NO.7 嫌なところを見られた
「え、誰?その人」
ミナの声に、伊織は一瞬固まった。
隣には久世環。
場所は道玄坂の奥。
派手な看板と、やけに奥まった入口が目につく通り。
最悪だ。
これは絶対に何か言われる。
しかも、ごまかせる要素がひとつもない。
「あー……」
伊織は諦めたように息を吐く。
「前話した上司」
「え!あっ……!」
ミナの表情が、一瞬で変わった。
会社の上司。
土曜のVIPにいた人。
ピアスを持っていた人。
たぶん、そのあたりが一気に繋がったのだろう。
環は、そんなミナに向かってにこやかに会釈した。
「片瀬さんと同じ会社の久世環です」
その声は、さっきまで伊織に条件を突きつけていた人間とは思えないくらい、爽やかだった。
「あ、イオリのバイト先のミナです」
ミナも慌てて頭を下げる。
けれど視線は忙しい。
伊織を見て、環を見て、もう一度伊織を見る。
完全に情報処理中だった。
「……一緒にいるってことは、丸く収まった感じ……?」
ミナが、少し探るように言った。
環はにこにこしたまま答える。
「一旦は」
一旦。
その言葉に、ミナの目がまた伊織へ向いた。
伊織は一度だけ環を見る。
環は涼しい顔をしている。
「……そんな感じです」
仕方なくそう答えると、ミナは表向きだけ明るく笑った。
「あ。そうなんですね〜」
そして、すぐに伊織の方に近づき腕を掴んだ。
「すみません、ちょっといいですか?」
そのままミナに腕を引かれ、環と距離が空く。
「なに、どゆこと??」
ミナが声を潜めて詰めてくる。
「あとでちゃんと話すから……」
「絶対だからね」
「分かったから」
伊織は小さく息を吐き、環へ向き直った。
「では、ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
環は気にした様子もなく、少しだけ笑った。
「うん。じゃあ、頑張って」
その声は爽やかすぎて、余計に白々しかった。
「また月曜」
「……はい」
隣でミナが、何か言いたそうにうずうずしている。
伊織は気づかないふりをして、ミナの腕を軽く引いた。
環はそれ以上何も言わず、道玄坂の人混みの方へ歩いていった。
その背中が見えなくなった瞬間、ミナが勢いよくこちらを向く。
「ねえ、何あれ!めっちゃイケメンじゃん。全然知らなかった」
「……まあ、顔はいいかもだけど」
「顔は、って何。いや顔だけじゃなくない?なんか余裕すごくない?」
「そこはどうでもいい」
「よくない。で、どうなったの?月曜日って何?」
伊織はため息をついた。
店の入口へ向かいながら、観念して声を落とす。
「……それがさ。バイト見逃してもらうかわりに、激務を強いられそう」
「どゆこと?」
ミナが眉を寄せる。
「月曜から、その人のプロジェクトに入ることになった」
「え、会社の?」
「そう。半年くらいのイベント案件。出張と休日出勤と残業あり」
言っているだけで、少し気が重くなる。
伊織は思わず肩を落とした。
けれどミナは、そこでぱっと顔を明るくした。
「え!じゃあイケメン上司と仕事できるんだ!超いいじゃん」
「いや、よくないよ」
伊織は即座に否定した。
ミナの中では、たぶん今、何かの恋愛ドラマみたいな映像が流れている。
こちらとしては、そんな甘いものではまったくない。
「なんで?」
「こっちのシフト入れなくなるし」
そう言うと、ミナの表情が分かりやすく変わった。
「え、イオリやめちゃうの?」
今までの茶化すような声とは打って変わって、寂しそうな声音。
コロコロ表情が変わる。そんなところが憎めない。
伊織は少しだけ肩の力を抜く。
「いや、半年だけのプロジェクトって言ってたし、入れる時は入るよ」
それから、少し迷って付け足した。
「普通にこのバイト好きだし」
その言葉に、ミナの表情がぱっと顔を明るくなる。
「よかった〜!イオリいなくなったら寂しいよ〜」
ミナが伊織の腕にくっついてきた。
「近い。暑い」
伊織はそう言いながらも、目元が少しだけやわらぐのがわかった。
「冷たっ」
「そんなことないよ」
「あります〜」
ミナは笑いながら、伊織の腕を離さない。
道玄坂の喧騒を背に、二人はスタッフ用の入口へ向かった。
***
裏口を抜けると、店の音が一段近くなる。
壁越しに響く低音。タバコの香り。
スタッフルームには、ソウタとタカさんがいた。
ソウタはスマートフォンを片手にシフト表を見ていて、タカさんはドリンク用の在庫表に目を通している。
ドリ場のリーダーであるタカさんは、いつも通り落ち着いた顔をしていた。
ミナは入るなり、片手を上げてはしゃぎ出す。
「皆聞いて〜!イオリが男に送られてきてた!!」
「……!ちょっと!!」
伊織が止めるより早く、ソウタが顔を上げる。
「え、男?」
タカさんも在庫表から視線を上げた。
「イオリが?」
「しかも会社の上司」
ミナが得意げに言う。
ソウタは少し笑ってから、ふと思い出したように首を傾げた。
