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NO.1 渋谷の夜、二番VIP

 土曜の渋谷は、夜が更けるほど熱を持つ。


 壁の向こうで、低音が鳴っていた。

 控室の床まで震わせるような音。鏡の前にはヘアアイロンとリップが並び、誰かの香水とヘアスプレーの匂いが混ざっている。


「やば、今日VIP多そうじゃない?」


 ダンサーのミナが、髪を巻きながら声を上げた。まぶたに乗せた銀のラメが、瞬きのたびに細かく光る。


「週末だからね」


 伊織はロッカーの扉を閉めながら答えた。

 黒のタイトなミニワンピース。薄い黒のストッキング。ヒール。

 かき上げた前髪と、下ろした髪が肩に落ち、耳元では細いシルバーのピアスが揺れている。


 鏡の中の自分を見て、伊織はリップの端だけを軽く直した。


「二階、もう三組入ってるって。一組、帰国祝いだか何だかで結構ボトル開けそう」


「うわ、忙しそ。ヒールで階段、ほんと嫌い」


「面倒なVIPに当たっちゃったね」


「面倒じゃないVIPなんてある?」


 伊織がそう返すと、ミナは声を上げて笑った。


「ない」


 控室の扉が開いた瞬間、音が一段強くなる。

 重低音、歓声、グラスの触れる音。店全体が、夜の奥へ沈んでいく。


 スタッフの一人が顔を出した。


「イオリ、二階の二番。スパークリング一本追加」


「はーい」


 伊織はトレーを取って、控室を出た。


 フロアはすでに熱を持っていた。

 DJブースから流れる音が、腹の奥を揺らす。青や紫の照明が走るたび、踊る人たちの輪郭が一瞬だけ浮かび上がっては消える。


 香水、アルコール、汗、煙草の残り香。

 その全部が混ざった空気を、伊織は慣れた呼吸で吸った。


 バーカウンターでスパークリングを受け取る。


「二番、盛り上がってる?」


「そこそこ。会社関係っぽい男の人たちと、女の子何人か」


「了解」


 伊織はボトルをトレーに乗せ、二階へ続く階段を上がった。

 二階のVIP席は、一階のフロアを見渡せる位置にある。


 踊る人の波と、動く照明。DJブースの光。下から上がってくる熱気。

 フロアより少しだけ音が遠い。


 二番VIPへ近づくと、笑い声がいくつか重なって聞こえた。


 入口に近い側では、男二人と女の子がグラスを合わせている。中央のソファでは、別の男が身振りを交えて何かを話し、隣の女の子が声を上げて笑っていた。


 奥の席には、少し落ち着いた空気の男が座っている。

 隣の取引先らしい男が、彼の耳元に顔を寄せた。


「久世さん、帰国祝いなんですから。今日は飲みましょうよ」


 音に混じって、全部は聞き取れない。

 けれど、久世と呼ばれた男が軽くグラスを上げたのは見えた。


「時差ボケに酒は効きますね。悪い意味で」


 近くの数人が笑う。

 伊織はその輪に深く目を留めることなく、ローテーブルの前に膝を折った。


「失礼します。スパークリングお持ちしました」


 ボトルを置き、ラベルの向きを整える。

 入口側にいた男が軽く頷いた。


「お注ぎしてよろしいですか?」


「お願い」


 伊織はボトルの口を押さえ、慣れた手つきで開けた。

 コルクの抜ける小さな音は、フロアから上がる音にすぐ紛れる。


 グラスの底から、細かな泡が立ち上がった。


「失礼します」


 伊織は手前から順にグラスへ泡を注ぎ、そのまま奥側へ回った。

 ローテーブルの端に膝を寄せ、久世と呼ばれた男の前のグラスを手に取った。


 ボトルを傾けると、淡い泡がゆっくりと満ちていく。


 その時、男がこちらへ少し身を乗り出した。


「君は踊らないの?」


 伊織はボトルを傾けたまま、耳を男の方へ寄せる。


「ホール専門なんです」


 伊織も、彼に聞こえるように顔を近づけて返した。


「もったいないね」


「踊るの苦手で」


 そう言って、伊織は注いだグラスを男の前へ置いた。

 男は少し笑った。


 伊織はそれ以上拾わず、残りのグラスへ泡を注いでいく。

 乾杯の声がいくつか上がるのを聞きながら、伊織はしゃがんだ姿勢のまま、空いたグラスとボトルをテーブルの端へ寄せていった。


 不意に肩を、軽く叩かれる。

 振り向くと、さっきの男がソファに座ったまま、こちらを見ていた。


 伊織の方が、少しだけ見上げる形になる。


「一緒に飲もうよ」


 男は、音に負けないように少し顔を寄せて言った。

 伊織は笑みを崩さない。


「誘っていただけるのは嬉しいんですけど、仕事中なので」


「仕事終わったら?」


 伊織は笑みを崩さないまま、するりと肩にかかった手を外すように立ち上がった。


 今度は伊織が、身をかがめて男の耳元へ声を落とす。


「その頃には、お兄さんが酔って忘れてますよ」


 言い終えると、伊織はすっと身体を離した。


 男はそれ以上引き止めなかった。

 ただ、グラスを傾けながら、VIP席を出ていく伊織の背中を見ていた。


 彼女が通路へ消えたあと、二番VIPにはまた別の笑い声が戻ってくる。


 男は、グラスをテーブルに置いて、スマートフォンを取り出そうとポケットに手を入れた。


 その時、足元で小さく光るものが見えた。

 照明が動くたび、ソファの端でちらりと反射している。


 環は身をかがめ、指先でそれを拾い上げた。


 ピアスだった。

 細いシルバーのチェーン。

 先端には、小さな透明の石。


 さっき、彼女の耳元で揺れていたものだ。


「どうしました、久世さん?」


 取引先に聞かれて、環は手の中のピアスを軽く握った。


「いや。何でもないです」


 返すだけなら、近くのスタッフに渡せばよかった。

 けれど環は、そうしなかった。


 名前も知らないホールの女。

 黒い制服と、揺れるピアス。

 あのフロアにいる誰よりも、なぜか目を引いた。


 もう一度会う口実には、ちょうどいい。


 環はピアスをポケットへ落とし、何食わぬ顔でグラスを取り上げた。


***


 伊織が片方のピアスがないことに気づいたのは、それから少し後だった。


 バーカウンターへ戻る途中、耳元がやけに軽い気がして、指先で触れる。

 左のピアスがない。


「あれ」


 思わず声が漏れる。

 近くを通りかかったホールスタッフのソウタが、トレーを片手に足を止めた。


「どうした?」


「ピアス、片方ない」


「落とした?」


「たぶん。二階かも」


「今見る?」


 伊織は二階へ続く階段を見た。

 けれど、インカムからすぐに声が入る。


「イオリ、四番ドリンク追加。あと二階、氷」


「……はい」


 伊織は返事をして、耳元から手を下ろした。


「あとで見る」


「了解。見つけたら拾っとく」


「ありがと」


 高いものではない。

 けれど、気に入っていた。

 夜用に買った、細く揺れるピアス。


 今は探している暇がない。

 伊織はトレーを持ち直し、バーカウンターへ向かった。


 その片方のピアスが、月曜の朝、いちばん持ち込まれたくない場所へ戻ってくることなど、この時の伊織はまだ知らなかった。

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