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NO.5 黙っていて欲しいなら

「どこ行くの?」


 高架下へ向かう背中に、声がかかった。


 バーにでも入ろうと、駅へ向かう人の流れから外れたところだった。

 頭上を電車が通り過ぎ、低い音が街のざわめきに重なる。


 伊織の足が止まる。


 振り返ると、久世環が立っていた。


 さっきまで女子社員に囲まれていたはずなのになぜ。

 伊織は一瞬、言葉を失う。


「……久世さんこそ、二件目は」


「抜けてきた」


 環は、何でもないことのように言った。


「どうしてですか」


「女の子一人で帰すのは危ないでしょ」


 言葉だけなら、ただの気遣いだった。

 けれど、伊織にはそうは聞こえない。


 環の視線が、伊織の背後へ流れる。駅へ向かう人の波から外れた、井の頭線の高架下へ続く道。


「送ろうと思って追いかけたら、駅じゃない方に行くから」


 それから、環はまた伊織を見る。


「気になって」


 伊織は、喉の奥が詰まるのを感じた。


 帰ると言って抜けてきたのに。

 見られていた。


「少し、買い物をして帰ろうかと」


 伊織は、取り繕うように返す。


「この時間に?」


「必要なものがあって」


「じゃあ、俺も付き合うよ」


「いえ、本当に大丈夫です」


「夜の渋谷は危ないから」


 もう、どう考えても言い逃れできない。

 伊織は一歩、後ずさった。

 けれど、その一歩より大きく、環が踏み込んでくる。


 近い。

 逃げる間もなく、息が止まった。


 高架下をもう一度、電車が走り抜ける。

 低い音がコンクリートに反響して、街のざわめきが一瞬だけ遠のいた。


 環の顔が、すぐ近くにあった。

 少し身じろぎすれば触れてしまいそうな距離で、彼は伊織を見下ろしている。


「やっぱり土曜日、クラブにいたよね」


 伊織は、すぐに否定できなかった。

 目を逸らせない。


 もう、無理だ。


 観念したように伊織は、環から視線を外した。


「素直に認めたら、黙っててくれますか」


 もう、取り繕う気にもなれなかった。

 環は、その言葉を待っていたみたいに、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、一軒付き合ってよ」


 答えにはなっていない。

 けれど、その時点で伊織に拒否権はなかった。


***


 環が選んだ店は、よりにもよって伊織の行きつけのバーだった。


 細い階段を下り、見慣れた扉が視界に入った瞬間、伊織は足を止めそうになった。


 なんでここなの。


 出勤前や仕事終わりに、一人でよく来るバー。

 隠していたわけではないけれど、環に知られるのは少しだけ癪だった。


「どうかした?」


「……いえ」


 伊織は短く答えた。

 環はそれ以上聞かず、店の扉へ手をかける。


 控えめなベルの音が、店内に小さく響いた。

 カウンターの中でグラスを拭いていたマスターが顔を上げる。


「いらっしゃ……」


 言いかけた声が、ほんの少しだけ止まった。


 マスターの視線が伊織を捉え、それから隣の環へ移る。

 伊織は目だけで合図した。


 何も聞かないで。


 マスターはすぐにグラスを置き、いつもの調子で軽く会釈する。


「いらっしゃいませ。二名様ですね」


「はい」


 環が答えた。

 伊織は軽くマスターに会釈して、カウンターの奥へ向かった。


 店内には、控えめなジャズが流れていた。

 氷がグラスに触れる音と、酒と木の匂いが漂っている。

 扉が閉まると、外の渋谷の声が少しだけ遠ざかる。


 伊織が端の席に座ると、その隣に環も腰掛けた。

 いつもの店なのに、今日は妙に落ち着かない。


 マスターが、二人の前におしぼりを置く。


「ご注文は?」


 伊織はメニューを見なかった。


「ウイスキー、ロックで」


 隣で、環が小さく笑った気配がした。


「あれ。お酒弱いんじゃなかった?」


 伊織は正面を向いたまま答える。


「もう猫かぶる必要ないですから」


 言ってから、自分でも少し投げやりだと思った。


 でも、今さらだ。

 バイトしていることも、あの店にいたことも、もうバレている。


 環は楽しそうに目を細めた。


「そっか」


 それから、マスターへ視線を向ける。


「じゃあ、俺も同じので」


「かしこまりました」


 マスターは余計なことを言わず、棚からボトルを取った。

 大きな氷がグラスに落ち、からん、と澄んだ音が鳴った。

 琥珀色の酒が、ゆっくりと注がれていく。


 やがて、二人の前にロックグラスが置かれる。


 環は何も言わず、それを軽く持ち上げた。

 伊織は一瞬だけ迷ってから、自分のグラスを寄せる。


 触れ合った音が、カウンターの上で小さく鳴った。


 そのまま、ひと口だけ飲むと、冷たい酒が舌に触れて喉の奥へ落ちていく。

 少しだけ、頭が冷えた気がした。


 隣で、環がグラスを軽く揺らす。

 氷が、からりと鳴った。


「黙っててほしいんだよね?」


 静かな声だった。

 伊織はグラスをカウンターへ置いた。


「そりゃあ、まあ」


「じゃあ、それなりの理由がないと見過ごせないかな」


 伊織はしばらく黙っていた。


 理由を話す義理はない。

 けれど、ここで黙ったままで済むとも思えなかった。

 少し考えてから、伊織は薄く笑う。


「元彼に借金、押しつけられて逃げられたんですよ」


 環の手が、わずかに止まった。


「だから、すぐにお金が欲しくて」


 口にしてみると、あまりにも出来すぎた話だった。

 元彼。借金。夜のバイト。

 安いドラマみたいで、少し笑えてくる。


 伊織はグラスの縁に指を添えたまま、環を見る。


「同情してくれますか?」


 冗談みたいに言ったつもりだった。

 本気で同情してほしいわけではないし、されても困る。


 環はすぐには返さなかった。

 さっきまでの余裕のある表情が、少しだけ消えている。


「……まじ?」


 環は一瞬だけグラスに視線を落としてから、続けた。


「それ、元彼と連絡取れないの?」


「音信不通です。どこにいるかも分かりません」


 伊織はもう一度、薄く笑った。

 環は少しだけ眉を寄せる。


「それは……まあ、普通にひどいね」


「そうですね」


「でも、バイトするにしても、ほかの店でもよかったんじゃない?」


 伊織はすぐに返事をしなかった。


 ほかの店。

 探せば、いくらでもあったのだと思う。居酒屋でも、カフェでも、事務の副業でも。バレにくそうなところはいくらでもある。


 でも、それだけでは足りなかった。


 音が大きくて、照明が派手で、誰も深く聞いてこなくて。

 違う名前で呼ばれて、違う顔で立っていられる場所。


 そういうものに、救われてしまった夜がある。

 けれど、それをこの人に話す気はない。


「……それは、時給が高かったからです」


 環は何も言わず、ただグラスへ視線を落とした。


「ふーん」


 納得していない声だった。

 けれど、それ以上は聞いてこない。


 しばらく、二人とも黙っていた。

 カウンターの向こうで、マスターが別の客のグラスを下げる音がする。


 伊織は、自分のグラスの中で溶けかけた氷を見ていた。

 やがて、環が口を開く。


「事情は分かったけどさ」


 伊織は、ゆっくり視線を上げた。


「ただ見逃すわけにはいかないかな」


 環はそこで、ようやく伊織を見る。


「条件がある」


 伊織は黙った。

 グラスの中で、氷が小さく鳴った。

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