「……あれ?上司?」
「イオリの会社、副業禁止じゃなかった?」
伊織は少しだけ気まずくなった。
シフトにあまり入れなくなるかもしれないことは、ちゃんと話しておいた方がいい。
「……それが」
言いかけたところで、ミナがわざとらしく両手を合わせた。
「それが〜、その秘密がバレたのをきっかけに、ふたりは仲良くなっちゃったんです♡」
「ちょっと!仲良くなってないってば」
「でも送ってもらってたじゃん」
「あの人が勝手についてきただけだから」
そんな二人のやり取りを見て、ソウタは笑っていいのか迷うような顔をしていた。
タカさんも楽しそうに笑っていたが、少しだけまじめな顔をして伊織へ視線を戻す。
「本当に大丈夫?」
「一旦は……」
「一旦?」
タカさんが眉を上げる。
伊織は先ほどミナに遮られた話を続けた。
「はい。ちょっと、こっちのシフト……あんまり出られなくなりそうで」
タカさんは一瞬だけ伊織を見てから、肩の力を抜くように息を吐いた。
「なんだ、そういうことか」
「すみません」
「いや、もっと大変な話かと思った」
タカさんは安心したように笑う。
「辞めるわけじゃないんだよね?」
「はい。入れる時は入ります」
「なら大丈夫だよ。分かった時点で早めに言ってくれれば調整する」
その言い方があまりにいつも通りで、伊織は少しだけ胸の奥が緩んだ。
「……すみません」
「謝ることじゃないよ。いつもイオリには頼ってるからね」
責められると思っていたわけではない。
それでも、迷惑をかけると思っていた。
だから、タカさんがいつもと同じ調子で受け止めてくれたことに、少しだけ安心した。
ひとまず話が落ち着く。
と思ったのも束の間、ソウタがふと伊織を見た。
「……そういえばさ」
「なに」
「その上司って、前言ってたピアスの人?」
伊織は一瞬黙った。
結局またそこに戻るのか。
そう思ったところで、タカさんが眉を上げる。
「え、なにそれ」
それまで黙っていたミナが、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「二人の出会いです♡」
「ほんとやめて」
伊織が低く言う。
ミナはまったく気にせず、タカさんに事の顛末を説明し始めた。
土曜に伊織が片方のピアスをなくしたこと。
それを例の上司が拾って持っていたこと。
伊織はその横で、もうやめてほしいと思いながら、手の中のピアスを握る。
その隙に、ソウタが少しだけ声を落とした。
「それで、返してもらえたの?」
「まあね」
伊織は、ミナとタカさんの方をちらっと見た。
まだ二人はピアスの話で盛り上がっている。
というより、ミナが一方的に盛り上げている。
ソウタは、少し真面目な顔のまま続けた。
「シフト出られなくなるって……脅されてるとか?」
「うーん」
伊織は少し考える。
脅されていると言えば、そうなのかもしれない。
でも、会社の正式な仕事でもある。
「まあでも、ただの仕事だから」
「そう」
ソウタはそれ以上、すぐには聞かなかった。
少し間を置いてから言う。
「でも、無理はしないでね」
伊織は、少しだけ颯太を見る。
「……うん」
「イオリ、無理してても普通の顔するから」
「そんなことない」
「あるよ」
短く返されて、伊織は少しだけ言葉に詰まった。
その時だった。
「ねえイオリ、あの人の連絡先教えて〜!」
ミナの声が、横から勢いよく飛んできた。
「なんで」
「だってめっちゃ顔よかったし」
伊織は一瞬、頭が痛くなった。
顔だけで近づこうとするの、どうなんだ。
「教えるわけないでしょ」
伊織が却下すると、ミナは唇を尖らせた。
「えー、上司でしょ?」
「絶対無理」
そのあたりでタカさんが、軽く手を叩く。
「全員、そろそろ準備しろ」
「はーい」
ミナが返事をする。
伊織は小さくため息をついた。
「ほんと疲れる……」
***
ロッカールームで制服を手に取る。
黒のタイトなミニワンピース。
いつもの仕事着。
何度も着ているし、店では当たり前の服。
なのに、その瞬間、環の声が頭の奥を掠める。
もう一回、片瀬さんの制服姿見たいな。
顔が、少し熱くなった。
「ねえ、今上司のこと考えてたでしょ」
ミナがすぐに覗き込んでくる。
「考えてない」
「嘘ヘタ。何言われたんだ〜」
「うるさい」
ミナはにやにやしていたが、外からスタッフを呼ぶ声がして、ようやく離れた。
ホントに余計なことによく気づく。
雑念を振り払うようにフロアに出ると、重低音がいつものように響いてきた。
チカチカする照明。
耳の奥まで入り込む音。
その中にいると、頭の中が少しずつ空っぽになる。
会社のことも、久世環のことも、月曜からのことも。
今だけは、考えなくて済む。
ひどく騒がしいのに、妙に居心地がいい場所。
インカムに、タカさんの声が入る。
「イオリ、二階五番、氷追加」
「はい」
伊織はトレーを持ち直し、二階へ向かった。




