NO.6 対価は労働で
「来週から始まるプロジェクトに、片瀬さんも入ってほしい」
伊織は、しばらく返事ができなかった。
「……プロジェクト、ですか」
「そ。半年くらいのイベント案件」
環は、淡々と続けた。
「地方出張、休日出勤、残業確定。ハードなお仕事だから、みんなやりたがらないし、途中で理由つけて逃げるんだよね」
そこで、環が伊織を見る。
「その点、片瀬さんは逃げられないから」
伊織は黙った。
グラスの中で、氷が小さく鳴る。
最悪だと思った。
けれど、声には出さない。
出したところで、何かが変わるわけではない。
ここで条件を出された時点で、自分に拒否権がないことくらい分かっている。
しばらくして、伊織はようやく口を開いた。
「でも私、バイトしないとやばいんですけど」
環は、伊織の言葉を聞いて口元を緩めた。
むしろ、その反応を待っていたように。
「その点は安心して。ハードな分、特別手当つくから」
「特別手当……」
「地方出張も休日対応もある。残業も当然出る。会社の正式なプロジェクトだから、申請すればちゃんと通るよ」
伊織は黙った。
断る理由が、またひとつ消えた。
いや、最初から断れる立場ではなかったのだけれど。
「本業で稼げば問題ないでしょ」
「……それは、そうですけど」
認めたくないのに、否定もできなかった。
本業で稼げるなら、その方がいい。
そんなことは分かっている。
でも、会社は堅苦しくて疲れる。
平日だけでも十分なのに、休日まであの空気の中で働くのかと思うと、普通にしんどい。
しかも、久世環の下で。
伊織はグラスの中の氷を見た。
嫌だ。
かなり、嫌だ。
それでも伊織は何も言えなかった。
環はその沈黙を了承と受け取ったように小さく頷く。
「じゃあ決まり」
「月曜からよろしくね」
伊織は返事をしなかった。
代わりに、グラスの中の氷を見つめる。
報告されるより、そのこと理由に脅されるパターンの方がやばくない?
ミナの声が、今さら耳の奥で蘇った。
本当に、その通りだった。
環はグラスを持ち上げ、ウイスキーをひと口飲む。
それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば。本当はこの後、バイトなんでしょ」
伊織はもう否定しなかった。
嘘をつく理由がない。
「そうですよ」
「俺も行っていい?」
「……え?」
環のさらりとした言い方に、思わず素の声が出た。
「いや、来ないでください」
「もう一回、片瀬さんの制服姿見たいな」
その言葉に、顔が熱くなるのが分かった。
店では当たり前に着ている。
黒のタイトなミニワンピースも、ヒールも、薄いストッキングも、仕事着としてはむしろ気に入っていた。
それなのに、職場の上司に見られたと思った瞬間、急に恥ずかしくなる。
「やめてください」
声が思ったより硬くなった。
環は悪びれもせず、少しだけ笑う。
「職場では全然雰囲気違うから、最初信じられなかったよ。なんであんな地味な格好なの?」
「なんでもよくないですか」
「会社でも、ああいう格好すればいいのに」
「するわけないじゃないですか」
「似合ってたし」
伊織は黙った。
反応したら負けだと思うのに、頬の熱だけはどうにもならない。
環は、こちらの反応を見て面白がっている。
「昼の片瀬さんも好きだけど、あの服はかなり目が逸らせなかったな」
「ほんとにやめて」
言ってから、伊織ははっとした。
敬語が抜けた。
環の目が、ほんの少しだけ楽しそうになる。
「ごめんごめん」
まったく謝る気のない声だった。
伊織は環を睨む。
環は悪びれずにグラスを置いた。
「まあでも、お店までは送るよ」
「いいです」
「だめ」
環はさらりと言う。
「片瀬さんに拒否権ないから」
そこで伊織は、返す言葉を失った。
どうしてこの人は、こんなに嫌な言い方を選ぶのがうまいのか。
「行こうか」
伊織は諦めて小さく息を吐き、席を立った。
***
バーを出て、二人は道玄坂の方へ続く道を歩いた。
金曜の夜の渋谷は、まだ人の声で満ちている。
店の灯り、タクシーのヘッドライト、酔った人たちの笑い声。
クラブへ向かう道は、普段なら何とも思わない。
何度も歩いているし、出勤前のいつもの道だ。
けれど、道玄坂の奥、店に近づくにつれ、「休憩」の文字が書かれた看板が目につくようになる。
そこを久世環と歩いているだけで、妙に気まずかった。
伊織はなるべく横を見ないようにして、足を進めた。
しばらく歩き、路地裏のネオンが少し途切れたところで、ふと思い出す。
「そういえば」
「ん?」
環がこちらを見る。
「ピアス、返してください」
環が少しだけ目を細めた。
「片瀬さんのじゃないんじゃなかった?」
「もう、そのやり取りいります?」
「いらないね」
環は小さく笑って、ジャケットのポケットに手を入れた。
細いシルバーのチェーンが、街の光を拾って小さく揺れる。
伊織は、その動きを見ながら眉を寄せる。
「……月曜日も思ってたんですけど、なんで持ってたんですか」
環は、片方だけのピアスを指先に乗せたまま言う。
「土曜日に会った子に、また会う口実ができると思って」
「……なんですか、それ」
「案外、役に立ったでしょ」
「最低ですね」
「そうかな」
環は悪びれもせず、伊織の手元へピアスを落とした。
小さな金属の冷たさが、手のひらに残る。
伊織はそれを握りしめた。
ようやく戻ってきたはずなのに、少しもすっきりしない。
むしろ、このピアスに振り回された数日分の苛立ちだけが、手のひらに残っている気がした。
伊織は息を吐こうとした、その時だった。
「……イオリ?」
聞き慣れた声に、肩が跳ねた。
伊織は反射的に振り返る。
少し離れたところに、ミナが立っていた。
出勤前なのか、薄い上着を羽織っている。片手にはスマートフォン。たぶん店へ向かう途中だったのだろう。
ミナの視線が、伊織から環へ移った。
そして、目を丸くする。
「え、誰?その人」




