表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

NO.2 再会

 月曜の午前十時、オフィスはすでにいつもの速度で動いていた。


 電話の声。キーボードを叩く音。打ち合わせへ向かう社員の足音。


 週明けの空気は少し重いが、フロアにはもう仕事の時間が流れている。

 片瀬伊織は自席に鞄を置いた。


「おはようございます」


 隣の席の三浦菜々子が、伊織に気づいて顔を上げる。


「おはようございます、片瀬さん」


 菜々子の前には、すでにノートパソコンが開かれていた。画面には資料らしきファイルがいくつか並んでいる。


 伊織も椅子を引き、ノートパソコンを開いた。


 前髪はきちんと下ろし、髪は低い位置でひとつにまとめている。

 薄いベージュのブラウスに、グレーのカーディガン。伊達眼鏡の奥で、未読メールの件名を順に追う。


 目立たないように。

 印象に残りすぎないように。

 同僚とは距離を保ちつつ、仕事だけは滞りなく進める。


 それが、会社での片瀬伊織だった。


「そうだ。片瀬さん、聞きました?」


 菜々子が少し声を落として話しかけてくる。


「何をですか?」


「今日、海外案件から戻ってくる久世さん。三十歳で、かなり仕事できる人らしいですよ」


「そうなんですか」


「しかも結構かっこいいらしくて」


 菜々子が楽しそうに言うと、近くにいた女性社員も小さく反応した。


「楽しみだな〜」


 伊織はその様子に、軽く微笑んだ。


「片瀬さんは興味なさそうですね」


 菜々子が笑う。

 伊織は曖昧に笑って、画面へ視線を戻した。


 久世。


 その名前に、どこか聞き覚えがある気がした。

 どこで聞いたのだったか。

 少し考えかけたところで、フロアの前方から部長の声がした。


「皆さん、少しよろしいですか」


 ざわついていた空気が、ゆるやかに静まる。


「本日付で海外事業部から戻られた、久世環さんです」


 女性社員たちが、ほんの少しだけ色めき立った。

 伊織は何気なく顔を上げる。


 そして、一瞬だけ息が止まった。


 土曜の夜。

 渋谷のクラブ。

 二階のVIPにいた男。


 その男が、スーツを着て立っていた。

 あんなところで遊んでいたくせに、ずいぶん真面目な顔をしている。


 そう思った直後、伊織の背中に冷たいものが走った。


 まずい。

 この会社は、副業禁止だ。

 土曜の夜の自分を、あの人が覚えていたら。


 黒のタイトなミニワンピース。

 ピンヒール。

 かき上げた髪。

 薄暗いVIP席で、客の前に膝を折って酒を注いでいた自分。


 会社の片瀬伊織とは、まるで違う顔をした自分を。


 伊織は、無意識に眼鏡の縁へ指を添えた。


 大丈夫。

 そう思いたかった。


「久世です」


 環は短く挨拶を始めた。


「しばらくこちらの事業部で、いくつかの案件を見ます。よろしくお願いします」


 伊織は、視線を下げた。

 環がこちらを見たのかどうかは分からない。

 少なくとも、表立って反応はなかったように思う。


 紹介が終わり、フロアがいつもの仕事の空気に戻っていく。


「本当にかっこよかったですね」


 菜々子が小さな声で言う。

 伊織は画面を見たまま、曖昧に笑った。


 バレていないとは思いつつ、頭の端ではずっと同じ事を考えていた。


 やばい。

 副業禁止の会社で、渋谷のクラブで働いていることがバレたら洒落にならない。

 しかも上司に見られた。最悪過ぎる。


 伊織は未読メールの一番上を開きながら、小さく息を整える。


 とにかく、なるべく近づかない方がいい。

 そう決めて、いつも通りに仕事を始めた。


 午前中は、何もなかった。

 環は何人かの社員と挨拶を交わし、部長と短く打ち合わせをしていた。


 伊織の方へ来ることも、話しかけてくることもない。


 やっぱり、気づいていないのかもしれない。


 土曜の夜とは、雰囲気も服も違う。

 あの店の照明は暗かったから、よく覚えていなかったのだろう。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。


 だから、午後になって給湯室の近くを通った時も、伊織はもう環のことを強く意識していなかった。


「片瀬さん」


 背後から呼ばれて、足が止まる。

 一拍置いて振り返ると、久世環が立っていた。


「はい」


 伊織は、いつもの会社の声で返す。

 環は少し近づいてきた。


「土曜日、渋谷にいたよね」


 心臓が、嫌な跳ね方をする

 けれど伊織は、表情を動かさないように意識した。


「……何のことですか」


 環は答えない。

 ただ、土曜の夜と同じように、伊織の耳元へ顔を寄せる。


 想定外の距離に、伊織は反射的に一歩後ろへ下がった。

 環の視線が、伊織の耳元へ落ちる。


「今日はつけてないんだ」


「……?」


 何のことか、一瞬分からなかった。

 環が手を開く。


 そこに、片方だけのピアスが乗っていた。

 細いシルバーのチェーン。

 先端の小さな透明の石。

 土曜の夜、失くしたピアス。


「これ」


 環は、ピアスを指先で軽く持ち上げた。


「片瀬さんのだよね?」


 息が止まりかけた。


 店で失くしたピアスだ。

 あのあと少し探したけど、結局見つからなかった。


 それを、よりによってこの男が持っているなんて。


 最悪。


 喉元まで出かかった言葉を、伊織はどうにか飲み込んだ。

 ここで認めるわけにはいかない。


「……違います」


 声は、思ったよりも小さくなった。


 言った瞬間、自分でも分かった。

 今のは、否定になっていない。


 環は何も言わず、伊織の目を見ていた。


 やばい。

 完全に怪しまれた。


 何か言わなければと思うのに、喉がうまく動かない。


 ややあって、環が口を開く。


「そう」


 そして、少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、人違いか」


 それだけだった。

 副業の話も、土曜日の夜の話も出てこない。

 環は何事もなかったように手を下ろす。


「引き留めてごめんね」


 そう言って、廊下の向こうへ歩いていった。

 伊織は、しばらくその場から動けなかった。


 怪しまれている。

 ごまかせた、なんて思えない。


 それなのに、久世は何も追及してこなかったのはなぜなのか。

 それが余計に伊織を不安にさせる。


 やばい。


 伊織は小さく息を吐き、眼鏡の位置を直した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