NO.4 一緒に飲もうよ
せっかく飲み会を断ったはずなのに。
背後から余計な声がした。
「片瀬さん、来ないの?」
伊織は、指先を止めた。
振り返ると、久世環が立っている。帰り支度をしていたはずの菜々子たちも、その声に反応してこちらを見る。
伊織は一拍置いて、いつもの会社の顔で微笑んだ。
「私は、遠慮しておきます。お酒、あまり得意ではないので」
「え、みんないないと俺も行く気にならないな」
環は困ったように笑って、周囲を見る。
その言い方は、瞬く間に場の空気を味方につけた。
「久世さん、それは困ります」
「片瀬さん、行きましょうよ」
「少しだけでも」
女性社員たちがすぐに声を上げた。
伊織は笑ったまま、鞄の持ち手を握り直す。
「そんな、私がいなくても楽しいですよ」
「そうかな」
環は、何でもないような顔で伊織を見る。
「もしかして、このあと予定あった?」
伊織は一瞬息を詰める。
ただ予定を確認されただけ。
それなのに、環の瞳はすべてを見透かしているようだった。
そのくせ、こちらからは何を考えているのか分からない。
下手なことは言えない。
「……いえ。特には」
「じゃあ、行こうよ」
環がそう言うと、菜々子たちが嬉しそうに笑った。
「行きましょう、片瀬さん」
「たまには、いいじゃないですか」
断る理由は、もうほとんど残っていなかった。
伊織は、浅く息を吸う。
「……少しだけなら」
その言葉を合図にしたように、菜々子たちは明るく声を弾ませ、社員たちは連れ立ってフロアを出ていった。
***
店は会社から歩いて数分の場所にあった。
渋谷の駅を挟んで、道玄坂とは反対側。会社帰りの人間が流れ込むにはちょうどいい、明るく賑やかなダイニングバーだった。
金曜の夜らしく店内は混んでいる。テーブルの間を店員が行き来し、グラスの触れる音や笑い声が重なっていた。
伊織は、なるべく端の席に座った。
最初の一杯だけ付き合って、あとはタイミングを見て抜けよう。
人数分のグラスが運ばれてくる。
乾杯用のスパークリングだった。
細かな泡が、グラスの底から立ち上っている。
伊織がグラスを手に取ると、隣にいた菜々子が少し意外そうに目を向けた。
「片瀬さん、スパークリングは平気なんですか?」
「少しだけなら。お酒自体は好きなので」
伊織は軽く笑って、グラスを持ち直した。
「そうなんですね、よかった」
菜々子はほっとしたように笑った。
「無理に誘っちゃったかな〜って、ちょっと思ってたので」
「いえ、こういう場もたまには良いですね」
伊織はそう返して、グラスの中の泡へ視線を落とした。
「それでは、久世さんの帰任を祝して」
誰かが音頭を取り、グラスが上がる。
「乾杯」
グラス同士が軽く触れ合う。
伊織も控えめにグラスを掲げ、端の席からその輪に混ざった。
久世環のいる方は、自然と盛り上がっていた。
女性社員たちが楽しそうに話しかけ、上司もグラスを片手によく笑っている。
環はその中心で、特に声を張るでもなく、楽しそうに相槌を打っていた。
やっぱりこういう場、慣れてるんだな。
伊織は端の席でスパークリングを口にしながら、そう思った。
自分は、なるべくあの輪に混ざらないようにしよう。
帰ろうとした自分を、わざわざ引き止めた理由が分からない以上、絡まれる前に帰ったほうがいい。
そう思って、伊織はグラスを置いた。
「すみません、少しお手洗いに」
洗面台の前で手を洗いながら、伊織は鏡の中の自分を見た。
前髪も、眼鏡も、薄いリップも、会社の片瀬伊織のままだ。
乾杯もしたし、少し話もした。
これなら、もう十分だろう。
そろそろ抜けるか。
そう決めて席へ戻る。
けれど、戻る頃にはテーブルの席が少し崩れていた。
菜々子は隣の女性社員と席をずらして話し込んでいる。
上司の一人が別のテーブルへ移り、空いた席に誰かが座っていた。
伊織の席の前。
そこに、久世環がいた。
「片瀬さん、ここだったんだ」
環は、まるで偶然のように言った。
伊織は一瞬だけ足を止め、それから何でもない顔で席に戻った。
「……お疲れさまです」
「お疲れさま」
環の視線が、テーブルの上のグラスへ落ちる。
「片瀬さん、スパークリング飲めるんだ」
「少しなら」
伊織は、空になりかけたグラスの脚に指を添え、視線を落とす。
これ以上、ここにいるのはよくない。
「でも、そろそろ帰ろうと思っていたんです」
そう言って、鞄へ手を伸ばしかけた時だった。
「一緒に飲もうよ」
環が言った。
伊織の指が止まる。
「………」
心臓が嫌な音を立てた。
あの時と同じセリフ。
土曜の夜、二階のVIP席で。
低いソファに座った男が、同じ声でそう言った。
「今日は付き合ってくれるよね」
伊織は、反射的に環を見た。
しまった、と思った時には遅い。
環は、ほんの少しだけ口元を緩めている。
意地悪な笑みだった。
伊織が反応することを、最初から分かっていたような顔。
やられた。
完全に、反応した。
「俺、主役だし」
少し間を置いて、環がわざとらしくそう付け足す。
「もう一杯だけ、どう?」
環は、何でもないようにグラスを持ち上げる。
伊織は一度、息を吸った。
「……じゃあ」
少しだけ、投げやりな気分で言う。
「同じものを」
環の笑みが、ほんの少し深くなる。
「了解」
彼は店員を呼び、スパークリングを二つ頼む。
ほどなくして、スパークリングが二つ運ばれてきた。
環は片方のグラスを伊織の前へ置き、もう片方を持ち上げる。
「付き合ってくれてありがとう」
「……いえ」
伊織もグラスを持ち上げた。
軽く触れた音は、店のざわめきにすぐ紛れる。
環はひと口飲んでから、何気ない調子で言った。
「片瀬さんって、夜型なの?」
伊織の指が、グラスの脚にかかったまま止まる。
「……なんでですか?」
「いつも出社遅いから」
「ああ」
もっともらしい理由だが、探りに来てるのは明らかだ。
「まあ、早起きは少し苦手かもです」
「それは夜更かししてるから?」
環は、楽しそうに目を細める。
こいつ、分かっていて言ってるな。
伊織はグラスの中の泡へ視線を落とした。
「そういう日もあります」
「へえ」
その声に、また妙な含みがあって癇に障る。
伊織はゆっくり顔を上げた。
「そういう久世さんはどうなんですか?」
「俺?」
「女性の扱いが、ずいぶんお上手ですね」
言ってから、伊織は微笑んだ。
環は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「褒められてる?」
「どうでしょう」
「片瀬さん、意外と意地悪だね」
「久世さんほどでは」
伊織はそう返して、スパークリングに口をつけた。
環の笑みが、少しだけ深くなった。
そのあと環は、何事もなかったように当たり障りのない話を続けた。
菜々子が戻ってきて、隣の女性社員が会話に混ざる。
ただ、向かいに座る環の視線が時折こちらへ流れてくるたびに、グラスを持つ指先がわずかに強張った。
やがて皿がいくつか空になり、誰かが時計を見る。
「そろそろ出ます?」
それを合図にしたように、何人かがスマートフォンを取り出した。
「二件目どうします?」
「軽く行きましょうよ」
「久世さん、まだ行けます?」
女性社員たちの声が弾む。
伊織はそこで、ようやく鞄に手を伸ばした。
環に引き止められて、抜けるタイミングを逃していたが、帰るなら今だ。
会計を済ませ、全員で店の外へ出る。
金曜の渋谷は、まだ人の声で満ちていた。
「片瀬さんも行きます?」
菜々子に聞かれて、伊織は軽く首を振った。
「私は、二件目は遠慮しておきます」
「そっか。家、遠いんですよね」
「はい。明日も少し早いので」
「お疲れさまです。今日は来てくれて嬉しかったです」
「こちらこそ」
伊織は曖昧に笑って、軽く頭を下げた。
視界の端で、環がこちらを見ている気がした。
けれど、何も言ってこない。
ほかの社員たちにも挨拶を済ませ、伊織は駅に向かう人の流れに紛れた。
思ったより長引いたな。
そう思いながら、鞄からスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。
二十二時二十七分。
このまま店に行くには少し早い。
けれど、家に帰るほどの時間はない。
バーにでも行くか。
伊織はスマートフォンを鞄へ戻し、井の頭線の高架下へ向かう道へ足を向けた。
頭上を電車が通り過ぎ、低い音が街の声に混ざる。
その時、背後から声がした。
「どこ行くの?」
伊織の足が止まる。
振り返ると、久世環が立っていた。




