もあるって聞いたよ」
菜々子が少し声を落とす。
「久世さん、感じいいけど仕事は容赦なさそうですもんね」
その評価は、たぶん正しい。
伊織は曖昧に笑った。
「まだ詳しく聞いていないので」
そう答えてから、椅子に座る。
パソコンを開き、画面が立ち上がるのを待った。
社内チャットの通知が入っている。
差出人は、久世環。
伊織は嫌な予感を覚えながら、メッセージを開いた。
『本日13:00よりプロジェクトキックオフを行います。会議室B。片瀬さんも参加してください』
話しているそばから、これだ。
もう連絡が来ている。
嫌すぎる。
伊織はしばらく画面を見つめてから、事務的に返信を打った。
『承知しました』
送信して、小さく息を吐く。
まだ出社したばかりだというのに、もう少し疲れた。
***
十三時前、伊織はノートパソコンとメモを持って会議室Bへ向かった。
扉を開けると、すでに二人が席についていた。
どちらも社内で何度か顔を見たことがある。
伊織は軽く頭を下げた。
「片瀬です。今日から参加します。よろしくお願いします」
先に応じたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「制作進行部の三枝です。よろしくお願いします」
続いて、もう一人の男性も軽く会釈する。
「営業企画部の榊原です。よろしくお願いします」
伊織はもう一度軽く頭を下げると、空いている席に座った。
少しして、環が資料を手に入ってくる。
「では、始めましょうか」
すっきりとしたスーツに、乱れのない立ち姿。
海外帰りらしい余裕というか、場慣れした空気というか、とにかく仕事ができそうに見える。
顔がいいのは、まあ認める。
けれど、最初にVIPで会ったことも、金曜の夜脅してきたのも伊織は忘れない。
はあ。
本当に、この人の下で働くことになったのか。
伊織は手元のペンを持ち直した。
環はスクリーンに資料を映し、淡々と説明を始める。
「今回の案件は、飲料メーカーの低アルコール商品の販促イベントです」
半年かけて、首都圏と地方で複数回イベントを実施する。
週末現場が多く、地方出張もある。
初回までの時間もあまりない。
通常業務と並行するには、かなり重い案件だった。
環は説明の途中で、さらりと言う。
「少し重い案件ではありますが」
少し、ではない。
普通に重い。
伊織は配られた資料に目を落としながら、心の中で訂正した。
役割分担に入り、環はさらに淡々としていた。
「榊原さんは資料更新と営業側の進行補助。三枝さんは外部調整とスケジュール管理」
そして、伊織を見る。
「片瀬さんは、現場視察と当日運営まわりを中心に入ってください」
伊織は一瞬だけ顔を上げた。
現場視察。
当日運営。
ああ、やっぱり一番面倒なやつだ。
「現場は回数が多いです。片瀬さんには、できるだけ同行してもらう予定です」
「承知しました」
伊織は心の中の声が漏れないように返事をした。
便利な駒を見つけた、というわけだ。
そのあとも、会議は滞りなく進んだ。
「では、今日のところは以上です」
環が資料を閉じる。
「共有資料の更新はこのあとお願いします」
榊原と三枝が頷く。
環はそこで、何でもないように伊織を見た。
「片瀬さんは、少し残ってください」
伊織は一瞬だけ身構えた。
周囲は特に気にした様子もなく、ノートパソコンや資料を片付け始める。
新しく入ったメンバーへの個別説明。
きっと、その程度にしか思っていない。
会議室の扉が閉まり、二人だけになる。
環は資料をまとめながら、当然のように言った。
「じゃあ、行こうか」
「……どこへですか」
「会場視察」
伊織は思わず聞き返した。
「え、今からですか?」
「そう」
月曜の午後。
通常業務も残っているのに、いきなり外出。
あまりにも自然に言われて、一瞬反応が遅れた。
環はにこにこしている。
「ちなみに、片瀬さんの外出許可ももう取ってあるから安心して」
「え、いつの間に……」
環は答えなかった。
ただ、少しだけ笑う。
その沈黙が、何より嫌だった。
私に拒否権はない、ということらしい。
「荷物まとめて。ロビー集合ね」
伊織は何か言おうとした。
けれど、言葉にならない。
「……分かりました」
結局、それだけ返す。
環は満足そうに頷いて会議室を出ていった。
***
席に戻り、伊織はパソコンをロックした。
必要な資料とメモ帳をバッグに入れていると、菜々子が顔を上げる。
「片瀬さん、もう外出ですか?」
「会場視察に行くことになりました」
伊織は曖昧に笑って答える。
「え、今から?やっぱり大変そう……」
菜々子は少しだけ微妙な顔をして「頑張ってください」と言いガッツポーズをした。
「行ってきます」
伊織はそう軽く会釈して席を離れ、ロビーへ向かった。
拒否権のない日々が、始まってしまった。




