NO.3 黙っている男ほど怖い
月曜の廊下でピアスを見せられてから、数日が過ぎた。
あれから久世環は、何も言ってこない。
副業のことも、土曜の夜のことも、あのピアスのことも。
拍子抜けするほど、何もなかった。
ただ、その数日のあいだに、久世環は社内にすっかり馴染んでいった。
「久世さん、海外帰りって感じしますよね」
昼休み、隣の席で菜々子が小さく言った。
伊織はノートパソコンの画面から視線を上げる。
「そうですか?」
「なんか、スマートじゃないですか。戻ってきたばかりなのに全然ばたついてないし」
近くにいた女性社員が、紙コップを片手に頷いた。
「分かる。話し方も知的だし、困ってる人がいたらさらっと助けてくれるし」
「そうそう。押しつけがましくないんですよね」
「余裕ある感じ」
「しかもかっこいい」
最後の一言に、菜々子が小さく笑った。
伊織は、その輪の端で曖昧に微笑む。
会社で見る久世環は、たしかに感じがよかった。
誰に対しても態度が柔らかく、戻ってきたばかりとは思えないほど、社内の空気に馴染んでいる。
菜々子たちが少し浮つくのも、分からなくはない。
伊織だって、何も知らなければ、きっと同じように思った。
感じのいい人だ、と。
けれど、月曜の廊下で差し出されたピアスを思い出すと、その印象はそこで止まる。
あの人は、何を考えているのか。
「そういえば」
菜々子が、思い出したように声を落とした。
「来週から、久世さんがリーダーのプロジェクト始まるらしいですよ」
伊織の指先が、マウスの上でわずかに止まる。
「プロジェクト?」
「詳しくは知らないですけど、イベント系の大きいやつみたいです。何人か選ばれるって」
「そうなんですか」
「いいなあ。私もちょっと一緒に働いてみたいです」
菜々子は半分冗談のように笑った。
伊織は曖昧に笑って、画面へ視線を戻す。
来週から、久世環がリーダーのプロジェクト。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
***
水曜の夜、クラブは平日とは思えないほど混んでいた。
フロアには重低音が満ち、照明が人の肩や髪を青く染めていく。
二階のVIP席にも数組入り、ホールのスタッフはフロアと階段を何度も行き来していた。
伊織は黒のタイトなミニワンピースに着替え、髪を下ろしている。
耳元では、片方だけになったシルバーのピアスが揺れている。
もう片方と似たものを買おうかと思ったが、まだ買っていない。
あのピアスが、どこにあるのか分かってしまったからだ。
「ねえ、ソウタ」
伊織はバーカウンターの端で、空いたトレーを重ねていたソウタに声をかけた。
「ん?」
「土曜の二階二番にいた人って、あのあと店に来た?」
「二階二番?」
ソウタは少し考えるように眉を寄せる。
「帰国祝いっぽかった会社の人たち」
「ああ、ボトルいっぱい開けてたとこ?」
「そう」
「来てないと思うけど」
「……そっか」
「何、忘れ物?」
「まあ、そんな感じ」
伊織はそれ以上聞かず、トレーを持ち直した。
来ていない。
それだけで、少し嫌な感じがした。
「どうしたの」
横からミナが声をかけてくる。
今日のミナは髪を高い位置でまとめ、目元に細かいラメを乗せていた。ステージ前へ行く直前なのか、黒い衣装の上から薄い上着を羽織っている。
伊織は一度だけ迷ってから、声を落とした。
「会社にバレたかも」
「なんで?」
「土曜のVIPにいた人、上司だった」
ミナの表情が止まった。
「……え、こわ」
「だよね」
「でもさ、会社と今のイオリ全然違うじゃん。ワンチャン、バレてないんじゃない?」
「いや」
伊織は小さく息を吐いた。
「土曜になくしたピアス、その人が持ってて。会社でカマかけられた」
「うわ。まじか」
「一応、否定したけど……」
「やばいね」
ミナは少し考えるように伊織を見る。
「ていうか、拾ったピアス持ってるとか、絶対イオリのこと狙ってない?」
「その方がまだ良かったよ」
「うーん、そう?」
「まだ上には報告されてないみたいだけど」
伊織はトレーの縁を指で押さえた。
「……どうなるか分かんないし」
ミナはリップを直しかけていた手を止めて声を落とす。
「あ、それさ」
「報告されるより、そのこと理由に脅されるパターンの方がやばくない?」
伊織は黙った。
「イオリ、男運ないし」
「やめてよ」
「だって事実じゃん」
伊織が返事に詰まると、ミナは小さく息を吐いた。
「しばらく休めば?」
「休めるなら、とっくに休んでる」
ミナは何か言いかけて、結局やめた。
「……だよね」
フロアから歓声が上がる。
音が一段大きくなり、照明が白く弾けた。
スタッフの声がインカムに入る。
「イオリ、二階一番、氷追加」
「はい」
伊織は返事をして、トレーを持ち直した。
休めるなら、とっくに休んでいる。
やめられるなら、とっくにやめている。
そんな簡単な話なら、最初からこんな場所に立っていない。
伊織はヒールの音を鳴らし、二階へ向かう階段を上がった。
***
金曜の夕方、社内は少しだけ浮ついていた。
週末前の空気。
それに、久世環の歓迎会が重なっている。
正式なものというより、事業部の数人で軽く飲みに行く程度の会らしい。
それでも菜々子たちは朝から少し楽しそうにしていた。
伊織は自席でノートパソコンを閉じる。
今日は二十四時からバイトが入っていた。
普段から飲み会に参加するタイプではないし、今日も理由をつけて帰るつもりだった。
まして今日は、久世環がいる。
余計な関わりは避けたい。
「片瀬さん、今日の歓迎会行きます?」
菜々子が、帰り支度をしながら尋ねてきた。
伊織は鞄の中に書類をしまいながら答える。
「私は、やめておきます」
「やっぱりかぁ」
菜々子は残念そうに笑った。
「お酒、あまり得意じゃないので」
伊織はそう言って、椅子を戻す。
嘘ではない。
会社で飲む酒が得意ではない、という意味なら。
菜々子が何か言いかけた時だった。
「片瀬さん、来ないの?」
背後から声がした。
伊織は、指先を止めた。
振り返ると、久世環が立っていた。




