NO.10 なんだか楽しくなってきた
悪くない。
むしろ、少し面白い。
そう思ってしまってから、伊織は少しだけ嫌になる。
無理やり入れられたプロジェクトなのに。
少しでも面白いと思ってしまうのは、なんだか負けた気がした。
そんな伊織の気持ちなど知るはずもなく、大野と環はそのまま歩き出した。
広場の端を抜けながら、二人は代々木での見せ方を話している。
音楽と酒。
皆が同じように楽しめる場所。
ただ商品を配るだけではなく、そこに立つ人の気持ちごと考えている。
そういう企画なのだと、少しずつ分かってきた。
伊織は時々二人の会話に混ざりながら、メモを取る。
しばらく話し込んでいると、スーツの中に熱がこもり、少しだけ頭がぼんやりしてきた。
日差しが思ったより強い。
暑いな。
そう思いながら、手帳にペンを走らせる。
一通りの確認が終わり、大野が足を止め明るく笑った。
「いやー、今日は暑いのに外まで呼び出してすみませんでした」
「いえいえ、ありがとうございました」
環が軽く頭を下げる。
伊織も続いて頭を下げた。
「ありがとうございました」
「でも、全国回るの面白くなりそうですね」
大野が伊織を見て笑う。
「片瀬さんの一言で、かなり広がった気がします」
「……そうですね」
伊織は曖昧に頷いた。
どう返せばいいのか分からない。
思いつきで言っただけのことが、思いのほか気に入られてしまった。
それがくすぐったいような、居心地が悪いような、不思議な感じだった。
「じゃあ、また連絡します」
大野はそう言って、軽く手を上げる。
そのまま別件へ向かうのか、広場の反対側へ歩いていった。
大野の背中が少し離れたところで、伊織は小さく息を吐く。
その瞬間、こめかみの奥が、脈を打つように痛んだ。
あれ。
やっぱり、頭痛いかも。
さっきまで、ただ暑いだけだと思っていた。
けれど、立ち止まった途端、頭の奥にじんじんとした重さが残っているのが分かる。
気のせいではないかもしれない。
伊織はこめかみに触れかけて、やめた。
環の前で、弱ったところを見せるのは嫌だった。
「片瀬さん」
ふいに名前を呼ばれて、顔を上げる。
「はい」
「ちょっとそこ座ってて」
環が木陰近くのベンチを示した。
「え?」
「いいから」
「大丈夫……です……」
言い終える前に、環はもう歩き出していた。
こちらの返事を待つつもりは、最初からなかったらしい。
伊織は少しだけ呆れて、それから諦めてベンチに腰を下ろした。
座った途端、こめかみの奥が脈に合わせてどくどくと痛む。
あ。
これは、ちょっとまずい。
そう思って少しだけ目を閉じた。
遠くで人の声がする。
公園の木々が揺れる音。
しばらくして、足音が戻ってくる。
「大丈夫?」
瞼を開けると、環が立っていた。
手にはスポーツドリンクが一本。
気を使わせてしまった。
「……たぶん」
小さく返事をすると、環は何も言わずにペットボトルのキャップを開けてから、伊織に差し出した。
「……そこまでされなくても」
反射的に反論しかけたが、いつもの軽い笑みがなかったので、伊織はそれ以上何も言えなかった。
素直にボトルを受け取ると、ひんやりとした温度が手に触れ気持ちがいい。
「……ありがとうございます」
そう言って、スポーツドリンクを少しずつ口に含んだ。
喉の奥から体に冷たさが落ちていく。
環は少し間を空けて、隣に腰を下ろした。
この間のバーよりも、少しだけ近い。
「この時期が一番危ないんだよ」
環は公園の方へ視線を向けて、何でもないふうに言う。
「真夏じゃなくてですか」
伊織はペットボトルに視線を落としながら聞いた。
「初夏は、まだ体が暑さに慣れてないから。あとは油断だね」
伊織は返せなかった。
実際、自分もそう思っていた。
まだそこまで暑くないからと。
油断して環に迷惑をかけた。
「片瀬さんて、やっぱり昼間は活動時間外なの?」
急に想像していなかった言葉を投げられ、伊織はボトルを持ったまま環を見る。
「……どういう意味ですか」
「夜は似合うけど、日の下を歩いてるのはあまり想像できないから」
気持ちは分からなくないが、なんとも雑な感想だ。
少しだけ話すのがめんどうになって適当に返す。
「そうでしょうか」
「うん。あとさ、ご飯もちゃんと食べないと駄目だよ。睡眠も」
そこまで聞いて、伊織はようやく気づく。
たぶん、わざと軽くしている。
そう分かると、余計に居心地が悪かった。
環にそうされるのは、なんだか落ち着かない。
「急に保護者みたいなこと言いますね」
環は、伊織が軽口を叩き出したのをみて少しだけ口元をゆるめる。
「どうせ毎日、不健康な生活してるんでしょ」
「……そんなことないです」
そう言いつつも、図星を突かれて視線を逸らす。
そんな伊織の本心を知ってか知らずか、環は少し笑って続けた。
「このプロジェクト、ハードだから。体調管理、ちゃんとして」
さっきまでのからかうような声より、少しだけ落ち着いていた。
伊織は視線をボトルへ落とす。
「……分かりました」
今回は環の言う通りだった。
しばらくベンチに座っていると、頭痛はまだ残っていたが、さっきよりはだいぶ落ち着いてきた。
伊織はスポーツドリンクのボトルを両手で持ったまま、ゆっくり息を吐く。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「よかった」
環は短くそう言って、スマートフォンを取り出した。
「じゃあ今日はもう家帰って。タクシー呼ぶ」
伊織は顔を上げる。
「いや、本当に大丈夫です。まだ仕事残ってますし……」
「駄目」
即答だった。
「休むのも仕事だから。家帰ったら、ご飯食べてちゃんと寝て」
「……いやでも」
「片瀬さんに拒否権はないよ」
その言葉に、伊織は一瞬だけ言葉に詰まる。
こういう時にそれを言うのか……。
さんざん振り回しておいて、心配するなんて何なんだろう。
伊織は視線を落とし、何も言えずに手の中のボトルを少し握り直した。
環は画面に視線を落としたまま、タクシーを手配している。
ほどなくして、タクシーが到着した。
伊織が乗り込むと、環はドアの外から重ねるように言った。
「家ついたら連絡して」
「……それ必要ですか」
少し過剰なような気がして、むすっとした声で答える。
「当たり前でしょ。どこかで倒れてたら心配だからね」
こんなにまっすぐに心配されるのはなんだか慣れない。
少しだけ目を逸らしてから、小さくつぶやいた。
「……分かりました」
その返事を聞いて環が軽く頷く。
ドアが閉まり、タクシーがゆっくりと走り出した。
***
環はその場に立ったまま、タクシーが角を曲がるまで見送っていた。
白い車体が見えなくなってから、短く息を吐く。
無理をさせた。
クラブで見た彼女は、もっと分かりやすい人間に見えた。
自分をあしらったように、嫌なものは嫌だと言う。
無理はしないタイプだと思っていた。
けれど、違った。
片瀬伊織は、不満は顔に出す。
文句も言う。
言い返す時は、ちゃんと言い返してくる。
それなのに、本当にまずいことほど、平気な顔で飲み込む。
それに気づかなかった自分に、無性に腹がたった。
役に立つと思った。
実際、今日の彼女はよく見ていたし、思いつきの一言も悪くなかった。
だからこそ、連れ回した。
その結果がこれだ。
環はまだ少し熱の残る代々木の空を見上げる。
この苛立ちが、自分の判断ミスに対するものなのか。
それとも、彼女が平気な顔で無理を飲み込んでいたことに対するものなのか。
環には、まだ分からなかった。




